9歳の少年ガーシュインが、天才少年といわれたマックスのヴァイオリンをきいてから、
衝撃を受けた彼は、楽器を、特にピアノを習いたいという気持ちが強まり、
全く偶然に友達の地下室でほこりをかぶった古いピアノを見つけ、
それ以来、ジョージはほとんど毎日友達の家の地下へ行っては、
有名なヒットソングを聴き覚えで弾いていました。
そして、12歳になって初めて叔母からピアノのレッスンを受け、瞬く間に上達したばかりか、
不思議に新しいメロディーが自然に表現されていました!
その後、ピアニスト兼作曲家についたジョージは、アメリカの軽音楽に目覚め、
15歳でレストハウスでヒットソングを演奏する仕事を始めます。
そして、初めて、自作の曲が大成功を収め、音楽商会のボスのところで専属ピアニストになり、
次々と自分の曲を出版社に送ります。
そして、1918年、アメリカが第1次世界大戦の勝利国となり、人々が熱狂し、レビューがもてはやされるようになった頃、
ガーシュインは時代の寵児になったのです!
1923年に「パリのアメリカ人」は大ヒット!同じ年にあの「ラプソディー・イン・ブルー」も生まれ、巨額な収益をもたらしました!
上の写真は、「ラプソディ・イン・ブルー」を初演したときの、ポール・ホワイトマン楽団、下の写真は、39歳の若さで没した晩年のガーシュイン。
「ラプソディ・イン・ブルー」の初演は、冒頭の響きが、たちまち聴衆をしびれさせたといわれています。
ガーシュインのお墓の映像があったので、続きは、
’ピアノと海と花との生活 Ⅱ’に移って、最後のガーシュインをたどります。
今日は、大変申し訳ないですが、続きは、下の★マークか、’ピアノと海と花との生活 Ⅱ ’の文字をクリックして下さいね!
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明日は、その他のニューヨークの写真と、ミニコンサートのご案内が出来ると思いますので、お楽しみに!
★ ピアノと海と花との生活 Ⅱ
ほんとに、すごい仕事をしてあっという間に亡くなったんですね!モーツァルト35歳、シューベルト31歳、メンデルスゾーン38歳、早すぎる死でしたね。
ガーシュインは1932年、初のヨーロッパ旅行をして、パリに魅了されて、「パリのアメリカ人」がうまれました。
晩年(といっても30代ですが)彼自身の楽譜出版社も設立して、ハリウッドに購入した美しい別荘でも、仕事の山になり、度重なる頭痛で、痛みの間に仕事をしていたようです。その間は,憑かれたように作曲していたそうです。
のだめCD買ったのですか
この売り上げすごいらしいですね!
ちあき先輩かっこいいね!私は、個人的に’ますみちゃん’前のドラマで大ファンになってたんだけど、このドラマでは、複雑です~(笑)
私も原作読まないで、ドラマだけ見ているパターンですけど、読んだら絶対!はまるね!
昔の漫画でも、音大生をあつかったもの多かったんですよ。池田理代子さんの「オルフェイスの窓」とか…(古い!)よく読みました
それにしても、大きなお墓ですねぇ・・ やはりN.Y.にあるのですか?
今日は、午前中の早い時間に、ミニコンサートの打ち合わせに出て、コメント遅くなりました!
「CRAZY FOR YOU」はガーシュインの名曲がふんだんい盛り込まれたミュージカル!
彼のデビューは,まさに時代にぴったり合っていたのですね。人々が、快楽を求めて、熱狂する音楽を切望したときに、ガーシュインは次々と、レビューやミュージカルのヒット作を生み出します。その当時の世界中のどの作曲家よりも、多くの収入を得ていたのですが、派手な浪費は彼にあわず、つましく暮らしていたそうです。
さっきの続きになりますが、1928年、彼はヨーロッパを旅して、印象主義のラヴェルや,ロシアのプロコフィエフに会い、帰国後、ニューヨークの摩天楼の平屋根の上にあるユニークな小さな家を購入し、お兄さんのアイラと、世界都市の真ん中で、全く静かな場所で、仕事に集中したそうです。最後にハリウッドに移ったわけですね。
ガーシュインのこの家の壁は、現代アートで埋め尽くされていたとか…
昨日、ギターの子と、今後のコンサートの曲決めなどしましたが、ここしばらくは金沢で、小さいコンサートをどんどんしていこうと思っています。
東京で何かあったらお知らせしますね
ヨシコさんはたぶん知ってると思うんだけど、僕はいつからも、優秀な作曲家になりたいという憧れがあったんですよ。だけど、作曲を始める前には、ピアノの音のニュアンスなどをもっと理解できるために、自分のテクニックをできるだけ上達させたいんだ。
というわけで、これからもその夢を実現するように、お互いに頑張ろう。
連弾を早く弾けるといいね。また楽譜貸して?後2ページだけ練習しないと。(笑)