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八重山 【2】

2017年02月25日 00時02分12秒 | 日記

 八重山諸島は、日本最南端の波照間島・最西端の与那国島はいずれも有人島で

11の有人島と無人島22から成る島嶼群である

 

八重山では「やいや」沖縄本島「えーま」と呼んでいるが

八重山の名称の由来には諸説ある「中山伝信録」(1719年)には

「八重山一名北木山土名彜師加記、又名爺馬」と記述がある

彜師加記は「いしがき」「爺馬」」は「やま」と読むとされる

「八重山」は「爺馬」=「やま」への当て字であるとされている

 

沖縄の歴史に登場してくるのは、14世紀末頃

琉球王府が編纂した史書である「球陽」には

1390年に宮古と八重山が中山王察度に入貢したと記述がある

 

沖縄の歴史は、舜天王統・英祖王統に続く3番目の王統は

この察度王から始まる

 

1372年琉球から初めて中国明王朝に朝貢したのは

この察度王である

 

そうして、尚氏第一王統が7代続いて63年

その後、尚氏第二王統が19代続いて410年

 

この第二尚氏王統の3代目の尚真王の時

八重山諸島は深い関わりを持つようになる

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八重山 【1】

2017年02月20日 00時00分44秒 | 日記

 宮古島・八重山・尖閣列島を先島諸島と総称される

八重山諸島には、中心と成る石垣島始め

小浜島、黒島、新城島(上地・下地)西表島、鳩間島

由布島、波照間島、与那国島、竹富島と11の有人島と

尖閣諸島と及び、22の無人島からの島嶼群で成っていて

 

八重山諸島とは島々の総称である

 

西表島が沖縄本島に次いで2番目に大きく石垣島が3番目に大きい

行政区分では、与那国島が与那国町、

石垣島が石垣市、竹富島と8島を含め竹富町

 

八重山諸島は、1市2町と、尖閣諸島を含め

22の無人島から構成されている

 

石垣島が八重山諸島の政治・経済、教育、交通、文化の中心地となっている

人口 55、090人(2016年7月現在)

 

八重山諸島は、豊かな自然と独自の歴史や文化を有し

古くから受け継がれてきた民話、伝説、芸能

伝統的神事祭祀が数多く存在している

 

島々には主な22のビーチがある

コバルトブルーの海、真っ白な砂浜

ダイビング・シュノケリング・サーフィインなど

アクティビティでおもう存分に楽しめる

 

琉球国が14世紀頃から、中国明朝(1368~1644年)の朝貢体制に入り

八重山諸島は海上交易の中継地として重要性を増していくなか

15世紀頃、琉球国の侵攻を受け琉球国に統治される

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宮古 【11】

2017年02月15日 00時03分05秒 | 日記

   人頭税 <2>

 人頭税は15歳から50歳までの全ての島民に

収入のある、なし、に関わらず一定の納税をしなければならなかった

 

島民にとって過酷な人頭税システムであった

納税は全て物納での納税であった

 

男は穀物(主に粟)海産物などで、女性は織物を王府は求めた

そのため集落ごとに、宮古上布を織る施設方言でブンミヤーが設けられた

 

ブー(糸)、ンミ(績)、ヤー(屋・建物)糸績屋と呼ばれる

工房と染め屋が設けられ手積・織り・染めの分業制で

島の女性は朝早くから陽が落ちるまでブンミヤーに詰めて

半強制的な環境の中であった

 

仕事は役人の監視の中厳しい品質管理体制で

何度かの検査を受け合格して初めて貢納布として認められた

 

人頭税の過酷さを物語るエピソードは数多く残されている

個人の能力、体力は考慮されなかったため

嬰児殺し、滞納者への厳しい罰則、債務が増え奴隷のよう名子(なぐ)

他島への逃亡など、人頭税にまつわる悲劇、伝説、民謡、遺跡など

数多く語り継がれ歌われている

 

上地め主ぬ布納みアーグ・石嶺のあこう木ぬアーグ・豆が花アーグ

人頭税廃止のアーグなどの民謡として歌われ残っている

 

過酷な人頭税制度は1637年に始まり

実に266年続いて1903年(明治35年)に廃止になる

 

廃止のために、新潟県出身の中村十作、沖縄県出身の城間正案

島民代表の平良真牛、西里溝の4人の大きな働きがあった

 

琉球国は、1879年(明治12年)に沖縄県になるが

沖縄人自ら(政治家)人頭税廃止に

働きかけたと言う事はなかったといわれている・・・?

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宮古 【10】

2017年02月10日 00時03分26秒 | 日記

  人頭税 <1>

 宮古諸島は15世紀ごろ(13世紀説もある)から

琉球国の統治化に入ったとされている

 

1390年頃宮古島を支配していた

与那覇勢頭豊見親(よなはせどとゆみや)が

琉球の中山王察度(1350~1396年)に朝貢を行い臣下の意を示す

 

仲宗根豊見親が、1474年尚円王(1470~1476年)

(尚真王と言う説もある)に、貢物を献上し臣下の意を示す

 

宮古諸島が1532年頃実質的に琉球国の支配下に入り

役人が派遣され蔵元(役所)が設置される

 

1609年から琉球国は薩摩藩の支配にあり

その薩摩藩への年貢を納めていた

琉球国は財政的に困窮していた財政を立て直すため

以前から差別的扱いをしていた先島諸島(八重山・宮古)のみに

1637年に人頭税を課する政策をとった

 

対象は15歳から50歳までの住民に

身分・性別・年齢によって細かい等級に分けていた

 

平民(百姓)の上男女21~40歳・中男女41~45歳

下男女46~50歳・下下男女15~20歳に区分されていた

15歳から50歳の男女全員である

 

施行当時は「頭懸:正頭」と呼ばれていた人頭税

人頭税と言う税制は過酷を極めた

 

宮古島には川が無いため水が少なく

旱魃や台風塩害が多い島で収穫物など生産量がほとんどない年でも

生活するための収入が無くても

一定額は人頭で納税しなければならなかった

 

人頭税の支払いのために働き

人頭税のために生き

奴隷のような一生であったと伝えられている

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宮古 【9】

2017年02月05日 00時01分14秒 | 日記

   宮古上布 <4>

 宮古上布は材料の苧麻(ブー)の栽培から

手紡ぎ・絣括り・図案・染め・織・洗濯加工(砧打ち)を

終えた布は検査員によって検査が行われ合格した布には

 

宮古織物事業協同組合の登録商標

沖縄県伝統工芸品のマーク

沖縄の検査済証

経済産業大臣指定伝統的工芸品のマークが貼り付けされて

 

始めて宮古上布として商品と成る

 

宮古上布の一反の値段は

百数十万から二百万円以上の価格で販売されている

 

宮古上布はフォーマルウェアではなく夏の普段着である

数百万もする普段着としては高価である

 

値段だけ見れば高いと思われるが

多くの人の手間と、多くの時間が掛っている

 

宮古上布は永い歴史を持っているが

存続の危機に直面していると言われて久しい

職人の高齢化、後継者不足、生計を立てる仕事に成っていない

 

1972年に1,049反を最高に年々に減少し

1993年には24反まで減り

現在では年に10反~20反あまり織られている

 

この生産数は検査を受けた宮古上布として数えられた数字である

(検査を受けていない宮古上布は数多くある)

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宮古 【8】

2017年02月01日 18時07分41秒 | 日記

  宮古上布 <3>

日本を代表する上布

越後上布・能登上布・近衛上布そうして宮古上布は

日本四代上布と言われて、愛され大切にされてきた

 

宮古上布の最盛期は(1924年)には生産量は一万八千七百二反で

宮古島のほとんどの女性が上布折に従事していたと言われる

 

全ての工程は宮古島の中で400年以上受け継がれ

品質保持に努力されてきた

 

宮古上布は大正時代には最高の技術を誇り

1942年にベルギー国ブリュセルの万国博覧会において銀賞を受ける

日本麻織物の最高優秀品栄誉も受けている

 

1975年に経済産業大臣より伝統工芸品に指定を受ける

1978年国の重要無形文化財に認定

2003年糸積技術が国選定保存技術と成っている

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