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人生黄昏時

 老いを心身ともに感じ

  日々の生活で思った事を記す
  

今帰仁城【2】

2016年02月25日 00時04分43秒 | 日記

  今帰仁城跡 <2>

今帰仁城は私が育ったシマ(今泊)に、

1915年に管理を委任される


今帰仁城を、グスク(城)・北山(北の島の意味)城と呼んでいた

今帰仁城と言う呼び名は

成人に成ってから知ることになる


今帰仁村(そん)には

多くの拝所や墳墓、祠、御嶽などが点在している

グスク内にも幾つかの拝所があり

歴史上の監守時代の碑

志慶真乙樽(しじまうとざる)の歌碑などがある


城下に以前(薩摩軍侵攻1609年前)あった

シマ跡にも幾つかの御願所がる


グスクの後方に

琉球開闢七御嶽の一つクバ(クボ)御嶽がある

これらの聖地を巡礼するのが今帰仁ぬぶい(上り)といって

現在でも多くの巡礼者が訪れている


これらの拝所には

数百年に及ぶ北山城の興亡の歴史が

口伝、野史、一門の家譜などによって語り継がれている


今帰仁城【1】

2016年02月20日 00時04分19秒 | 日記

  今帰仁城跡 <1>

今帰仁城は北山城とも称され

沖縄県国頭郡今帰仁村今泊に在る


築城された年代は明確になっておらず

発掘調査などによって


13世紀頃から築城が始まったと

推測されているが誰によって築かれたか

その歴史的には不明な点が多い


北山城は標高100メートルほどの丘上に築かれ

城の北と東は70~80メートルの

渓谷になって急斜面となっている


城郭は約1500メートルの外周、高さ3メートルの

石灰岩を積み上げて造られた城壁、高い所は8メートル

自然の地形に沿って曲線を描いた城壁に囲まで美しい


また堅固で防衛上極めて優れた地形となっている

南北350メートル、東西800メートル、面積37.000㎡

県内最大級の城として知られている


城から国頭の山並み辺戸岬

晴れた日には与論島も眺めることができる

海の上に浮かぶ伊平屋島、伊是名島が見える


今帰仁城跡は2000年11月に

琉球王国グスク(城)及び関連遺産群として

ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録


名称は今帰仁城跡

2006年4月6日、日本100名城98番に選定された


今帰仁 【24】

2016年02月15日 00時03分28秒 | 日記

  今泊 <5>

今帰仁ノロは

旧今帰仁シマ、志慶真シマ、親泊シマの神事

北山グスク内や、周辺の拝所、御嶽などの

祭祀を執り行ったノロである


今帰仁ノロは

1609年の薩摩軍侵攻によって麓の海岸沿いに

集落ごと移住してきた

その頃から存在していたとしたら


単純に400年前から続いている今帰仁ノロになる

今帰仁ノロ殿内には


仲尾次家の位牌と

ノロの位牌と別々にあり、ノロの位牌は上段

下段とあり上段に八枚あるが判読できない


下段に1代~六代のノロの名前が記されている

七代、八代、九代のノロと続いてきたが

代理ノロのためこの位牌には記されていないと云う


今帰仁ノロは仲尾次家から出て

代々継承され続けて


現在に至っているが代理ノロは

仲尾次家の位牌に記されている


また、ノロ墓に20基の厨子甕があると言う

ノロ墓には本ノロのみが葬られ

代理ノロは、ノロ墓に葬られることなく

仲尾次家の墓に入っている


今帰仁ノロは現在も代理ノロが

祭祀を執り行っている

今帰仁ノロは今で言う

地方公務員である


作得表高 米3石8合9勺8丈

雑穀物 3石4斗1升4合5勺5丈

社禄の給与額(1910年)200円(証券)

12円80銭(現金)などの記録がある


今帰仁 【23】

2016年02月10日 00時07分48秒 | 日記

 今泊 <4>

今帰仁阿応理屋恵とは

琉球王国の神事

祭祀を執り行う神職、神女である


聞得大君を頂点に

その下に高級神女三十三君おりその一人が

今帰仁阿応理屋恵である


今帰仁阿応理屋恵は

山原(北部)地方のムラやシマの祭祀を管轄する

ノロ、神人を統括、年中の神事祭司を執り行う


阿応理屋恵になるには

特別な霊力は直接的な関係はなく


今帰仁按司(城主)あるいは

阿応理屋恵の娘、孫が継承していた


また、他家から嫁いで

阿応理屋恵職を受け継いでいる

五世克此、六世縄祖、七世従宣今帰仁管守の

正室が阿応理屋恵となっている


阿応理屋恵職は今で言う

国家公務員である

給与、土地、穀物などが与えられる


1899年 火の神、社殿:2間方、境界:116坪

社禄13石6升、孫ヨリ31戸


1910年 社禄 給与額250円(証券)

11円28銭(現金)などの記録がある


今帰仁 【22】

2016年02月05日 00時04分22秒 | 日記

  今泊 <3>

今泊ムラ(あざ)は北山グスク周辺にあったが

1609年に薩摩軍の侵攻によってムラは破壊され


麓の海岸沿いに移動して

400年近くになる


ムラ内は道が格子のように並んでいる

碁盤目ではなく格子と言われるのは


道が交差するところが少しずれている

この道は意図的に造られて


ずれた部分に石敢當が

魔除けのために設置されている


今泊ムラ内は福木並木があり

私が子供の頃

北山グスクに登って見るムラ全体が

福木に覆われて家屋が見えなかった


現在も部分的であるが多く残っている

福木は並べて植栽すると緑の壁のようになり


防風林、防潮林となり

高さ20メートルにもなる


ムラのほぼ中央部分に東から西にかけて

約200メートルのフプミチ(大きい道)がある


マーウィ跡(馬場)で

5年廻りに行われる

豊年祭の会場となっている


今帰仁阿応理屋恵殿内は

マーウィの東側の角に屋敷跡がある


また、200メートル南に御殿屋敷(北山城按司の別宅)

今帰仁ノロ殿内もムラ内にある


今帰仁 【21】

2016年02月01日 00時03分18秒 | 日記

 今泊 <2>

北山グスク時代城へ登る道は

ハンタ道が主要道路であった


入口にエーガ(親川)があり

昔から枯れることなく

水が湧き出ている


飲み水、生活用水、水田として

利用されてきた湧水で


ムラにとって命の水である

昔から大切にされたエーガである


今では、拝所となり

カーウガミと言って多くの人が御願をしている


ハンタ道を登ると北山グスク城下の

ハンタ原、アタイ原に至る


一帯は今帰仁ムラ、親泊ムラ跡で

阿応理屋恵殿内

今帰仁ノロ殿内

共ノカネイノロ殿内

旧家、ムラの家々の跡があったことがわかる


現在では、トゥムヌハニ火神

アオリヤエノドゥチ火神

今帰仁ノロドゥチ火神の

祠があり拝所となっている


1609年薩摩軍の琉球侵攻によって

今帰仁ムラ、親泊ムラは、焼き払われて


そのため、麓に移動して出来たのが

現在の今泊シマである