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琉球開闢説話【3】

2019年07月25日 00時00分30秒 | 日記

  宮古、島々の国創りと始祖コガタリ(説話)

宮古諸島には、ハ百以上の御嶽が存在し

その中で由緒があり最高の聖地として

 

現在でも厚い信仰を集めているピヤルミジ(漲水)御嶽がある

通称ツカサヤーと呼ばれるこの御嶽(拝所)は

 

天帝(最高神)に命じられた、男神古意角(こいかく)と

女神姑依玉(こいたま)は、盛加神(もりかの)を始め

 

ハ神百神(やそかむももかな)を従え

地上に降りた場所だとされている

 

宮古島御嶽由来記

宮古島の神話・伝説・昔物語をまとめた書によれば

古意角が地上の守護神になることを天帝に願い出ると

 

天帝はこれを祝福し、天の岩戸の先端を折って

下界の大海原に投げ入れ、宮古の島々を創られた

 

天帝は次に赤土を下し、後に黒土を下した

宮古の島々は五穀が豊かに実るようになった

 

天帝は古意角に下界に降りて

人の世建をして守護神と成れと命じた

 

古意角は天帝に「我に足りない片方の身体を賜え」と

天帝は五体備わって何の不足かと問うと

 

古意角は「すべて陽あれば陰あり陰あれば必ず陽あり」と問答を経て

天帝は古意角の願いを聞き入れ女神姑依玉の共を認めた

 

古意角は姑依玉を伴い現在の漲水御嶽のある所に降臨し

二神は多くの神々を産み、その子孫が繁栄し

宮古島々の住民となったと言う

 

島々の創造・人類創世のコガタリを祀った漲水御嶽は

宮古島々に数多い御嶽の中でも漲水御嶽は最高の聖地として

崇め強い信仰を有し大切に守られている

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琉球開闢説話【2】

2019年07月20日 00時00分27秒 | 日記

 八重山諸島波照間島富嘉ムラの始祖説話

昔、大昔の島民は道徳心が乱れ

乱れきった世を天の神は罰するため

 

生きるもの、全てを焼き殺す、熱い油の雨(アバーミ)を

降らし全ての生き物を焼き殺した

 

バショーチィと言う洞窟に逃げ隠れた

兄妹だけが生き残った

 

そして、生き残った二人に最初の子供が生まれた

海水で洗うと、ホーブと言う魚になった

 

また、二番目の子供が生まれ

海水で洗うと海のムカデになった

 

それから、二人は洞窟を出て住まいを

ヤグ(富嘉)のミシクに片屋根の小屋を建てて住まいとした

 

その後シライシ(出産の石)の近くで、三番目の子供を産んだ

その子供を清水で洗うと最初の人間の子となった

 

その子供はアラマリヌパーと呼ばれ

波照間島の人々の祖先となった

 

アラマリヌバーとは、新生の女性と言う意味である

アラマリヌパーを祀ったと言われる墓が

保多盛家に言い伝えられている

 

保多盛家はアラマリヌパーの子孫であると言われ

富嘉ムラの宗家とされ

 

その血筋の女性が代々シカー(司)を受け継ぎ

アースクワー(阿底御嶽)のシカーとなっている

 

なお波照間島には何種類の

始祖神話が存在している

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琉球開闢説話【1】

2019年07月15日 00時07分45秒 | 日記

  沖縄本島と隣接する島々と

宮古諸島・八重山諸島の島々に

 

さまざまな形態の、国創りと

人類始祖の開闢説話

 

穀物起源説などが多数存在し

それぞれの地域で伝承されている

 

その中で、主な国創り、人類創世

穀物起源説を取り上げてみたい

 

八重山諸島の波照間島富嘉ムラの始祖説話

 

宮古島の国創りと始祖説話

 

沖縄本島の近くの古宇利島の始祖説話

 

それから沖縄の歴史書中山世管(1650年)や

 

球陽((1743~1876年)

 

おもろそうし(1531~1623年)などに

 

記録されている琉球開闢説話を

 

サラット紹介したい

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ジーワイ【3】

2019年07月10日 00時00分17秒 | 日記

 久高島はジーワイ制度と総有地守るため

1988年に「字久高島土地憲章」を制定した

 

この土地憲章は4、沖縄全地域で

リゾート開発が行われていた

久高島でもリゾート計画の打診があった

それは島の半分以上を占める計画であったため

住民は開発に反対した

 

先祖代々の土地を守ろうと動きの中から

土地憲章が住民の総意によって制定されたのである

 

        土地憲章の前文

「久高島の土地は従来字久高の総有に属し

字民は、これら父祖伝来の土地について使用収益の権利を

亭有して現在に至る字は、この慣行を基本的に維持しつつ

 

良好な自然環境や集落景観の保持と土地の公正かつ適切な

利用管理との両立を目指すものである」

と明文化された

 

島内はほとんど観光開発されず

島は昔ながらの風景を残している

 

久高島は現在も、ジーワイ(土割)制度を

今後も維持し守ることになっている

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ジーワイ【2】

2019年07月05日 00時00分50秒 | 日記

  沖縄のジーワイ制度は、他の都道府県よりも

三十年遅れて、1899年から1903年(明治36年)に

沖縄土地整理事業が制定、公布され土地地割制度が廃止された

 

沖縄も他の県と同様に土地の私的所有権が認められたのである

だが久高島では個人が土地を所有することはなかった

 

久高島の土地は当時の代表者など十五人の共有とされた

なぜか、そのように認められたのである

これは全国的に異例のことであったと言われている

 

代表者十五人ほかの共有とされたまま

第二次世界大戦後まで維持されたままだった

 

1968年に土地は字(あざ)久高島の名義に

所有権保存登記され現在に至っている

 

現在久高島の土地は、字の有地(総有)のほか

国有地・村有地・民間地がある

 

民間地は、ノロ・根人の宅地、畑など島の全体の、約八%

私有地は沖縄電変所地、〇%

 

村有地は学校用地など、七%

国有地は海岸線など、十三%

 

久高島、字有地(総有地)は

島全体の七十一%、になっている

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ジーワイ【1】

2019年07月01日 00時00分31秒 | 日記

  久高島のジーワイ(地割)

沖縄は明治以前、沖縄全域でジーワイ制度であった

 

ジーワイとは集落内の土地を共有(総有)し

一定面積を区分し住民に分与し一定期間ごとに割り替えをする

制度でこの割り替え制を、ジーワイと称した

 

北は北海道から南は沖縄列島まで行っていた割り替え制は

奈良時代から行われていたとされている

 

沖縄で始まったのは古琉球からあったとする説

近世から始まったと節、薩摩藩が琉球に侵攻(1609年)後

薩摩から導入されたとする説があり、いまだに確定していない

 

琉球王朝時代、土地は全て国の所有で

原則的に個人の所有はなかった

 

王府に仕える、間切(村)の地頭が

その間切の集落ごとに一定の土地を与え

 

集落の農民たちが協議」の上で個人、家族単位に

不公平が出ないように数個所の土地を分散し平等に配分した

 

ジーワイ(地割)の仕方は集落によって独自に決めていた

期間は主に2年から長い期間は25年もあり

また年限を決めていないムラもあった

 

期間が過ぎると再び割り当て直した

年貢は、個人ではなく集落全体で上納していた

 

このジーワイ制度は、1903年(明治36年)まで

沖縄では行われていただが久高島では現在も

ジーワイ制度おこなわれ続けられている

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