与那国島は
15世紀以前の史料はほとんど無い
14世紀後半から各集落に按司あらわれ
始めて大竹祖納堂佐が島を統治する
1500年頃女首長サンアイ イソバが与那国を統治していた
宮古諸島を統治していた、空広(仲宗根豊見親)の
嫡男の仲屋金盛が琉球王府の許しをえて
与那国に侵攻して来たが
サンアイ イソバ軍が反撃撃退し島を守った
1522年頃、鬼虎が統治していた
琉球国命より宮古軍が攻め滅ぼした
与那国島は小国だが独立国であった
与那国島を含め八重山諸島全域が琉球国の支配下になる
1637年宮古・八重山諸島だけに
人頭税制度が施行された
この人頭税は穀物の収穫に関係なく
15歳~50歳の全ての人の頭数によって徴収された
制度は与那国島の人々は
この重い年貢に苦しむことになる
人頭税を少しでも軽減するために
人口制限が行われた、久部良割(クブラバリ)がある
クブラバリは幅3メートルある岩の裂け目
深さ7メートルを島の全員の妊婦を集め
この裂け目を飛び越えさせた
飛び越えた妊婦だけが生きのこり
飛び越える事が出来なかった妊婦は
流産するか子供共々死んだ
また、トゥングダ(人升田)に
15歳から~50歳の男子を招集し
規定時間内に入りきれない者を殺したと言う
人頭税による過酷な取り立てがあった頃の
人減らしの策である
八重山諸島の人々を苦しめた人頭税は
1637年に始まり1903年(明治35年)まで続けられ
実に266年続けられた
クブラバリ・トゥングダと言う悲惨な
伝承と遺跡が今も島に残っている