葵から菊へ&東京の戦争遺跡を歩く会The Tokyo War Memorial Walkers

パソコン大好き爺さんの日誌。mail:akebonobashi@jcom.home.ne.jp

関東軍は満州の4分の3を放棄し長期持久の「ト号作戦」

2020年08月03日 | 日本と中国

 「本土決戦準備
本土周辺で決戦について検討していた大本営は、比島決戦が失敗に帰した一九四五年一月中旬、まず小笠原・台湾・沖縄等の本土外郭要地で持久作戦を行い、次いで本土で決戦をするとした「帝国陸海軍作戦計画大綱」を策定した。この大綱に基づき離島沿岸要域の防御準備を強化しつつ、所要の決戦兵力を動員した。四月上旬には、米軍の主上陸地を南九州、次いで関東地方と判断し、作戦準備を九月末までに完成し、その後補備強化するとした「決号(朝鮮樺太千島及びその近海を含む本土決戦)作戦準備要綱」を完成して本土決戦の準備を進めた。
決号作戦の思想は、まず空・海の全力をあげた特攻攻搫により米軍を洋上に撃墜する。次いで上陸した米軍に対して本土の全陸軍が昼夜にわたる連続不断の攻撃を敢行して米軍を沿岸に撃滅しようとするものであった。米軍を洋上に撃滅するため、航空特攻として特攻機約八四〇〇機の投入を計画し、水上特攻として小型モーターポートに爆薬を積載した海軍の震洋、陸軍の特攻艇および水中特攻として特殊潜航艇蛟龍有翼小型潜航艇海龍人間魚雷回天等が多数配備された。
陸上決戦のため陸軍は第一第二総軍及び航空総軍を編制しつつ二月下旬から三回にわたり四四個師団・一七個混成旅団・七個戦車旅団等の動員を実施し、満州等からも兵力を転用して本土決戦準備を進めたが、人員・装備の不足から部隊の戦力は低下していた。しかし六月下句、本土での決戦はまさに絶体絶命の最後の決戦で攻勢作戦であるとし、主陣地を水際に推進し、全地上軍に上陸海岸への攻撃を敢行させ、上陸米軍を水際に撃滅する作戦思想に転換した。このため、既に築城を進めていた前線部隊では混乱も見られた。この問、国民義勇隊等が組織され、国民総武装化の態勢が逐次推進されていった。〔新人物往来社刊・日本陸海軍事典より〕

日本軍は「決号」作戦、一方の米英軍は「ダンフォール作戦」(オリンピック作戦及びコロネット作戦)として本土上陸作戦を準備していた。

1945年11月1日予定の南九州上陸「オリンピック作戦」

1946年1月予定の関東上陸「コロネット作戦」

管理人は「遺棄毒ガス中国人被害損害賠償請求事件」支援団体事務局長だったことから、関東軍の「ト号作戦」を知ることが出来た。

ト号作戦」 昭和20年5月30日、大本営は関東軍を完全な作戦態勢にきりかえて、戦闘序列を令するとともに、同じ日、満鮮方面対ソ作戦計画要領に準拠して、対ソ作戦準備をすべき命令も出された。
-、大本営は、鮮満における対米作戦および対ソ作戦準備の強化を企図す
二、第17方面軍(朝鮮筆)司令官は中、南鮮に侵達する敵を撃滅すべし
三、関東軍総司令官は、現任務を遂行するほか、来攻する米軍を撃滅するとともに、北鮮(成鏡道、平安道)における対ソ作戦準備を実施すべし
 この対ソ作戦計画要領は、昭和19年9月に示達された“帝国陸軍対ソ作戦計画要衝”に必要な修正を加え、満鮮を打って一丸とする徹底的全面持久計画でーーこれが関東軍の終局的作戦計画となったのである。
この命令によって、与えられた対ソ作戦計画要額というものは、もとより頭ごなしに交付されたものではなく、大本営、関東軍当事者間で、事前に十分打合わせのうえ、双方の合意において、形式として命令化されたものである。
 こうして、その計画の中核基本をなした作戦任務は、「関東軍は京図線以南、連京線以東の要城を確保して持久を策し、大東亜戦争の遂行を有利ならしむべし」というのにあった。
 つまり、このごろには、大本営の本土決戦の考えが確定し、そのためには大陸の一角に、とにかく持久健在する策応軍の絶対必要性が大きく浮かび上がってきたのである。だから、総花式な決戦はもとよりのこと、持久も長期持久で、軽々しく敵に決戦を強要されるような方策は極力警戒しなければならなかった。柔道でいうなら、グッと腰をうしろに引いて下げる作戦であり、将棋にたとえれば、千日手に持ちこむというところでもあろうか。
 もっとわかりやすく説明すると、関東軍は満州の東辺道にたてこもって、大持久戦を実行し、本土決戦を有利にせよというものであった。
 放棄地帯といっても、無条件放棄や宣言放棄ではない。作戦放棄であるから、広義には作戦地域たるにちがいはない。
結局、作戦を発動することになれば、下の図のように、全満のオリンピック作戦しても、通化の要域だけは確保せよということであった。
 しかし、だからといって、軍には従来の慣性もあり、準備もある。しかも、いろいろの準備は、一夜にしてできあがるものではない。また、現に存在する築城なり飛行場、あるいは施設は、可能な範囲で利用しなければならず、企図の秘匿や静謐(せいひつ)保持のことも、大いに考慮の必要がある。
【元陸軍大佐草地貞吾著 「その日、関東軍は 元関東軍参謀作戦班長の証言」から引用】

(了)

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 75年前の8月2日は八王子大空襲 | トップ | ポツダム宣言受諾の条件は「... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

日本と中国」カテゴリの最新記事