さる4日に親戚をしょうけい館と靖国神社・遊就館に案内しました。その際九段会館の駐車場にある西南戦争に関連する三つの石碑と貝塚碑を案内しようとしましたが、雑草が生い茂って石碑の文字も読めなく、貝塚碑には近づけませんでした。
3・11東北大震災の時に九段会館大ホールの天井が落下し死傷者が出ました。以降建物の老朽化のために大ホールやレストランなどの営業は停止となり国有財産である土地・建物は返還することになったと聞いていました。しかし国に返還する場合は、更地にするための解体費用が4~5億円もかかるので、日本遺族会の事務所はそのまま九段会館にあると聞きましたので厚生労働省社会・援護局援護企画課に電話をして遺族会に草刈りをするように指導して欲しいと頼んだところ、国有財産を所管している財務省関東財務局に依頼をして欲しいとのことでした。そこで管理人は下記の陳情書を東京財務事務所に郵送しました。
財務省関東財務局東京財務事務所
第一統括管理官S様
2014年5月9日
新宿区議会議員待遇者 長谷川 順一
official web site 「曙橋ニュース」http://akebonobashi.jp
九段会館に関する陳情書
要旨
九段会館を戦争遺跡として保存するとともに、貝塚と西南戦争に関連する三つの石碑は見学が出来るように利便を図って下さい。
理由
旧軍人会館だった九段会館は「財団法人日本遺族会に対する国有財産の無償貸付に関する法律」(昭和28年法律第200号)により、国有財産を財団法人日本遺族会に無償貸与し、同会は大ホールの他宿泊施設、結婚式場、屋上ビヤホール、レストラン等を運営していましたが3・11東日本大震災の時に大ホールの天井部分が落下して死傷者がでましたので全ての運営部門は閉鎖しております。
九段会館は靖国神社の付属地に、陸海軍の退役者の全国組織「帝国在郷軍人会」が1934(昭和9)年に軍人会館として建設されました。設計は川元良一、技術顧問は遊就館を設計した伊東忠太で、昭和初期に流行した帝冠様式の建物ですが1936(昭和11)年の「二・二六事件」では軍人会館に戒厳司令部が置かれた歴史もあること等から戦争遺跡文化財として保存して下さい。
さらに敷地・建物には以下のような貴重な戦争遺構と遺物が存在します。
①靖国神社の付属地には、靖国神社本殿が火災などにあった場合に、即座に神鏡などを遷座できるように「権殿」(仮宮)が設けられていました。軍人会館の新築時に屋上に移され、現在もその一角に護国神社があります。
②「昭和九年六月二十九日」と刻まれた「天皇陛下御展望所」石碑もあります。
③「軍人会館建設工事ノ際地下八尺ノ處ヨリ掘出シタルモノナリ 昭和九年五月」と刻まれた「貝塚碑」が駐車場の牛ヶ淵側の土手にあります。
昭和館側の植え込みのなかに④「軍人亀鑑」、⑤「士官学校生徒の碑」、⑥「表忠碑」の石碑があります。
「軍人亀鑑」(谷村計介の碑)は、佐賀の乱、西南戦争に従軍し、田原坂で戦死した熊本鎮台の谷村計介伍長の功を「軍人の鑑」と称え、鎮台司令官谷干城陸軍少将ほか11人が1878年に建立したものです。
陸軍士官学校の第1期生100人のうち33人が西南戦争で戦死しました。同期生が明治天皇からの御内帑金で建立したのが「士官学校生徒の碑」です。題字は西南戦争の征討総督であった有栖川宮熾仁親王の筆です。
「表忠碑」は、西南戦争の戦没者のために、東京府内の戸長・書記(明治初期の町村の役人)によって1869年に建立されました。
九段会館と九段坂病院(現在新病院建築中2015年に移転)の境界の繁みのなかに「愛国婦人会発祥の地」石碑があります。愛国婦人会は、明治から昭和期における女性の軍事援護のための団体でした。奥村五百子が中心になり、1901(明治34)年、皇族・華族などを会員にして設立。1919(大正8)年には会員は100万人をこえましたが、1942年、大日本婦人会に統合されました。
【参考文献】平和文化刊「学び・調べ・考えよう フィールドワーク 靖国神社・遊就館」
③「貝塚碑」並びに④「軍人亀鑑」⑤「士官学校生徒の碑」⑥「表忠碑」の石碑は雑草が生い茂って、文字面を見ることが出来ませんので草刈りをして下さい。