オール讀物新人賞に刺激された訳ではありませんが、時代小説を購入しました。
新人作家ではなく、読みやすいので馴染んだ作家ばかりですが。
江戸っ子の心温まる人情が盛り込まれた短編集の中で、『凍てのあと』はかなりシリアスであります。
裏長屋で母親と暮らす腕の良い職人栄次は、店の不祥事の罪を一人で被って60日間牢獄に入れられた。
身体がすっかり衰弱してしまったが、それ以上に希望を失った心が乾ききっていた。
その長屋の隣に正体不明の謎の浪人者が住んでいる。
片脚に深い傷が残るらしくびっこを引いて歩いている、それが屈託になるのか連夜苦し気なうめき声が聞こえた。
どこか上品な様子が訳ありげである。
栄次が奉公していた店からは、保障として暮らしに困らぬほどの金はおりている。
浪人者には妻と思われる女性から、彼に隠れて月々の生活費は渡されている。
飢えずに暮らせるというだけで、二人は世の中から見放されて荒み切った心を抱えていた。
薄曇りの午後、二人は小さな釣り堀で出会った。釣り糸を垂れるうちに二人の心は打ち解け、縄のれんの飲み屋で酒を酌み交わす仲となった。
浪人者は官之介と言い、麹町の武家屋敷に住む身分の真面目な若者だった。それが許婚のある武家娘と恋仲になってしまった。密な恋はやがて噂となって、許嫁の男が二人を殺そうと刃傷沙汰を起こした。
その結果、二人の身分ははく奪されたばかりか、追放された彼は不具になってしまったのである。
一方、栄次は、当時ご禁令の金箔を施した品物を作っていた店全体の罪を一人で被っている。
恩義のある店の為に刑に服す覚悟を決めていたが、お白洲で主人や仲間が素知らぬ顔をして彼に罪を着せる偽証を並べるのを見ている内に、我慢できないほどの人間不信に陥ってしまう。
二人とも、真面目に暮らす中で人のなさけに引かされて、世間的に後ろ指をさされる結果になってしまったのだ。
栄次は婚約者、官之介は妻を持つ身であるが、かって深く愛した事すら空しく厭わしく思えるのだった。
彼らの妻も恋人もひたすら幸せを願っているが、その思いがもどかしいほど届かない。
しかしある凍てついた晩、官之介が絶望して妻を殺そうとした時から、事態は一変するのである。
「わたしのためにあなたをこんなにして、このままで死ぬのはいやです」生き恥を晒したくないという夫に向かって妻は叫ぶ。
その叫びが乾ききった栄次の心にやっと痛く届いたのだ。
居職であれば、官之介の生きる糧になるだろう。職人の自分がこの二人に生きる術を教えることはできる。
一条の希望の光が差すところでこの物語は終わります。
全くのネタバレで申し訳ないですが、背景にある江戸の風物、もの柔らかな気候、など、語るに尽くせない魅力が残る作品です。
絶望の傷に塩をつけ、さらに痛みを煽るような世の中でありますが、山本周五郎の作品はこのような傷口を静かに癒してくれる効果を持ちます。