杉野の老夫婦はかなり痴呆が進んでいるし、真実を打ち明ける訳にいかない。
そう言う事情で坂下の両親が保証人になって、心療内科クリニックで一時的に入院させてくれる施設を紹介され、愛を保護した。
義兄は知らぬ存ぜぬで、見舞いにも来なかった。彼の行為は明らかに犯罪に当たる為、認める事を拒否したのだろう。
愛の錯乱は、奇跡的に一時的なもので興奮症状は全く収まったが、彼女は育ててくれた恩人の老夫婦に知れるのを慮って、暴行された事情を打ち明けないため、興奮発作を伴う精神的な病いとして処理された。
その上経済的事情も手伝って大学を中退し、坂下家から義兄に愛の生活費を要請すると、一時金が渡された。
愛はそれを持って坂下の家を出たのである。
杉野の家は実は男の子が二人いて、年の離れた長兄は栃木県にある本家で農業を継いでいた。
老いた両親を引き取り、金を出したのはその兄夫婦である。
肝心の次兄は家を勝手に売り払って、消息を絶った。
「その後の愛さんについて自分は何も知らない。愛さんも決して話さなかった。ただあんな性格の人だから周りで誤解されて仕事が続かなかったんじゃないか」
卓は黙って聞くだけだった。
「何だ。お前は一番肝心のことを聞き忘れているではないか」と責められているようだった。
「それから」
「俺近いうちに再婚するんだ」坂下は真面目な口調だった。
「翠ちゃんを預かるって言ったのは今度結婚する相手だよ」
「じゃあ、この前の話も仕組んだのか?お前ずうと俺たちを騙してきたのか?」
何の為とかは卓は聞かない。
「いや。誤解しないでくれ。愛さんのことを忘れられなかったのは本当だが、その人と交際し始めたのはずっと以前だ。お恥ずかしいが、離婚する前から知ってた人だ」
ややあって、卓は掠れ声で言った。
「お前は嘘のつけない男だと思ってたが、、
負けたよ。そうだよな。仕事しか知らない俺が翠の世話を出来る訳がない」
坂下は複雑な笑顔で応えた。
「愛さんは誤解されやすい人だ。あまりにも善意で解釈し過ぎて、あんな獣みたいな男にやられちまった。幼い頃から知ってる俺だけが護れるなんて思ってやしない。最終的に
夫である荏田が重病化した愛さんの今後を決める必要がある」
卓は自分だけの責任だとは思わなかったが、この場でそんな勝手な言い草は通らないと観念した。
「有難い。どうか手配をお頼みします」
坂下に頭を下げたのである。
入院の日、見送ると言い張った翠を登校させて愛は用意された車に乗る。
傍らに卓がいる。
幸い卓の癌もどき?のその後の経過は良好で、悪性のポリープは発見されていない。
愛自身の癌は最早内視鏡手術で効かないところ迄来ている、と言う話になっている。
しかし、これは全部坂下とその従姉(入院する病院の女性医師)の決めたことだった。
坂下とその女性に再婚の予定はない。
何故なら医師と言っても産婦人科医の肩書きだけで週一回大学病院で外来を受け持ってただけである。ちなみに彼女の夫!は評判の良い内科クリニックを開いていた。
確かに愛にはポリープができていて、卓同様悪性のものだった。しかしそれ以上のものでない。
たまたま、顔見知りだった女性医師が愛に声をかけたのが今回の入院のきっかけだった。
愛の入院する個室に訪れる医師は二人いる。
一人は外科、一人は心療内科である。
愛はそこで心身ともに休養を要する患者となる。
その後どうすればいいか、今の愛には判断はできない。彼女ができました一番気になるのは翠の事だった。
が、翠は坂下のおじちゃんが大好きみたいである。子ども好きで優しい彼は卓が休日出勤の度に訪れてくれるから。
たまたま坂下の従姉の医師が近くに住んいたところから、今回のお芝居が始まったのだ、
と愛は思う。
これからどうなるか、、、
誰も分からないわ、と愛は目を閉じる。これでやっとぐっすり眠れるから。
だって、女性医師が業者に直接談判して勝手にされた同期を外してくれたし。自分のスマホの中身をもう夫や第三者に見られる心配はないからね。
せめてスマホの中だけでも自由でいたい。
たとえ最愛の夫であろうと。
しかし夫が私にとって本当に最愛の人かもう分からない、ただぐっすりと眠っていたいだけ。その後に全てを決める事に決めたから。