読書の森

転校の思い出 その3



私を事実上の貧乏から本当に救ったのは、多分読書だと思う。
貸本屋や古本屋で求めた本の世界で私は可哀想な「シンデレラ」になったり、「みにくいあひるの子」になった。
今にきっと素敵な王子様が救ってくれるみたいな能天気さがいつもあった。

ただ、読書の価値は辛い現実から逃れる為にあるのではない。
現実世界の他に豊かな想像世界があるという事を教えてくれるから、価値が有るのだ。
「人はパンのみにて生きるにあらず」という事を読書は芯から感じさせてくれた。


又、年が過ぎると現実の厳しい記憶も甘い懐かしいものに変わってしまう。
小学3年は羽田に数ヶ月居た。
当時羽田空港はもっと小さなものだったと記憶してる。
私の住むアパートの近くの川辺で海の貝殻がザクザク取れた。
つまり浦安みたいな感じだった。

蓮沼では焼け残った立派な洋館に間借りした。
ここは上の階に父方の早大生の甥が下宿して、おまけに祖母や伯母たちの住まいと近かった。
それが母を私の過保護に向かわせる理由になった。

今考えると、短い時期でも子供を父方の親戚に預けたという罪悪感が母をより優しくしたのだろう。
婚家は母にとって違和感が多く、私を人質に取られた気分だったと思う。

母はその頃私を可愛がる事に熱中していた。
工夫して間仕切りの可愛いカーテンを作り私の部屋を作ってくれた。
母は西洋式の躾の本を読んでいた。
そこで、ごく幼い頃から私は個室(犬小屋みたいでも)で一人で寝る習慣がついた。



この様に、間借りして内職する暮らしでも母は夢見がちな乙女の所があった。
お金が纏まって入るとデパートに連れて行ってくれた。
身綺麗にした若い母は子供ごころに美人で自慢だった。

上等な焼き豚の入ったチャーハン、旗がケチャップライスに立った綺麗なお子様ランチを食べさせてくれた。
何故か私はこういうご馳走が望めば直ぐ食べられる気になれたのである。

全然貧乏が身に付かない母が私は好きだった。
多分その頃は、貧乏から子供を守るという気概に満ちていたのだろうし、いつか夫が立ち直って以前の生活に戻るという夢を持っていたのだろう。

間借りしていた頃の作文に「私が世界中で一番好きな人は母です」と書いている。

何故、こんな良い子(?)が反抗心一杯の子になったのだろうか?
それは多分次の武蔵新田で落ち着いてからだろう。
私は親しい友達にここで恵まれた。
内向きが外向きになって初めて現実を知ってから、私は現実離れした親を批判する事を知った。

(もっと短くするつもりが、思い出がどんどん先回りしてます。かなり思い出に振り回されてる様です。
残念ですが今日はここ迄、明日お会いしましょう)

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