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読書の森

幻のソースせんべい

昭和20年代末、おばの家に居た時の私。
楽しみにしてたのが紙芝居屋さんが来る時、その頃の東京大田区の住宅地はあちこちに空き地がありまして、子供の下校時に合わせて自転車の荷台に商売道具を乗せた紙芝居のおじさん(私が知る範囲では女の人はいなかった)が来るのです。

実は私、紙芝居のお話よりずっと楽しみにしてたのがおじさんが売ってくれるお菓子。おじさん見物料は取らず自家製のお菓子を売って商売をするのです。

工場ではオヤツは殆ど出ない、おばさん達は事務や買い出しで忙しいのです。
スーパーもコンビニも全く無い時代、近くにパン屋も駄菓子屋も無かったので、私、オヤツの調達はそれで済ましたのです。

お小遣いを握りしめて(5円か10円だった)。後ろの方に立って食べる水飴(棒にクルクル巻く)、やソースせんべいは物凄く美味に思えました。

紙芝居屋に行く事や駄菓子を買うのを禁じる家庭もあったけど、殆どの子は全然気にせず、立ち食いしながら、紙芝居に見入ってました。
紙芝居の出し物は勧善懲悪ものが多かったみたいです。






私は未だにあの時のソースせんべいの美味しさが忘れられません。今も残る駄菓子屋さんなどに行けばそれらしいお菓子があるかも知れません。しかし、そのおじさん(全然顔は覚えてない)のお手製のソースの美味しさは独特のもののようです。

その味を再現したくて、再挑戦致しました。大阪のお菓子屋さんで売ってるタコせんべいに関西風ソースを塗りました。

結果はX、全然美味しくない^^
ソースせんべいのおせんべいは殆ど無味で、おじさんの作るソースはより塩気が薄いのにまろやかな味です。
オカズパンみたいな感じかな?

子供の頃の舌の記憶ですから不確かではありますが、昔は添加物が非常に少なかった事は確かで、食べ物は出来合いのオカズでも自然な味が多かったですね。


その頃の広告。上の女性が有馬稲子さん、ミツワ石鹸の宣伝、下の化粧水の写真ミスユニバース三位になった伊藤絹子さんです。

今じゃ名前も知らない方が多いと思いますが、昔のスターはかなり庶民と隔絶した美人が多かったです。

小学館の小学生向け雑誌の歴史は古いです。今どうなってますかね。
私紙芝居の内容は興味なかったけど、工場長のおじさんの蔵書の戦前の童話、従姉の取ってる『ジュニアそれいゆ』に読み耽るませた子でした。


両親は神戸で職探し、伯母や祖母は工場内で忙しい、つまり私は鍵も持たされず(その頃居住する家は従業員が常に出入りする為開けっぱなしです)、屋根裏部屋に寝転がって雑誌を読んだり、外に出て近所の子とおしゃべりしたり、お小遣い殆ど無いけど自由だったですね。

狭い屋根裏部屋の中で、『家なき子』や『小公女』を自分の身に当て嵌めたりして、その頃から空想力がドンドン育成されたようであります。
宵待草の歌を覚えたのもその頃。
私にとって「待てど暮らせど来ぬ人」は恋人ならぬ母でありました。
空想の中の母はやたら優しく暖かく、やっと会えた時現実とのギャップにガッカリしたのを覚えてます。かなり神経がピリピリしてた感じです。

それも道理で、30歳にもならぬ若い母にとって、夫の仕事は見つからず全く未知の都会で今後自分も働いて生活していかなければならなかったのです。
小姑や姑は、鬱状態の父を軽蔑して、それを助長したと言って綺麗な母に冷たいし同情しない。
大きくなった私が学校へ行く費用も、蓄えの乏しい自分達で稼がねばならない。
ホントに大変だったと思います。

私にとって恋焦がれた何でも受け入れてくれる存在と違うキリキリと緊張してる若い女性が母だったのです^^。

何事も「待ってる」内が花🌼と思います。
想像力は相手にオブラートをかけてくれますからね。
ソースせんべいから飛んだ話になってしまってごめんなさい。

それにしても昭和2、30年代の、東京の夏は涼しかったのです。
クーラーも無いけど夜は充分涼しい、それどころか扇風機もない夏の夜、蚊帳を吊ってうちわであおいで、その内に眠れてしまいましたもの。






読んでいただきありがとうございました。

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