読書の森

転校の思い出 その2



この様な時期でも、私は貧乏を実感しなかった。
母は豊かだった嫁入りの時に持参したお宝を売り、父は親戚に頼み込んで借金をした。
池上に住む親戚の伯母と叔母は実子がいなかった。
おまけに、後妻の祖母の唯一の内孫である。
私の為に資金援助をしてくれた様だった。
一人っ子の私は、祖母と伯母と母の三人に育てられた様な印象を持っている。

粗末な間借りの6畳に親子住んでいるのに、ウールの靴下を履き、ビロードの服を着て、髪はパーマをかけて貰っていた。
「いいとこのお嬢さんの様だった」
とその頃の友だちに羨ましげに言われた。
正直言って私は着せ替え人形みたいなのが嫌いだった。
今でも人は見かけでないと信じるのは、その頃の見かけお嬢様だった自分が嫌だったからだ。

家計は火の車の筈なのに、両親は夢見がちで、これが本来の生活とは思ってなかった様だった。
いつか元の豊かさに戻ると思い込んで居た。
だから私も根拠もないのにそう思っていた。

父は読書好きの私の為にお金が入ると、頼んだ本を買ってくれた。
両親がロマンチストで、しかも私はお小遣いが豊富にあったので私は夢にも自分を貧乏と思ってなかった。

お小遣いが豊富と言うのは、伯父夫婦(伯母の夫が経営する工場(バブル崩壊で倒産してしまったが)の何人もの工員がお年玉をくれたからである。

お正月伯父夫婦の客間で工員が一同に会する。
酒会になるのだ。
伯母やお手伝いさんが張り切って拵えたお節料理が綺麗に並ぶ。
私もちゃっかりご馳走に預かる。
工員は主人の姪という事で、お年玉を用意した。

気前の良すぎる両親に貯金が一銭もないのに、小学3年の私が当時にして5000円近く貯金していた。
ともかく私は両親を反面教師にして真面目にコツコツやろうと幼心に考えていたのだ。



(注)
分かり難いので、その頃、昭和20年代末から昭和30年代始めの暮らしの実態を説明します。

小学生の靴下は殆どの子が木綿、毎日服装を変えてくる子は居ません。
ビロードの洋服は叔母が誕生祝いにプレゼントしてくれたのです。
髪は伸ばす子は三つ編み、短い子は散髪屋で親が床屋に行くついでに切ってもらった。
兄弟は4人くらいがざらです。

菓子パンが一個10円、お年玉は小学低学年で一人平均1000円位貰い、住宅は終戦後の住宅難で持家は非常に稀でした。
東京では間借り生活をする人も多かったのです。

日本全体が貧しいけど、その分伸び代があった時代です。

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