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読書の森

「生類憐れみの令」のホントのところ

5代徳川将軍、綱吉が出した「生類憐れみの令」は後の世に天下の悪法として有名です。
これは1787年〜綱吉の死(1709年)まで続いてます。遺言で続けてくれと言うのを無視されたのですね。

例えば、野良犬に噛まれてその犬を切り捨てた武士が切腹になり、捨て犬を無視した旗本が閉門を命じられ、果ては蚊を叩き潰しただけで遠島の罪になった、とか信じられない話が山とあった時代です。

ただ、これは綱吉が母親の言いつけ通りに、動物を(特に生まれ年である犬)を異常に保護した法令と一概に言えないです。
元々は儒教の「人々が仁心を生むよう」という意味で、捨て子や老人、動物虐待を廃絶する趣旨で、生き物好きの綱吉が命じたらしい。

最初は家康が大好きだった鷹狩が動物保護の為廃止されたと言います。

その後、生類憐れみの令の対象が、捨て子、病人、高齢者、動物として、発令されました。
この動物が問題で、犬、猫、鳥、魚類、貝、昆虫迄入りました。
一体、当時の庶民は動物性タンパク質が摂れたのでありましょうか?密かに川で貝を採って食すればどんな罰を受けたのかしら?

綱吉さまご自身の食卓では何を出されていたのでしょう?

さて、飼い犬をちょっとでも粗末に扱うとお上から罰せられるので、飼う人は激減して野良犬が江戸の町に溢れてまいりました。

そこで、その時期だんだん開けてきた中野に膨大な犬小屋が建てられたのです。
「お犬様さま」の時代でした。

上は現在の中野ですが、沢山の犬小屋のある所は面積が29万坪で上野公園よりもっと広かった。維持費用は年間9万8000両(98億円!)だったそうであります。
この費用が全部江戸庶民の負担になったらしいです。

どう見ても、何も生産出来ない犬の為に国民が働いている感じです。

確かに「天下の悪法」でございます。どうして、英明とも言われた綱吉が、この法律の異常さに気付かなかったのでしょうか?


綱吉死後、犬小屋跡は長く放置されてましたが、この一部に八代将軍吉宗が桃園を造営しました。6万7000坪に桃の木を植林、季節に限りごとに可憐な花が咲き乱れて花見の名所になったとか。
ところが次第に桃の木が枯れて、江戸末期には姿を消してしまったそうです。

今は、僅かに名称が残ってます。上の地図には載っておりませんが、今でも桃園橋とか桃園公園とかあるそうです。

後世における徳川綱吉の評価はかなり低いです。生類憐れみの令、赤穂義士の処遇、寵臣柳沢吉保の専制など、悪評の材料は尽きません。この時期富士山の噴火など天災が多く飢饉に苦しむ人の多かった事も影響してます。
しかし元禄文化の華が開いて、戦乱や暴力の心配が極めて薄い時代でもあったそうで、生類憐れみの令のお陰で辻斬りがパタリと止んだそうです。
学問や文化を好む統治者であった事は間違いないですが、偏向した好みを持っていたのでしょうね。

単純にバカ殿と捉えるより、かなりユニークな人と思った方が良いみたいです。その為家族が迷惑したらしいし、歴史を探ってみると面白いかも知れません。



さて暑さによるスタミナ不足を補う為、カレーの上に生卵をかけていただきました。
初体験です。
買い物などでクタクタだった身体が一気に癒される美味しさでした。
美味しさの条件の1番は空腹だったと再確認致しました。

注:
見出し写真はこのblogと無関係です。

読んでいただきありがとうございました。

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