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読書の森

不動産のお話 後

入居したのが昭和61(1986)年9月、そこから徐々に、その翌年から急激に不動産価格は値上がりしました。そうです、ご存知バブルが続きました。

もともと私は思春期を東急目蒲線の線路近くの家で過ごし、自由が丘の街(見出し写真)にとても憧れていて、沿線で似た雰囲気を持った日吉が気に入ってしまったのです。
なので、値上げを見込んだというより、無理の無い価格で、しかも住環境の雰囲気の良さに惚れ込みました。

値下げ交渉もせず、「相場より少しお高い」この部屋を手持ち資金と合わせて700万円20年ローンで買ったのです。売り主さんは共稼ぎ中年夫婦で同じ日吉でよりグレードの高い部屋を購入する為に売った訳。
言わばお墨付きの正しい(?)部屋です。

この部屋が不動産バブルによってお金を産んでくれました。
最高に価格が上がった時(1990年頃)、同じような部屋が何と3300万円で売りに出された事もあります。

親族が借金で大変な目に遭った関係で、私は借金が苦手です。ローンを組んだのは初めてでした。苦になって仕方ないのです。そこでボーナス全額ローン繰上げ返済して貯金もして、5年でローンを全額支払う事が出来ました。

追記です:後で記憶を辿り3年でなく5年な事が判明しました。訂正してお詫び致します。


これって自慢話ではないのですよ。

「家を買う時は正攻法が一番」という事を苦い経験の結果、後で思い知らされたからです。

というのは、不動産を相場より高い値段で売るというのはその不動産に瑕疵や問題が無いと見て良いからです。




(この部屋に移転した当時のメモです。当時食べた物と体重をつけてたのです。なお私とっても背が低いです。大学二年生の時は50キロでほぼ現在と同じでデブと言われてたのです)

年号が変わって、父の死後母と一緒に暮らす為に購入したのが新横浜の中古マンションです。
日吉の部屋を売ったお金でお陰で新横浜の部屋が買えたのです。
このマンションは日吉より一部屋多くて、新横浜迄徒歩で行けて、かつ緑の多い環境でありました。亡父の死後戸籍を入手するのに時間がかかりました。
死後始末する人の手間にならぬよう現住所と本籍地を一緒にするため、本籍を新横浜に移したのです。
16年間母と暮らした部屋はやはり忘れられないものがあります。

新横浜もとっても開けた街となりましたね。

ただ、それも遠い夢であります。
家を売って買っての繰り返しなどするものでは無く、私は財産の殆どを消失してます。
何故こうなったか? 全て自分の不徳の致すところと言っておりました。しかし、風評被害に負けた事がかなり大きな原因を占めてる、と思います。


さて新横浜のマンション購入時の家計簿に貼ってあった新聞の切り抜きです。
心理学者の詫摩武俊さんは高齢期を楽しく過ごす方法を書いてます。今でも生きる言葉ですね。
ここに書いてありませんが、安心の資産を持つ事も非常に重要な事であります(そればかりでは無いですが)

ご時世により、人生一つ間違えば深い穴が待つ実体験をされた方は多いのではと存じます。
持ち家か賃貸かという事でなく、時勢に応じた地道な努力はいると思いますね。

私のお恥ずかしい(?)体験をここに記して参考になればと、思います。

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