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読書の森

不動産のお話 前

もともと両親は持家で育った人ですし、当時の日本は借家住まいの人が圧倒的に多かったので、持ち家志向が全くありませんでした。
逆に私は幼い頃から、破産の結果の家の崩壊、度重なる移転、親戚の家に居住、などの経験から、自分の家に対する憧れがありました。

病いを経てやっと得た正社員の座は、安定した収入があって貯蓄するのに最適でございます。
自分で得たお金で、友人とのお付き合い、旅行、買い物などしつつ、貯蓄出来るなんて天国です。
これは全て置いて下さった会社のお陰でございます。足を向けては眠れません。

35歳の秋(1981年)両親や親戚からの独立を試みて、不動産業者を回って借りたのが目黒区鷹番の6畳台所トイレ付きの下宿っぽい二階です。家賃はその当時で3万円の安さ!

その代わり、風呂無しで電話は引けません。洗濯機置き場もないので手洗い、瓦屋根なので水が垂れてもトイで受け止めてくれます。上司は呆れ、会社の男性は危険がいっぱいだから止めろと言い、親は怒って親戚中に嘆きを振り撒いたのですが。
実はここは大学院生を含め地方から上京した働く女性ばかりのアパートで4室だけです。
下の階はオーナーの親夫婦(お年寄り)が住み、この上の部屋を息子が改造して、家賃を親のお小遣いにしたのです。

その頃の鷹番(学芸大学駅より5分)は緑が多くて空気は良いし、お風呂屋さんは近いし、八百屋肉屋魚屋は近いし、物価は結構安い、治安は保たれてるし、それは良い所だったのですよ❣️
そこで隣室の女の子とオカズ交換したりして楽しい下宿生活めいた借家暮らしを始めたのです。

この思い出は又いつかのblog で書くとして、家賃や物価の安さに便乗して、私はひたすら貯蓄に励みました。
それまで両親に払ってたお金は全部貯め、おまけに他の貯蓄も致したのです。その為テレビは置かない、電話は赤電話、交際費は節約(友人が近くにいたのを幸いとして)です。
利用したのが会社の財形貯蓄、中期国債ファンド、銀行の定期預金であります)。利子は今とダンチに良かったです。

その5年後(昭和61年)の貯蓄が、約800万円になった時、流れたニュースが住宅ローン金利引き下げでした。
多分、これから不動産価格が上がる、経済のケの字も知らなかったのですが、閃いたのはそれです。

ちなみに、その当時見ていた新聞(リビング新聞)の記事を見出しにしました。

いかにうまく貯蓄するか支出するか、考えていたのですが、このイヤらしい吝嗇を会社ではひたすら隠しておりました。
お嬢様で通ってたのです(?)


その頃、つけてた雑誌の付録の家計簿。
家計簿はこの時から毎年欠かさずつけてます。これは個人の大事なプライバシーですのでネットを介してません。

中身。よく出来た家計簿で、用途で仕分けられます。

昭和61年の新聞代ですよ。


それでその年の6月、勇躍私は不動産屋さんに向かいました。

その時、私に不動産さんが薦めたのが、恵比寿駅近くの築ウン十年のマンションであります(独身向き)
いかにも汚そうなイメージで断ってしまったのですが、お値段がなんと2000万円以下だったと記憶してます。
即、断ったのは都会の真ん中が好みじゃなかっただからですが、それからバブル時代になって物凄く値上がりしたのを考えると、惜しかったね。

そこから、このいかにも不動産屋さんらしい(ガタイの大きい健康的な人)不動産さんと回った物件は4件です。

遂にgetした私の生涯最初の持ち家は?
東急東横線日吉駅より5分ですが非常に古〜い1LDKマンション2Fでエレベーターはありません。
ただし角部屋で南向き、トイレー風呂別、今でも未練タラタラの部屋です。
購入金額は1400万円、リフォーム済みで綺麗でした。









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