神奈川県鎌倉市に鎌倉市立川喜多映画記念館という施設があります。
鎌倉駅から「鳩サブレ」で有名な豊島屋さんの前を通り過ぎ、小町通りをしばらく進み、寿福寺方面に左折した右側にある映画記念館です。
ここは元、外国映画(戦前は主にヨーロッパ映画)の名作を輸入していたことで有名な東和映画の川喜多長政・かしこご夫妻の旧宅があったところです。すでにご夫婦ともに亡くなられ、一人娘のフランス映画社・副社長だった川喜多和子さんもかしこ夫人より先にくも膜下出血で亡くなられ鎌倉のこの地を継ぐ人もなくなり、旧宅の土地を鎌倉市に寄付し、その後記念館としてオープンしています。
私が映画界で働いていた頃は、かしこ夫人のもとで映画による海外交流のお手伝いをさせていただき、ラムパパは一人娘の和子さんの会社で、フランス映画のゴダール作品やギリシャのテオ・アンゲロプロスの「旅芸人の記録」などの名作を配給・宣伝する仕事をしていました。
私たちはそれぞれ別の会社に属していましたが、当時は映画界ものんびりとした雰囲気で、競合他社の社員同士でも同じ映画好きの仲間たちとして集いあっていました。毎夜のように映画の試写会を見て回り、終われば映画についてあーでもない、こーでもないとだべりあったものです。
ヘラルド映画が「エマニュエル夫人」で大ヒットをとばし、エマニュエル・ボーナスが出て、机の上にボーナスが立ったなどという話が出ても、とくにお互いを羨ましがることもなく(うーん、羨ましかったかな?)、じゃ、今夜はヘラルドのおごりだと安酒の一杯で満足しあうような、若くもおバカな日々を過ごしていました。
エキプ・ド・シネマという映画上映活動を、わが崇拝するかしこ夫人と岩波ホールの支配人だった高野悦子さんが協力してスタートさせ、私はインド映画のサタジット・レイ監督の映画「大樹のうた」で口開けした岩波ホールでのミニシアター映画館としての歩みを、すぐそばでお手伝いすることとなったのです。
岩波ホールでのエキプ・ド・シネマの上映活動は、いろいろな意味でそれまでの映画館の常識を打ち破るものでした。今では当たり前のように行われている完全着席制(立ち見客は入れない)、上映期間の保障(普通の映画館では客足が悪いと1,2週間で上映を止めてしまっていた)という当時では考えられないやり方を貫いていました。それは映画というものに魅了された女性二人、同じ志を持った映画(シネマ)の仲間(エキップ)としての信念でした。映画界はそれまでは男たちの世界でした、特に興行面では。ある意味でエキプ・ド・シネマは「女二人が商売も分からずに始めた無謀な試み」でもあったわけです。
エキプ・ド・シネマを始める前から、高野さんは岩波ホールでいろいろな映画の上映活動を行っていて、衣笠貞之助監督のアバンギャルド映画「狂った一頁」の上映などさまざまな先進的な試みを、神保町のあの角のビル9階で行っていたものです。
高野さんは、大陸育ちらしい大らかさとあの時代では突出していたであろう「男前ぶり」で、映画への愛を貫いた方でした。それでいて、女性としての素晴らしさ、可愛らしさを併せ持ち、大柄な外観とのアンバランスぶりに、私のような若輩者でも隔たりを感じず接することができました。「ちょっとお願いよ」と頼まれると、私は自分の仕事が終わった後、神保町に伺い、ロシア・レストラン「バラライカ」の美味しいお弁当をいただきながら、編集作業のお手伝いをさせて頂いたりしました。
ラムパパの方は、「僕は高野さんと会うと、ハグしあう数少ない日本男性の一人だ」となんだか得意げに言っております。背丈から言っても、あなたがハグされていた方で、ハグしあう間柄ではないでしょう。
そんなエキプ・ド・シネマの歩み、40周年を記念して、ヴィスコンティ監督の「ルートヴィヒ」など8本の映画の回顧上映と現岩波ホール支配人・岩波律子さんの講演会「エキプ・ド・シネマ40年のあれこれ」が開催されています。川喜多映画記念館にて1月30日から3月30日までの展示企画展と2月22日土曜日の午後2時からの律子さんの講演会が開かれます。
その催しを、日経新聞が2月21日朝刊の「文化往来」で紹介しています。
私もこの機会に川喜多映画記念館を一度は訪ねたいと願っています。
そして、川喜多夫人の香りに触れなおしてきたいと思っています。
「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」と、懐かしい淀長さんの声も甦ってきます。淀長さんも小森のおばちゃまも、かしこ夫人も高野さんも、そして和子さんも大島監督も、みーんな逝ってしまいました。
鎌倉駅から「鳩サブレ」で有名な豊島屋さんの前を通り過ぎ、小町通りをしばらく進み、寿福寺方面に左折した右側にある映画記念館です。
ここは元、外国映画(戦前は主にヨーロッパ映画)の名作を輸入していたことで有名な東和映画の川喜多長政・かしこご夫妻の旧宅があったところです。すでにご夫婦ともに亡くなられ、一人娘のフランス映画社・副社長だった川喜多和子さんもかしこ夫人より先にくも膜下出血で亡くなられ鎌倉のこの地を継ぐ人もなくなり、旧宅の土地を鎌倉市に寄付し、その後記念館としてオープンしています。
私が映画界で働いていた頃は、かしこ夫人のもとで映画による海外交流のお手伝いをさせていただき、ラムパパは一人娘の和子さんの会社で、フランス映画のゴダール作品やギリシャのテオ・アンゲロプロスの「旅芸人の記録」などの名作を配給・宣伝する仕事をしていました。
私たちはそれぞれ別の会社に属していましたが、当時は映画界ものんびりとした雰囲気で、競合他社の社員同士でも同じ映画好きの仲間たちとして集いあっていました。毎夜のように映画の試写会を見て回り、終われば映画についてあーでもない、こーでもないとだべりあったものです。
ヘラルド映画が「エマニュエル夫人」で大ヒットをとばし、エマニュエル・ボーナスが出て、机の上にボーナスが立ったなどという話が出ても、とくにお互いを羨ましがることもなく(うーん、羨ましかったかな?)、じゃ、今夜はヘラルドのおごりだと安酒の一杯で満足しあうような、若くもおバカな日々を過ごしていました。
エキプ・ド・シネマという映画上映活動を、わが崇拝するかしこ夫人と岩波ホールの支配人だった高野悦子さんが協力してスタートさせ、私はインド映画のサタジット・レイ監督の映画「大樹のうた」で口開けした岩波ホールでのミニシアター映画館としての歩みを、すぐそばでお手伝いすることとなったのです。
岩波ホールでのエキプ・ド・シネマの上映活動は、いろいろな意味でそれまでの映画館の常識を打ち破るものでした。今では当たり前のように行われている完全着席制(立ち見客は入れない)、上映期間の保障(普通の映画館では客足が悪いと1,2週間で上映を止めてしまっていた)という当時では考えられないやり方を貫いていました。それは映画というものに魅了された女性二人、同じ志を持った映画(シネマ)の仲間(エキップ)としての信念でした。映画界はそれまでは男たちの世界でした、特に興行面では。ある意味でエキプ・ド・シネマは「女二人が商売も分からずに始めた無謀な試み」でもあったわけです。
エキプ・ド・シネマを始める前から、高野さんは岩波ホールでいろいろな映画の上映活動を行っていて、衣笠貞之助監督のアバンギャルド映画「狂った一頁」の上映などさまざまな先進的な試みを、神保町のあの角のビル9階で行っていたものです。
高野さんは、大陸育ちらしい大らかさとあの時代では突出していたであろう「男前ぶり」で、映画への愛を貫いた方でした。それでいて、女性としての素晴らしさ、可愛らしさを併せ持ち、大柄な外観とのアンバランスぶりに、私のような若輩者でも隔たりを感じず接することができました。「ちょっとお願いよ」と頼まれると、私は自分の仕事が終わった後、神保町に伺い、ロシア・レストラン「バラライカ」の美味しいお弁当をいただきながら、編集作業のお手伝いをさせて頂いたりしました。
ラムパパの方は、「僕は高野さんと会うと、ハグしあう数少ない日本男性の一人だ」となんだか得意げに言っております。背丈から言っても、あなたがハグされていた方で、ハグしあう間柄ではないでしょう。
そんなエキプ・ド・シネマの歩み、40周年を記念して、ヴィスコンティ監督の「ルートヴィヒ」など8本の映画の回顧上映と現岩波ホール支配人・岩波律子さんの講演会「エキプ・ド・シネマ40年のあれこれ」が開催されています。川喜多映画記念館にて1月30日から3月30日までの展示企画展と2月22日土曜日の午後2時からの律子さんの講演会が開かれます。
その催しを、日経新聞が2月21日朝刊の「文化往来」で紹介しています。
私もこの機会に川喜多映画記念館を一度は訪ねたいと願っています。
そして、川喜多夫人の香りに触れなおしてきたいと思っています。
「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」と、懐かしい淀長さんの声も甦ってきます。淀長さんも小森のおばちゃまも、かしこ夫人も高野さんも、そして和子さんも大島監督も、みーんな逝ってしまいました。
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