最近更新していなかったのには理由があります。
会社のPCの十字キーの近い部分にページ送り、戻しのキーがついていて、
ブログの更新中、ミスタッチでふとページ戻しのキーを押してしまうことが多々ありました。
それで、また更新中のページに戻ると本文が一切消えているという事象が続きました。
そうするともう萎えちゃうわけ。
せっかく長文打ったのにって。
もういいやってなって更新を怠っていたというわけです。
しかし、先週PCの入れ替えがあったので、
キー配置が至極普通のPCにチェンジしました。
ということで、今後は更新できると思います。
近況はというと、光明も見えつつ、でも自分は藪の中という感じ。
普段では考えられないようなスピードの中に身をおくのか、
もしくはその時の流れから完全に脱却するのか、
普段や日常というものが、いつの間にか本当にルーチン化したものになってしまっている。
新たなものを模索しても、それすらも世間一般的な出発点であり、
それに酔ってしまうことを完全に拒否している自分がいる。
経験として身に付けたものはそれなりに役に立っているようだ。
時代の流れは移れども、目的は変わらず、その手段のみは多種多様に変化する。
その選択肢が増えれば増えるほど、手段と目的をはき違えることが増える。
それすらも経験として身につけばよいのだが、
その選択肢が増えた分、1つに割ける時間はどうしても減ってくる。
そこで妥協が生まれる。
大体、「極める」なんていう言葉をいつからこんなに軽々しく使うようになったんだろうか。
本質の何割を知ったらそのことを「知った」ことになるんだろうか。
ただし、中心だけ見てたらその周囲の大きさは分からない。
中心を知り、そこからぶれることなく、その周りの大きさを把握する。
独りよがりでもかまわないだろうが、
それを可とする自分がいるかどうかは考えなきゃいけないところだ。
人からどう見られても気にしない、
人からどう思われても気にしない、
人から何を言われても気にしない、
じゃあその終着点にあるものは何?って最近ふと思う。
こんな葛藤が果たして生まれるのかどうか。
大きいエビ食ったら、今度はもっと大きいエビ食いたくなる。
で、もっと大きいエビ探す。
でも、もっと大きいエビが見つからない。
そこで2択です。
1.自分が食べたのが有史以降一番大きいエビだった。
2.大きいエビはどこかにある。ただ、見つからないだけ。
さぁどっち?
1は物事の本質のこと。
でも、有史以降一番大きいエビだなんて確認する方法は皆無だな。
2は現実的。
でも、どこであきらめるかの話は自分次第。
永遠に探し続けるっていう手ももちろんあり。
それでも目的は永遠に達成されない。
こんな数値として換算できるものですら、
答えを出すのは難しい。
でも、実は3というのもある。
3.大きいエビは嫌い。だから別に探さない。
3の一番の問題点は質問の趣旨に反していること。
エビを食いたくならないし、探さないと。
それでもこの回答は普段なら成立するよね。
要するに「どうでもいーよー」ってやつだ。
けど、どうでもいいという前に、
質問に答えてないんだからどうでもよくはないのだ。
いい例えではないことは承知だが、
10tトラックが道で事故ろうが、軽自動車が道で事故ろうが、
車線潰したら、その後に巻き起こす渋滞は全く一緒。
そこで、
「俺そっち向かってねーもん」とか、
「チャリンコっす、歩道走ります」
っていうのは違うんじゃないかなと思う。
そのフィールドに立ってみてはじめて分かることもある。
その事故の大きさだったり、悲惨さだったり、
目を向けなければ分からないことはたくさんある。
それですら燃え上がる炎に目を取られ、
その元では今まさにひとつの命が生死を行きかっていることに気がつかず、
後日新聞でその惨状を目の当たりにするかもしれない。
当事者としてその場に居たにもかかわらずだ。
とは言いつつも、人間はそんなに馬鹿じゃない。
自分の環境を「これでよし」なんて決め付けることはあまりない。
それはよく言えば向上心、悪く言えば独占欲。
誰も自分の思ったとおりには動かないし、
動かそうなんていう欺瞞に満ちた考えは淘汰されていく。
片方を立てればどちらかが崩れるというだけの話。
難しい話ではないのだ。
ただ、両サイドに聳えている塔が、
いつでも自分の方向に倒れてくるとは限らない。
自分に塔を支えられる資質があったとしても、
その塔が同時に反対側に倒れたとしたならば、
もはや自分できることは何もない。
備えあれば憂いなし。
もはや手段はその塔を倒さないようにするしかない。
片方の土台を強固なものにしている最中に、
もう片方は倒れるかもしれない。
ならばと、もう片方の土台を固めている間に、
さらにもう一方が倒れるかもしれない。
事もなくどちらも強固な土台で固め終えた時、
どちらの塔からも、もうこの塔は土台がしっかりいてるから倒れないよ。
だから支えてもらわなくても大丈夫だよ。と言われるかもしれない。
そのとき自分に残るものは果たして何なのか。
こんなことばかり言っててもしょうがないのでマンガの話。
うちにもそれ相当のマンガがありますが、
その中から最近のブームは青春恋愛物。
しかも一昔前のやつね。
今でこそ少年誌のマンガにファックシーンは普通に登場しますが、
その昔、少年漫画ではタブー視されてました。
その頃にファックシーンを普通に描いたマンガ。
このへんを読むことが多い。
ファックシーンを包み隠さず描くことによって、
それに関するナイーブな部分をごまかさずに表現できる。
それでもマンガという部分での幻想も忘れない。
ファックシーンがなければ成立しないのならファックシーンは描くしかない。
とても自然なことです。
で、もう一個。
最近12年読み続けたマンガがやっと最終巻を迎えました。
まぁ、またしても少女マンガなのですが。
少女マンガのいいところ、というか少年誌にはないところで、
終了後の読みきりというのがあります。
本編が終了した後に後日譚だったり、サブキャラメインの話だったりが掲載されることが多々あります。
個人的に、これはちょっとアホですが、
未だにマンガのキャラは自分とは違うパラレルワールドに住んでいる幻想に駆られます。
マンガが終わっても、その生活を誌面からのぞくことができなくなっただけで、
その世界は未だに続いているのです、自分の中では。
なので、今回も最後に主人公が結婚したことや、その周りのキャラが元気に暮らしているのを見ると安心するのです。
物事や生活はやっぱり細切れのシーンの繋ぎ合わせではないし、
その場その場のフラッシュでもない。
写真で一瞬を捉えたにもかかわらず、
その一枚の写真からそれ以上の感情が生まれるのは、
その流れだったり想いだったりをまさに読み取っているからでしょう。
並大抵のことではないよね。
会社のPCの十字キーの近い部分にページ送り、戻しのキーがついていて、
ブログの更新中、ミスタッチでふとページ戻しのキーを押してしまうことが多々ありました。
それで、また更新中のページに戻ると本文が一切消えているという事象が続きました。
そうするともう萎えちゃうわけ。
せっかく長文打ったのにって。
もういいやってなって更新を怠っていたというわけです。
しかし、先週PCの入れ替えがあったので、
キー配置が至極普通のPCにチェンジしました。
ということで、今後は更新できると思います。
近況はというと、光明も見えつつ、でも自分は藪の中という感じ。
普段では考えられないようなスピードの中に身をおくのか、
もしくはその時の流れから完全に脱却するのか、
普段や日常というものが、いつの間にか本当にルーチン化したものになってしまっている。
新たなものを模索しても、それすらも世間一般的な出発点であり、
それに酔ってしまうことを完全に拒否している自分がいる。
経験として身に付けたものはそれなりに役に立っているようだ。
時代の流れは移れども、目的は変わらず、その手段のみは多種多様に変化する。
その選択肢が増えれば増えるほど、手段と目的をはき違えることが増える。
それすらも経験として身につけばよいのだが、
その選択肢が増えた分、1つに割ける時間はどうしても減ってくる。
そこで妥協が生まれる。
大体、「極める」なんていう言葉をいつからこんなに軽々しく使うようになったんだろうか。
本質の何割を知ったらそのことを「知った」ことになるんだろうか。
ただし、中心だけ見てたらその周囲の大きさは分からない。
中心を知り、そこからぶれることなく、その周りの大きさを把握する。
独りよがりでもかまわないだろうが、
それを可とする自分がいるかどうかは考えなきゃいけないところだ。
人からどう見られても気にしない、
人からどう思われても気にしない、
人から何を言われても気にしない、
じゃあその終着点にあるものは何?って最近ふと思う。
こんな葛藤が果たして生まれるのかどうか。
大きいエビ食ったら、今度はもっと大きいエビ食いたくなる。
で、もっと大きいエビ探す。
でも、もっと大きいエビが見つからない。
そこで2択です。
1.自分が食べたのが有史以降一番大きいエビだった。
2.大きいエビはどこかにある。ただ、見つからないだけ。
さぁどっち?
1は物事の本質のこと。
でも、有史以降一番大きいエビだなんて確認する方法は皆無だな。
2は現実的。
でも、どこであきらめるかの話は自分次第。
永遠に探し続けるっていう手ももちろんあり。
それでも目的は永遠に達成されない。
こんな数値として換算できるものですら、
答えを出すのは難しい。
でも、実は3というのもある。
3.大きいエビは嫌い。だから別に探さない。
3の一番の問題点は質問の趣旨に反していること。
エビを食いたくならないし、探さないと。
それでもこの回答は普段なら成立するよね。
要するに「どうでもいーよー」ってやつだ。
けど、どうでもいいという前に、
質問に答えてないんだからどうでもよくはないのだ。
いい例えではないことは承知だが、
10tトラックが道で事故ろうが、軽自動車が道で事故ろうが、
車線潰したら、その後に巻き起こす渋滞は全く一緒。
そこで、
「俺そっち向かってねーもん」とか、
「チャリンコっす、歩道走ります」
っていうのは違うんじゃないかなと思う。
そのフィールドに立ってみてはじめて分かることもある。
その事故の大きさだったり、悲惨さだったり、
目を向けなければ分からないことはたくさんある。
それですら燃え上がる炎に目を取られ、
その元では今まさにひとつの命が生死を行きかっていることに気がつかず、
後日新聞でその惨状を目の当たりにするかもしれない。
当事者としてその場に居たにもかかわらずだ。
とは言いつつも、人間はそんなに馬鹿じゃない。
自分の環境を「これでよし」なんて決め付けることはあまりない。
それはよく言えば向上心、悪く言えば独占欲。
誰も自分の思ったとおりには動かないし、
動かそうなんていう欺瞞に満ちた考えは淘汰されていく。
片方を立てればどちらかが崩れるというだけの話。
難しい話ではないのだ。
ただ、両サイドに聳えている塔が、
いつでも自分の方向に倒れてくるとは限らない。
自分に塔を支えられる資質があったとしても、
その塔が同時に反対側に倒れたとしたならば、
もはや自分できることは何もない。
備えあれば憂いなし。
もはや手段はその塔を倒さないようにするしかない。
片方の土台を強固なものにしている最中に、
もう片方は倒れるかもしれない。
ならばと、もう片方の土台を固めている間に、
さらにもう一方が倒れるかもしれない。
事もなくどちらも強固な土台で固め終えた時、
どちらの塔からも、もうこの塔は土台がしっかりいてるから倒れないよ。
だから支えてもらわなくても大丈夫だよ。と言われるかもしれない。
そのとき自分に残るものは果たして何なのか。
こんなことばかり言っててもしょうがないのでマンガの話。
うちにもそれ相当のマンガがありますが、
その中から最近のブームは青春恋愛物。
しかも一昔前のやつね。
今でこそ少年誌のマンガにファックシーンは普通に登場しますが、
その昔、少年漫画ではタブー視されてました。
その頃にファックシーンを普通に描いたマンガ。
このへんを読むことが多い。
ファックシーンを包み隠さず描くことによって、
それに関するナイーブな部分をごまかさずに表現できる。
それでもマンガという部分での幻想も忘れない。
ファックシーンがなければ成立しないのならファックシーンは描くしかない。
とても自然なことです。
で、もう一個。
最近12年読み続けたマンガがやっと最終巻を迎えました。
まぁ、またしても少女マンガなのですが。
少女マンガのいいところ、というか少年誌にはないところで、
終了後の読みきりというのがあります。
本編が終了した後に後日譚だったり、サブキャラメインの話だったりが掲載されることが多々あります。
個人的に、これはちょっとアホですが、
未だにマンガのキャラは自分とは違うパラレルワールドに住んでいる幻想に駆られます。
マンガが終わっても、その生活を誌面からのぞくことができなくなっただけで、
その世界は未だに続いているのです、自分の中では。
なので、今回も最後に主人公が結婚したことや、その周りのキャラが元気に暮らしているのを見ると安心するのです。
物事や生活はやっぱり細切れのシーンの繋ぎ合わせではないし、
その場その場のフラッシュでもない。
写真で一瞬を捉えたにもかかわらず、
その一枚の写真からそれ以上の感情が生まれるのは、
その流れだったり想いだったりをまさに読み取っているからでしょう。
並大抵のことではないよね。