ゆっくり行きましょう

気ままに生活してるシニアの残日録

下妻の砂沼公園で観桜、あと石下「ゆたかや」でだんご餅

2024年04月05日 | グルメ

つくばねカントリークラブでプレーたあと、時間があったので帰りがけに下妻の砂沼(さぬま)広域公園に寄ってみようと思った。というのも最近テレビで北関東の街歩きの紀行番組をやっており、この公園のことを取り上げていたからである。

ゴルフに行くとき、よく294号線の下妻を通過しているが、この公園のことは全然知らなかった。というのも、場所が294号線からちょっと外れたところにあるからだ。砂沼公園の近くには筑波サーキットがあるが、そっちには一度寄ったことがある。

ゴルフ場から30分くらいで到着、駐車場に車を停めて、地図を見て池の方に歩いて行くと、池ではなく沼である砂沼が出てきた。結構大きい。遊歩道が沼を取り囲むように整備されており、歩いて観ると桜が咲いている、5分咲きくらいか、駐車場から入ったあたりが桜が多く植えてあるところだ、また帰宅してからわかったのだが、桜が多くあるところは菖蒲などの水性植物も植わっている場所があるようだ。平日の昼間のため人は少なく、ゆっくり歩いて回れる。

遊歩道の脇には紫陽花が結構飢えてあると嫁さんに言われて見てみると、花が咲いてないので私には全くわからない。

沼の中央部分にY字橋(砂沼大橋)がかかっており、沼の中央部分には公園のシンボルとして市民に親しまれているブロンズ像があった。沼のまわりにはプールやテニスコート、野球場などもあるようだから結構広い公園だ。

観桜しながらゆっくり歩き、駐車場に戻ると、もう一箇所、石下で名物のだんごを買って帰りたくなった。

砂沼公園から車で15分くらいだったか、石下に到着。石下名物といえば、このブログではおなじみに若鶏丸焼きの「クロサワ」(こちら参照)があるが、今日は休日。丸焼きと双璧をなす石下名物が「だんご」だ。

石下には春子屋とゆたかやという二つの有名だんご屋がある。今日はゆたかやに行ってみたが、そこは丸焼きのクロサワ、春子屋、ゆたかやが一列に並んで店を構えているのだ、これ奇景かな。ここに来れば石下名物は全部買えることになる。知っていたが改めて来て見ると驚きだ。

ゆたかやは上品な店構え、きれいな店内に入るとイートインスペースもあるようだ。名物のだんご、どら焼き、最中などの餡を使った和菓子がいっぱい陳列してあった。今日は一番の名物のだんご餅とねじれ最中を買ってみた。

帰宅してから早速、だんご餅を食べてみたがおいしかった。現役時代に名古屋出張がよくあり、行けば必ず伊勢名物の赤福を買って帰ったものだが、ここのだんご餅も赤福に負けずにおいしかった。

ねじれ最中は帰宅途中の車中で食べてしまって写真撮るのを忘れてしまった。

ご馳走様でした。


つくばねカントリークラブでゴルフ

2024年04月05日 | ゴルフ

茨城県つくば市のつくばねカントリークラブに行ってきた。天気は晴れ、費用は2人で16,000円、お気に入りのコースの一つだ。

1974年2月(昭和49年)開場、設計は福井八十八、名門旧制水戸高校出身者が集まり建設、三井不動産元会長の江戸英雄氏が長らく理事長を務めていた

2グリーン方式、今日はAグリーン、距離はAグリーンバックティーでも6302ヤードと短いが、筑波山の山麓を切り開いて作ったコースのためアップダウンがあり、実感距離は1割か2割近く長く、視覚的な難しさもあるので侮れない。来ている客は地元のベテランばかり、中高年御用達のコースだ。

ラウンドはリモコン、ナビ付きの乗用カート、ブラインドでティーショットの落とし場所が見えないところもあるのでナビは有難い。今日はもう桜が3分咲きか4分咲きくらいに咲いていた。このコースはすいていることが多く、スイスイ回れるので好きだ。ハーフ2時間かからないでラウンドできて良かった。

また、このコースは景色が良い、ラウンド中に筑波山の頂上が望めるホールがいくつもあり、また、関東平野を見下ろせるホールも何カ所かあり、天気が良かったので楽しめた。

食事もまあまあだった。

問題があるとすれば、やはりコース内のディボットに目土がされてない箇所が多いことであろう。ベテランが多く来るのにこの状態は決して褒められたものではない、若い人たちの模範となって欲しいものだ。自分が大きなディボットを作ったときは大抵ミスショットした時なので修復する余裕がないが、良いショットをして余裕のあるときに他の人が作ったディボットを埋めればいいのである。ゴルフを愛する人なら是非実行してほしい。

また、今日はところどころバックティーがロープで囲いがされ使えないホールがあったがどういうことだろうか。修理や芝の養生でもしているなら仕方ないが、打てるようにしてほしい、常に使用不要なら、面白さはかなり落ちるでしょう。

春の1日、桜が咲き始めた日にゆっくりとストレス無くゴルフが楽しめて良い1日でした。

早めに終ったので、今日は帰りに、下妻の砂沼広域公園に寄り、さらに帰宅途中に石下で名物の団子を買って帰った。その模様は別投稿で。

 

 


蔵前 パンのペリカンとカフェfrom afarにて

2024年04月04日 | カフェ・喫茶店

眼医者に行った日の帰り、予定より診察が早く済んだので、帰宅途中で蔵前で買い物と休憩をしていこうと思いついた。

先ずは5時までしか営業していないパンのペリカンに寄って、いつものロールパン5個入り600円を買う。4時ころだったか、売り切れの時もあるので心配して行ったが買えてよかった、3時半までは電話で予約して取り置きしておいてくれるが、今日は診察が終わったのが3時半過ぎだったのでいきなり行くしかなかった。

次に、すぐ近くにある私のお気に入りのカフェfrom afarに寄ってみた。浅草方面に行く国際通りから横に入ってちょっと歩くと見つかるが、国際通りに面していないので普段はそれほど混んでいないから穴場だと思っている。国際通りに面した同系列の半月は店の前に2組の女性たちが立っていたので混んでいたのかもしれない、私は半月よりこちらの方が好みだ、広々しているし、すいていることが多いし、何時間いてもいい雰囲気がある。

到着してみると今日は結構混んでいた、人気が出てきたのか、しかし満席ではなかったのですぐに座れた。570円のブレンドコーヒーを注文、水はセルフサービス、席はあいている好きなところに座れる。ここのブレンドコーヒーは苦み中心の味で自分の好みだ、あまり酸味のあるコーヒーは苦手だ、また、ずいぶん洒落た高そうなコーヒーカップに入れてくれるのも良い。

ゆっくりコーヒーを飲みながら内部を見ていると来ている客はほとんど若い女性だ、男性はほとんどいない、彼女たちを引き付けるお洒落感があるのだろう。ゆっくりくつろげた。

さて、帰宅してからの夕食、せっかく買ってきたロールパンに合うように今夜は鮭のムニエルの洋食となった。

ペリカンのロールパンは独特の形をしている、生地をロールパン型に成形しただけでなく、もうひと巻きしてあるからだ、そして味は、パン生地に非常に粘り気というか弾力性があり、かつ、生地がびっしり詰まって密度が高い食感がするのだ、実においしい、贅沢な作りだ、これ以上おいしいロールパンを知らない。

今日はお菓子の塩野に行き、四川飯店、平河町、眼科、蔵前と盛りだくさんな一日だった、眼は視力、眼圧、視野の検査をして異状なく一安心

お疲れさまでした。


岩瀬桜川カントリークラブでゴルフ

2024年04月04日 | ゴルフ

茨城県桜川市の岩瀬桜川カントリークラブに行ってきた。費用は二人で13,000円。この日は天気予報が急変し、曇りの予報が雨まじりの天気になった。その結果、乗用カートのコース内乗り入れが禁止に。

このコースは好きなコースだ、すいていることが多いし、コースレイアウトも飽きがこない面白さがある。ワングリーンでところどころ池やがけが絡む、アップダウンも適度にある。コースは広々としており、飛ばし屋有利のレイアウトだ。平成元年開場と比較的新しいコースだが、クラブハウスはちょっと老朽化している。平成16年に破産し、今の経営会社が買収して今日に至っている。

今日は雨の天気に変わったので来場者も多くなく、到着後、すぐにスタートできた。途中全く前後の組が見えず、スイスイまわれたのはよかった。ハーブ2時間かからないで気持ちよく回れた。

昼食もまあまあだった。

コースについて、以前はいろいろ問題があったが、徐々に改善しているところがわかった、カート道路の整備や芝が剥げているティーグラウンドの整備、貴重品ボックスの設置などだ。カートにナビがついているがこれも以前は無かったように思うので、改善姿勢は評価できる。

さて、今回のラウンドで不満を感じたのはグリーンだ。スティンプメーター8.5ftと表示してあったが遅すぎる。これでは日頃プレーしているコースと違いすぎて調子が狂う。せめて9.0ft以上にすべきでしょう。

ストレスなく楽しめた一日でした。


映画「ハドソン川の奇跡」を観た

2024年04月03日 | 映画

テレビで放送していた映画「ハドソン川の奇跡」を観た。2回目の鑑賞だ。2016年、96分、アメリカ、監督クリント・イーストウッド、原題Sully(Sullyというのは機長のニックネーム)。イーストウッド監督の映画は好きなものが多い、「マディソン郡の橋」、「グラン・トリノ」など何回か見直している。

2009年のアメリカ・ニューヨークで起こった航空機事故を、当事者であるチェズレイ・サレンバーガー機長の手記「機長、究極の決断 『ハドソン川』の奇跡」をもとに映画化したもの。

2009年1月15日、乗客乗員155人を乗せた航空機がマンハッタンの上空850メートルでバードアタックに遭い、コントロールを失う。機長のチェズレイ・“サリー”・サレンバーガー(トム・ハンクス)は管制塔から指示のあった近くのラガーディア空港かティーターボロ空港に緊急着陸しようとするが、とっさに無理と判断、ハドソン川に不時着させることに変更、見事に成功する。その後も真冬の川に浸水した機体から乗客の誘導を指揮し、全員が救出される。サリー機長は一躍、国民的英雄として称賛されるが、その判断が実は乗員、乗客の安全を脅かすものとして国家運輸安全委員会の厳しい追及が行われることになり・・・・

観た感想を述べてみよう

  • 実際に起った話だから着陸自体は本当に成功したのだろうが、ハドソン川に不時着を決断してから実際に実行するまでの時間はわずかで、ハドソン川を航行している船も多かっただろうに良くそれを避けて着陸できたものだ、本当に事故が起らなかったのは奇跡としか言い様がない
  • 事故は1月15日に起った、ニューヨークの冬は極寒だ、そこで冷たい川に落ちないまでも風が吹きすさぶ外にいきなりコートも着ないで放り出されて良く心臓麻痺とか急死する人がいなかったものだ
  • トム・ハンクス演ずる主人公の機長サリーが乗機前から公聴会の終了に至るまで、憂鬱そうな表情だったのがどうしてなのか気になった、もちろん当局からの訴追を心配し出してからは当然だが、終始一貫してアメリカ人らしい明るさが全然ないのだ、公聴会で機長の判断が適切だと決した後でもだ、これは史実に忠実なのかもしれないが、観た後のすっきり感がなかった、ただ、公聴会の最後に、「より良い代替策はあり得たか」と聞かれた副機長のジェフは、「不時着は7月にすべきだった」と冗談を言って笑わせたのはアメリカ人らしいユーモアで救われた
  • 公聴会ではコンピューターを使って他の空港に緊急着陸できたどうかのシミュレーションをして、最初は緊急着陸できた、という結論になり機長らは追い詰められるが、そのあとの機長の反論が素晴らしかった、この物語の一番のキモであろう、観ていて「なるほど」と思った

さて、この映画を久しぶりに見直してみて、すぐに思いつくのは今年1月2日に羽田空港滑走路上で起った日航機と海上保安庁機の衝突事故、その後の日航機からの乗員乗客379人全員の脱出劇だ。テレビで、衝突の瞬間や機体の火災を見て、ヘタしたら全員死亡の悪夢が頭によぎった人は多かっただろう。それが全員無事に脱出とのニュースに接したときの驚きと乗員乗客の冷静な行動に対する賞賛、これを誰か日本人映画監督が「羽田の奇跡」という映画にしてくれないか。ただ、海上保安庁の飛行機に乗っていた5名のかたが亡くなったことを考えると無理か。

「ハドソン川の奇跡」は24分、155人の脱出劇だったとテロップに出たが、「羽田の奇跡」は18分、379人の脱出であった。

 


半藤一利「昭和史1926-1945」を読む(その4・完)

2024年04月03日 | 読書

(承前)

  • 1940年に三国同盟を締結し、日独伊ソの四国が提携し米英にあたるという日本の方針があったとき、1941年6月にドイツはソ連に進攻を開始した、もし、この時、チャーチルがいうように日本が本気で自国のことを考え全体を見極めていたら、ドイツが約束を破ったのを理由に三国同盟から離脱して中立となり、戦争不参加を決め込むこともできたのです。ドイツの勝利を信じていた日本は三国同盟に固執した
    (コメント)
    半藤氏のいうとおりでしょう、一度決めるとその決定に都合のよい事実しか見なくなるのが今に続く日本人の習性でしょう
  • 昭和16年4月、日米交渉打開のため新鋭米派の野村吉三郎海軍大将を駐米大使に赴任する、これをこころよく思わなかったのが反英米だった外務省でした、それは昭和14年9月に野村さんが外務大臣に就任して反英米派の幹部を交代させる人事をやったことがすごい反発を招き、当時の阿部内閣が貿易省を作る構想を打ち出したとき外務省の全部局が猛反対し、キャリア130人が全員辞表を出して大騒動になった経緯があったからです、その野村さんが中米大使になった時にまた反野村でかたまっていく
    (コメント)
    外務官僚でありながら国際情勢を観る眼がなく、さらに気にくわない外務大臣に反発して国家を危うくする、こういった過去をしっかり書いたことは高く評価できる
  • 日米開戦の攻撃30分前に交渉打ち切りの最後通牒が手渡されることになったが、大使館外交員どもの怠慢というか無神経が災いし、結果的に通告が1時間遅れとなった、これは野村大使に対する外務省エリートたちの反感、不信、不協力の態勢がなしたことでしょう
    (コメント)
    本書の中で、違う理由で遅れたという議論も紹介されているが、私も半藤氏の外務官僚に対する怒りに同意したい、そしてさらに呆れるのは、本書には書いてないが、戦後この日本大使館のキャリア外交官たちが公職追放された来栖三郎以外ほとんど出世することだ
  • 真珠湾攻撃を多くの作家、評論家も万歳万歳の声を上げた、評論家の中島健蔵、小林秀雄、亀井勝一郎、作家の横光利一など、ただ一つだけ注意しておかないとならないのは、開戦の詔書には今までの3つの大戦(日清、日露、第1次大戦)は国際法遵守を述べていたが、今回はそれがないことです。真珠湾攻撃に宣戦布告がなかったことと、開戦布告前に開戦の意図を隠しマレー半島に上陸しタイ国に軍隊を送っていたからだ
    (コメント)
    開戦の詔書の問題点については知らなかった
  • ミッドウェイ海戦から10日ばかりたった6月18日、日本の文学者が大同団結し、「日本文学報国会」を作りました、会長徳富蘇峰、菊池寛、太田水穂、川上徹太朗、深川正一郎、尾崎喜八が各部門の代表になり、吉川英治が「文学者報道班員に対する感謝決議」を唱和して朗読した、自分たちもまた、この戦争に勝つために大いなる責任を与えられ、頑張ろうじゃないか、というのです。日本の文学者はどんどん戦争謳歌、戦意高揚の文学になります
  • 昭和20年8月9日、日ソ中立条約を破りソ連軍が満洲に進攻して来た、8月14日ポツダム宣言受諾を通知したのだからソ連もわかっているだろうと思い込んだがこれが浅はかだった、ポツダム宣言受諾は降伏の意思表示でしかなく、降伏の調印がなされるまでは戦闘は継続されることを知らなかった、満洲の悲劇が始まるのです
    (コメント)
    こういうことは知らなかった
  • 昭和史の20年がどういう教訓を私たちに示したか、その一つは何か起ったときに、複眼的な考え方がほとんど不在であったというのが昭和史を通じて日本人のありでした
    (コメント)
    その通りでしょう、リーダーたちのみならず、新聞がそれを助長していたでしょう、半藤氏も述べているが、昭和史20年の教訓は今でも通用するでしょう
  • 昭和史全体を見てきて結論として一言で言えば、政治的指導者も軍事的指導者も、日本をリードしてきた人々は、なんと根拠なき自己過信に陥っていたことか、ということでしょうか。そして結果がまずくいったときの底知れぬ無責任です、今日の日本人にも同じことが見られて、現代の教訓でもあるようですが。
    (コメント)
    その通りでしょう。そして新聞が何をしてきたのかについても総括してほしかった

いろいろ勉強させられた良い本でした。

(完)


東京・春・音楽祭「ショスタコーヴィチの室内楽」を聴きに行く

2024年04月02日 | クラシック音楽

東京・春・音楽祭2024、「ショスタコーヴィチの室内楽」の公演を聴いてきた、東京文化会館 小ホール、4,500円、私は後ろの方の座席だったのでホール全体が見渡せた、席から観るとほぼ満員に見えた、人気の演奏家4人の出演であり、金曜日の夜ということもあるだろうがこの小ホールを満員にできるのはたいしたものだ。幅広い年令層が来ていたように見えた。

曲目

ショスタコーヴィチ(1906-1975、68才没)
 チェロ・ソナタ ニ短調 op.40(1934、24才時)
 ヴァイオリン・ソナタト長調op.134(1968、58才時)
 ヴィオラ・ソナタ ハ長調 op.147(1975、死の4日前に完成)

演奏

ヴァイオリン:周防亮介(29)
ヴィオラ:田原綾子(30)
チェロ:上野通明(28)
ピアノ:北村朋幹(33)

周防亮介は、 7歳よりヴァイオリンを始める。2016年ヘンリク・ヴィエニャフスキ国際ヴァイオリンコンクール入賞など既に多数の賞を受賞している。12歳で京都市交響楽団との共演を皮切りに、サンクトペテルブルク国立アカデミー管弦楽団、シュトゥットガルト室内管弦楽など多数の内外のオーケストラと共演をしている。

田原綾子は、ソリストとして読売日本交響楽団、東京都交響楽団、東京交響楽団等と共演。室内楽奏者としても国内外の著名なアーティストと多数共演し、オーケストラの客演首席も務める、Music Dialogue Artist、アンサンブルofトウキョウ、エール弦楽四重奏団、ラ・ルーチェ弦楽八重奏団、Trio Rizzleのメンバーとして活躍中。

上野通明は、幼少期をバルセロナで過ごす。13歳のとき、第6回若い音楽家のためのチャイコフスキー国際コンクールで全部門を通じて日本人初の優勝、その後も多数の受賞歴あり、2021年からはベルギーのエリザベート音楽院にも在籍してゲーリー・ホフマンに師事。更なる研鑽を積みながら、主にヨーロッパと日本で活発な演奏活動を行っている

北村朋幹は、3歳よりピアノを始め、浜松国際ピアノ・コンクール第3位、シドニー国際ピアノ・コンクール第5位入賞など数々の受賞歴あり、ベルリン在住

出演者は皆、若手の第一人者ばかりの豪華メンバーだ

今日の演目はショスタコーヴィチの室内楽だが、あまり聞かない作曲家だ、だからといって彼の曲をわざと拒絶しているわけでもない、機会があれば聞いてみたいと思っている。ただ、難解な曲が多いというイメージがあるので手を出しにくいし、今の私の音楽知識ではまだ楽しめる音楽になっていないだけだ

今日はショスタコーヴィチを聴くというより、出演者の4名の演奏を聴いてみたい、見てみたいという思いの方が強い。田原綾子以外はテレビで見たり、公演会で聞いたりしたことがある演奏家である。いずれも若手のホープと言える存在で既に多くの実績を積んできている。

今日の演奏は北村朋幹が全曲ピアノを担当し、チェロ・ソナタは上野が、ヴァイオリ・ンソナタは周防が、そしてヴィオラ・ソナタは田原が出てきて北村朋幹と一緒に弾くという面白い企画であった。

演目は全く初めて聴く曲で、じっくりと聴いたが難しかったというのが正直なところだ。どうもこういう曲は苦手だ。こういう曲はいくらプロでもさすがに暗譜はできないだろうな、などと思ったりした。ショスタコーヴィチも何かのきっかけで好きになる可能性もあるので今後も聴き続けて行きたい。

さて、今日の夜の公演会前の食事だが、上野駅ナカに軽井沢のブランジェ浅野屋のエキュート上野店というパン屋があるので、そこでバジル&ソーセージサンド496円を一つ買って東京文化会館に行くまでの間で歩いて食べる簡略型とした。ただ、パンはやはり温めないとおいしく食べられないなと思った

お疲れ様でした。


赤坂「四川飯店」で麻婆豆腐、あと平河町を歩く

2024年04月01日 | グルメ

赤坂の四川飯店で昼食を取った。一度来てみたかった店だ。四川飯店は池袋東武にも入っていて、そちらは何回か行ったことがあるがこちらは初めて。今日は午後1時過ぎ、そろそろサラリーマンたちが会社に戻るころを見計らって行ってみた。


(右から2番目のビルが四川飯店が入っているビル、左側の赤い看板は四川飯店と書いてある)

場所は赤坂見附から歩いて行けるが、永田町が一番近い。今日は赤坂の塩野で桜餅の買い物をした後に行ったので、赤坂から歩いて15分くらいかけて到着した。

店はビルの5階と6階にあり、受付は6階だった。エレベーターを降りると店の人がいて、とりあえず店内のウェイティングスペースで待ってくれ、とのこと。すでに一人の客が座っていた。5分もしないうちに呼ばれて二人掛けの席に案内される。

食べるものは決めていた、ここは四川料理の店、昼のランチコース、麻婆豆腐ランチ1,600円たのんだ。

この店は創業者の陳建民が1952年に来日し、1958年秋、現在の西新橋である東京・田村町に最初の四川飯店を創業し(現在は閉店)、続いて、1960年に六本木の2号店、1970年に赤坂四川飯店をオープンし、さらに全国各地に店舗を展開していった。その後、陳建一が二代目オーナーシェフとして「料理の鉄人」や 「きょうの料理」などのテレビ出演で有名になったのはご存知の通り。


(陳健一のユニフォーム)

さて、料理が出てきた、麻婆豆腐にご飯(お替り無料)、ザーサイ、卵スープのセット。麻婆豆腐の量が結構ある。食べてみると麻婆豆腐の味は少し辛め、花椒もほのかに効いている好みの味、ご飯にかけてレンゲで食べる、一膳でやめておきたいと思ったが麻婆豆腐が食べきらないのでお替りをした。期待にたがわずおいしかった、1,600円は安いでしょう。

店内の雰囲気はまずまず、4人掛けの座席は赤坂見附方面が見える窓側に多く、2人以上で来るときはそちらに座りたい。ある程度の高級感はあった。店員さんたちもてきぱきしていた。

おいしかった。ごちそうさまでした。

さて、ここで食事をした後、この近辺、平河町と紀尾井町の一部、を歩いてみた、めったに来ないところだからだ。


JAのビルがあった、こんな立派なビル持てるなんてJAは金持ちだ


旧白川宮邸洋館があった、中は高そうなレストランになっている。建物の前で写真を撮っている人が多い


この辺りは以前赤坂プリンスホテルがあったところなのだろう、東京ガーデンテラス紀尾井町の大きなビルがあった、中にはThe Prince Gallery Tokyo(ホテル)が入っていた


ガーテンテラスから赤坂見附に歩いていくと弁慶橋という橋があった、釣り堀やボートに乗れる、写真右上がガーデンテラス、手前側が赤坂見附方面

定年退職後はほとんど縁のないところだったがたまには都会を歩くのもいいものだ