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山本武利「検閲官、発見されたGHQ名簿」を読む(その3・完)、2024/2/4一部訂正

2024年02月04日 | 読書

※2024/2/4 一部記載を訂正しました、取消し線で示しています

参謀本部高級幕僚の暗躍

  • 終戦期に自軍の惨敗必死を知りつつ、自身の敗戦後の身の処し方を計算し、自軍の重要インテリジェンスを旧敵国に売り込む行為行った軍人がいた。
  • 有末精三中将(参謀本部第2部長)や服部卓四郎大佐らは売国奴以外の何物でもなかった。有末は河辺虎四郎(参謀次長)にも協力を求めた。彼らは最高機密を旧敵国に最高値で売り込み、占領の手助けをした。多くの高位にある軍人同様に、戦争犯罪で起訴される可能性があったが、彼らは占領軍を手助けしながら自身の戦犯化、家族の窮乏化を回避し、CCDのウォッチリストの作成や追求で、旧軍同僚を追い込んだ。
  • 河辺虎四郎は敗戦時に参謀次長として連合国とマニラで会談、辰巳栄一(陸軍中将)は、𠮷田茂の軍事顧問を務めながらCIAに協力していた。彼らに比べれば、検察官の検閲に協力していた人の罪は軽いし、それの罪や恥を自覚する人々は良心派であった。
  • 有末のように裏で占領軍に協力した旧幕僚が多かった。

(コメント)

立派な軍人もいたが、このような卑劣な軍人がいたのには驚いた。ところが、有末精三中将についてウィキを見ると次のように正反対のことを書いてある、どっちが正しいのだろうか。

「戦後は、ソ連や中国の動向を注視していた占領軍の諜報部参謀第2部(G2)との関係を急速に深め、有末の働きかけにより、大本営の参謀たちは諜報部に次々とスカウトされていった。彼らは諜報部の意向を受けてソ連や中国などへのスパイ活動に従事し、戦犯となることを回避した」。

更にウィキによれば、有末は戦後、勲章までもらっている(昭和8年8月勲四等瑞宝章、昭和15年2月勲三等瑞宝章、昭和20年1月勲二等瑞宝章)。著者の指摘が正しいとすれば、時の政府はいったい何を考えていたのだろう。

CCD資料の行方

  • CCDの工作で入手し作成されたウォッチリスト、傍受記録、コメントシート、新聞、雑誌、書籍などの資料は膨大であり、この活動を歴史的に残す方策が検討された。
  • マッカーサーやウィロビーなどは、この資料のコレクションのインテリジェンス的価値を見抜いていたためCCD工作中から整理、保存しようとした。日本人側はその存在を知らなかったし、知っても価値がわからなかった。CCDが残した資料群は、1978年にメリーランド大学ブランゲコレクションになった。
  • このコレクションは、敗戦国日本の言論、通信が幅広く検閲された時期の負の刻印である。そのコレクション作成のために、旧敵国に動員されたのは日本人検閲官であり、その数は著者の推定では2万人もいた。彼らは高学歴だが貧困に喘いでいて、捕虜、極端な場合は奴隷のような心情で汚名を忍んで米側の命令のまま、自国民の言動を検閲で盗み見たり、盗み聞いたり、密告したりしていた。
  • 米軍のやり方は、どさくさに紛れて敗戦国の資産を戦勝国が戦利品として無断で持ち去る行為である。これらの資料の返還請求は敗戦国民の正当な権利である。

(コメント)

こういうことをやるアメリカは好きになれない。

アメリカは戦時中に日本に対し明々白々の戦争犯罪を犯し、戦後の日本占領時には憲法違反の言論検閲を行った。その検閲がどのように行われたか理解が進み参考になった。

(完)



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