ゆっくり行きましょう

気ままに生活してるシニアの残日録

半藤一利「昭和史1926-1945」を読む(その4・完)

2024年04月03日 | 読書

(承前)

  • 1940年に三国同盟を締結し、日独伊ソの四国が提携し米英にあたるという日本の方針があったとき、1941年6月にドイツはソ連に進攻を開始した、もし、この時、チャーチルがいうように日本が本気で自国のことを考え全体を見極めていたら、ドイツが約束を破ったのを理由に三国同盟から離脱して中立となり、戦争不参加を決め込むこともできたのです。ドイツの勝利を信じていた日本は三国同盟に固執した
    (コメント)
    半藤氏のいうとおりでしょう、一度決めるとその決定に都合のよい事実しか見なくなるのが今に続く日本人の習性でしょう
  • 昭和16年4月、日米交渉打開のため新鋭米派の野村吉三郎海軍大将を駐米大使に赴任する、これをこころよく思わなかったのが反英米だった外務省でした、それは昭和14年9月に野村さんが外務大臣に就任して反英米派の幹部を交代させる人事をやったことがすごい反発を招き、当時の阿部内閣が貿易省を作る構想を打ち出したとき外務省の全部局が猛反対し、キャリア130人が全員辞表を出して大騒動になった経緯があったからです、その野村さんが中米大使になった時にまた反野村でかたまっていく
    (コメント)
    外務官僚でありながら国際情勢を観る眼がなく、さらに気にくわない外務大臣に反発して国家を危うくする、こういった過去をしっかり書いたことは高く評価できる
  • 日米開戦の攻撃30分前に交渉打ち切りの最後通牒が手渡されることになったが、大使館外交員どもの怠慢というか無神経が災いし、結果的に通告が1時間遅れとなった、これは野村大使に対する外務省エリートたちの反感、不信、不協力の態勢がなしたことでしょう
    (コメント)
    本書の中で、違う理由で遅れたという議論も紹介されているが、私も半藤氏の外務官僚に対する怒りに同意したい、そしてさらに呆れるのは、本書には書いてないが、戦後この日本大使館のキャリア外交官たちが公職追放された来栖三郎以外ほとんど出世することだ
  • 真珠湾攻撃を多くの作家、評論家も万歳万歳の声を上げた、評論家の中島健蔵、小林秀雄、亀井勝一郎、作家の横光利一など、ただ一つだけ注意しておかないとならないのは、開戦の詔書には今までの3つの大戦(日清、日露、第1次大戦)は国際法遵守を述べていたが、今回はそれがないことです。真珠湾攻撃に宣戦布告がなかったことと、開戦布告前に開戦の意図を隠しマレー半島に上陸しタイ国に軍隊を送っていたからだ
    (コメント)
    開戦の詔書の問題点については知らなかった
  • ミッドウェイ海戦から10日ばかりたった6月18日、日本の文学者が大同団結し、「日本文学報国会」を作りました、会長徳富蘇峰、菊池寛、太田水穂、川上徹太朗、深川正一郎、尾崎喜八が各部門の代表になり、吉川英治が「文学者報道班員に対する感謝決議」を唱和して朗読した、自分たちもまた、この戦争に勝つために大いなる責任を与えられ、頑張ろうじゃないか、というのです。日本の文学者はどんどん戦争謳歌、戦意高揚の文学になります
  • 昭和20年8月9日、日ソ中立条約を破りソ連軍が満洲に進攻して来た、8月14日ポツダム宣言受諾を通知したのだからソ連もわかっているだろうと思い込んだがこれが浅はかだった、ポツダム宣言受諾は降伏の意思表示でしかなく、降伏の調印がなされるまでは戦闘は継続されることを知らなかった、満洲の悲劇が始まるのです
    (コメント)
    こういうことは知らなかった
  • 昭和史の20年がどういう教訓を私たちに示したか、その一つは何か起ったときに、複眼的な考え方がほとんど不在であったというのが昭和史を通じて日本人のありでした
    (コメント)
    その通りでしょう、リーダーたちのみならず、新聞がそれを助長していたでしょう、半藤氏も述べているが、昭和史20年の教訓は今でも通用するでしょう
  • 昭和史全体を見てきて結論として一言で言えば、政治的指導者も軍事的指導者も、日本をリードしてきた人々は、なんと根拠なき自己過信に陥っていたことか、ということでしょうか。そして結果がまずくいったときの底知れぬ無責任です、今日の日本人にも同じことが見られて、現代の教訓でもあるようですが。
    (コメント)
    その通りでしょう。そして新聞が何をしてきたのかについても総括してほしかった

いろいろ勉強させられた良い本でした。

(完)


半藤一利「昭和史1926-1945」を読む(その3)

2024年03月31日 | 読書

(承前)

  • 昭和4年のウォール街の暴落以降、不景気が国中を覆っていました、世の中に失業者があふれていました、早くその不景気から脱したいという思いが戦争景気への期待を高めたのだと思います
    (コメント)
    この世界恐慌により列強は自国及びその植民地を束ねたブロック経済に移行し自国ファーストの政策を急激に進め、資源を持たない日本やドイツ、イタリアは経済的に大きく追い詰められ、大不況に見舞われた。満洲への期待はふくらみ、日本は満洲を自国の経済ブロックと考えるようになる、これを批判するなら列強のブロック経済についても強く非難すべきではないか
  • 本書では満州事変は北一輝の思想に影響された石原莞爾が世界戦争に備え満洲を手に入れ日本の国力、軍事力育成の大基盤として利用するために考え、実行されたものと説明している
    (コメント)
    そのような面もあるだろうが、それは一面であって、事変に至までに日本が正当に獲得した満洲の権益について、中国が革命外交などにより無効化し、日本人入植者、居住民に対する日常的な嫌がらせ、虐殺など(南京事件、済南事件など)で多くの犠牲が出たにもかかわらず何の対抗措置をとらない日本政府(幣原外相)に現地の日本人は見放された思いをした。その日本政府に中国は感謝するどころか見下すようになり、その後さらに中国全域で日本人に対するテロ、殺人事件が急増し、満洲でも同様であった、それでも日本政府は善隣外交路線を変えず現地の訴えを黙殺した、このため現地人は満洲の治安維持をしている関東軍に訴えるようになった、リットン報告書でも満洲における日本権益の正当性や、その権益を中華民国が組織的に不法行為を含む行いによって脅かしていることを認定している、本書は事変に至るこういった経緯についてほとんど触れていない
  • 天皇機関説問題は、天皇を守っている穏健平和派である宮中の重臣達と、それを潰そうとする平沼騏一郎を旗頭とする強硬路線の面々があり、これに軍部が結びつこうとして言い出した権力闘争である、天皇機関説は、天皇は統治するけど議会や内閣の主体的な判断により国を運営していこう立憲自由主義的考えで、これを天皇の力を弱めようとするものだと批判したのが天皇機関説問題である
    (コメント)
    天皇機関説問題とはどういうことか理解してなかったので勉強になった
  • 2.26事件後、広田内閣が誕生した、城山三郎は小説「落日燃ゆる」で広田を非常に持ち上げているため大変立派な人と思われているが、この広田内閣がやったことは全部、とんでもないことばかりです。軍部大臣現役武官制の復活、日独防共協定締結、北守南進政策の策定、不穏文書取締法の策定など軍部が誤った方向に暴走することを許した
    (コメント)
    その通りだと思う、半藤氏が文民宰相であった広田を強く批判しているのは評価できる
  • 昭和11年2月14日の永井荷風の日記には「現代日本の禍根は政党の腐敗と軍人の過激思想と国民の自覚なきことの3つなり、個人の覚醒は将来に置いてもこれは到底望むべからざる事なるべし」と紹介している
    (コメント)
    このような事を紹介するのは碩学の半藤氏ならではであり、大変参考になる、そして、今日でもお粗末な国会議員の振る舞いを見ていると、「この国民にして、この政治あり」(藤原正彦教授)と思わざるを得ない、その政治家を選んでいる国民にこそ政治家の資質について大きな責任があり、政治家を非難しその政治家を選んだ国民を非難しないマスコミも許せない
  • 南京で日本軍による大量の虐殺と各種の非行事件の起きたことは動かせない事実であり、日本人のひとりとして、中国国民に心からお詫びしたいと思うのです
    (コメント)
    半藤氏がそのように思うのは自由だが、私は藤原正彦教授の「私は大虐殺の決定的証拠が一つでも出てくる日までは、大虐殺は原爆投下を正当化したいというアメリカの絶望的動機が創作し、利益のためなら何でも主張するという中国の慣習が存続させている悪質かつ卑劣な作り話であり、実際には通常の攻略と掃討作戦が行われただけと信ずることにしています」(「日本人の誇り」p120)という見解を支持する
  • 昭和13年1月、国家総動員法が議会に提出された、民政党や政友会は懸命に、何とか制限を加えようと頑張っていたのですが、何と左翼の社会大衆党が何度も賛成論をぶったのです。法案が国家社会主義的なものだったからでしょう
  • 昭和14年12月26日、日本は朝鮮に対し合併以来、日本人として暮らす朝鮮人に「創氏改名」を押し付けました、朝鮮の文化そのものを真っ向から破壊するとんでもない政策でした
    (コメント) 
    昭和15年3月6日の朝日新聞には、「氏の創設は自由、強制と誤解するな、総督から注意を促す」という見出しの記事がある

(その4・完に続く)


半藤一利「昭和史1926-1945」を読む(その2)

2024年03月30日 | 読書

(承前)

  • 満洲での自分たちの権利をしっかり守り、うまく利用するために、明治43年(1910年)に間にある朝鮮を併合してしまうと言う強硬手段に出たのです
    (コメント)
    あまりに乱暴な書き方である
  • 張作霖爆破事件による昭和4年の田中義一内閣崩壊により「沈黙の天皇」を作り、翌年ロンドン海軍軍縮条約に関し「統帥権干犯」問題により海軍の良識派(条約派)が駆逐され強硬派が主流になり、昭和の日本は対米強硬路線に動いていった
    (コメント)
    半藤氏は本書の中で昭和天皇の決断について批判的に記述しているが如何なものか、昭和天皇は内閣の決定事項について拒否権発動が常態化すれば専制君主国になってしまうことを恐れた、半藤氏はそれではダメだと言いたいのか、天皇機関説問題のところでこのような天皇のお考えも明治憲法の解釈としてありうると書いている、それを軍部が批判し天皇の権限は絶対的なものだと解釈した、半藤氏の「沈黙の天皇」批判は軍部の憲法解釈が正しいと言っていることと同じにならないか
  • 参謀本部は昭和6年6月「満蒙問題解決方策大綱」を作るが、その中で注目すべきはその終わりの方に、この大方針を実行するには内外の理解が必要であると述べていることである。その「内」とはマスコミのことをさす、この辺からマスコミが軍の政策に協力しないと、つまり、国民にうまく宣伝してもらわなければ成功しないと言うことを軍部は意識し始める。張作霖事件以降の陸軍の目論見が全部パーになったのは反対に回ったマスコミにあおられた国民が「陸軍はけしからん」と思ってしまったのが原因だと大変反省したからです。
    (コメント)
    今と同様、政府も軍部も世論に反したことはなかなかできない、だからこそマスコミの役割が大事になる、戦前の日本を軍国主義と言うなら、その軍国主義なるものを支持し政府や軍部、国民を煽ったマスコミはもっと非難されるべきだろう
  • 1931年9月18日に満州事変が発生したが、新聞はそれまで軍の満蒙問題については非常に厳しい論調だったのが、20日の朝刊からあっという間にひっくり返った。世論操縦に積極的な軍部以上に、朝日、毎日の大新聞を先頭に、マスコミは競って世論の先取りに狂奔し、かつ熱心きわまりなかった。そして満洲国独立案、関東軍の猛進撃、国連の抗議などと新生面が開かれるたびに、新聞は軍部の動きを全面的にバックアップしていき、民衆はそれに煽られてまたたく間に好戦的になっていく、「各紙とも軍部側の純然たる宣伝機関と化したといっても大過ない」という状況だった
    (コメント)
    半藤氏がこのようなマスコミの汚点をキチンと紙幅を費やして書いていることは高く評価できる、新聞がいかに国民や政府、軍部をミスリードしていたのか日本人はもっと知るべきである、その意味で本書は大変価値があると思う、こういう事実も歴史教科書に書き子供にも教えるべきでしょう
  • 事変発生後の10月2日、関東軍は「満蒙問題解決案」を決める、それは満洲を傀儡国家とする方針だ、この方針でうまく国民をリードするには例によって新聞を徹底的に利用しようと考えた、戦争は新聞を儲けさせる最大の武器、だから新聞もまた、この戦争を煽りながら部数を増やしていこうと軍の思惑通りの動きをした。事変の本格的な報道は10月から始まるが、朝日と毎日は競って大宣伝を重ね、号外も乱発した、当時の毎日新聞論説委員が自嘲的に「事変の起ったあと、社内で口の悪いのが自嘲的に“毎日新聞後援・関東軍主催・満洲戦争”などと言っていましたよ。それだけではなく、新聞社の幹部も星ヶ丘茶寮や日比谷のうなぎ屋などで陸軍機密費でご馳走になっておだをあげていたようだ。
    (コメント)
    呆れてものが言えない
  • これだけではない新聞の不都合な真実
    ・松岡外相が満州事変後の国連総会でリットン報告書に反対して退席し、日本に帰国したとき、新聞は松岡を礼賛し、これほどの英雄はいないと持ち上げた
    ・ノモンハン事件の最中に、反米・反英感情が増大する天津事件が起り、新聞が7月15日に英国けしからんという強硬な共同声明を出した、そういったこともあってイギリスは日本の主張を受入れたが、その直後の7月27日にアメリカは日米通商航海条約の廃棄を通知し、これ以降日本に対し強硬路線をあわらにするようになった
    ・これ以外も記載があるが省略

(続く)


半藤一利「昭和史1926-1945」を読む(その1)

2024年03月29日 | 読書

半藤一利「昭和史1926-1945」(平凡社)をKindleで読んだ。半藤氏(2021年、90才没)のこの本は書店で一時期多く平積みされており、目立っていたし、Amazonを見ても多くのレビューコメントがついており、いつか読むべきだと思っていた。

半藤氏は文藝春秋の編集長を務められるなど知識産業の要職にあったが同時にプライベートでも歴史研究を地道にされていたのだろう。本書以外にも多くの近現代史に関する本を出筆されており、既にお亡くなりになっているが現代における代表的知識人の1人と言えよう。奥さんは夏目漱石のお孫さんである。

この時代を説明した書籍には、近現代史専攻の大学教授のものも当然あるが、一般に広く読まれているのは半藤一利氏や渡部昇一氏など本職が歴史研究の専門家(大学教授)ではない人の書いたものが圧倒的に多いのは皮肉であろう、しかしその道の専門家顔負けの読書量などを背景に実によく勉強して書いていると思われる。

さて、それでは本書を読んだ感想を書いてみよう。先ず最初に全般的読後感だが、大変勉強になった。読んでみればわかるが半藤氏はよく勉強されており、また、元軍人などにもインタビューされており、他の書物では触れられていないような参考になる内容も多かった。本書が広く読まれているのもさもありなんと思った。

それでは本書の具体的な記載内容について勉強になった点、評価できる点、逆に同意できなかった点などについて書いていこう。

  • 日本は明治維新後40年をかけて近代国家になったが、その後、大正、昭和になると自分たちは強国などだといい気になり、自惚れ、のぼせ、世界中を相手にするような戦争をはじめ、明治の父祖が一所懸命作った国を滅ぼしてしまう結果になる
    (コメント)
    半藤氏のこのような歴史観は戦勝国から押し付けられた彼らに都合の良い歴史解釈と同じではないか。日本に大きな影響を与えた世界情勢、周辺環境、列強の悪意についてもっと語ってほしかった。例えば、半藤氏はコミンテルンの活動や、世界恐慌後の列強のブロック経済についても触れていない。日本の第2の敗戦は、戦後にこういった歴史観を信じ込まされたことではないか。
  • 張作霖爆破事件(1928年、昭和3年)前の満洲の状況の説明において、日本が人口増への対応として満洲への移民を行い、現地で日本人による昔から満洲にいた満州人、或は蒙古人、朝鮮人といった人たちが開拓して住んでいた土地を強制的に奪う、またはものすごく安い金で買い取ったりして、恨みを買うことになった、と記載
    (コメント)
    当時満洲を支配していた張作霖はもと馬賊で、日露戦争後に関東軍と手を結び、軍閥を組織し、徴収した金をすべて自分のものにしていた、そのような現地住民を搾取する軍閥に住民は苦しめられていた点についても触れてほしかった、日本が満州権益を獲得後、多額の投資をし、地域を豊かにし、それゆえ中国から多くの移民が増加し人口も著しく増加したことも書いてほしかった
  • 1914年(大正3年)ヨーロッパで第1次世界大戦が起きてしまいます、アジアの国々はあまり関係ありませんでしたが、日本はこれをチャンスと考えました、1915年、まだ弱体な中華民国政府に対して強引な要求をつきつけます、これを「対華21か条の要求」といいます
    (コメント)
    21か条要求(大隈内閣、加藤高明外務大臣)についてはいろんな研究がある、日本が半藤氏の言う強引な要求をつきつけたとは必ずしも言えないのでは、とも感じる、例えば
    ・日本が一方的に押し付けたのではなく4か月に及ぶ交渉を経て決着した
    ・交渉では中国の要求を受け入れた部分も多く、中国の意思を束縛してない
    ・最後通牒が強引さを印象付けたが、袁世凱からそうしてくれと言われた
    ・もう最期通牒を出せと新聞が煽った、吉野作造も最後通牒しかないと断じた
    ・要求内容は中国には厳しいものだが、当時の国際情勢では普通の要求
    ・日華条約として合意したが、袁世凱から要求の形にしてくれと要請された
    ・条約の一部は公表しないと合意したのにそれを破り日本の横暴と宣伝された
    そう単純なことでもない、袁世凱にしてやられた日本外交の失敗であろう、陸奥宗光「蹇蹇録」の中で伊藤博文が「清国は常に孤立と猜疑とを以てその政策となす。故に外交上の関係において善隣の道に必要とするところの公明真実を欠くなり」と述べていたが、大正時代のリーダーたちは先人のこの観察眼を欠いていたのでしょう

(続く)


高階秀爾「カラー版名画を見る眼Ⅰ(油彩画誕生からマネまで)」を読む

2024年03月15日 | 読書

高階秀爾「カラー版名画を見る眼Ⅰ(油彩画誕生からマネまで)」を読んだ。昨年、同じ本のⅡ(印象派からピカソまで)を読んでよかったのでⅠの方も読んでみたくなった(Ⅱの読書感想ブログはこちら)。著者の説明によれば、この本を2冊に分けたのは、歴史的に見てファン・アイクからマネまでの400年のあいだに、西欧絵画はその輝かしい歴史のひとつのサイクルが新しく始まって、そして終わったと言いえるように思われたからであり、マネの後、19世紀後半から、また新しい別のサイクルが始まって今日に至っているからだという。

高階氏は昭和7年生まれ、大学で美術史を研究し、パリに留学、文部技官、東大教授、国立西洋美術館館長などを経て、現在、大原美術館館長となっている。

Ⅰの時と同じように、本書で取り上げている15名の画家の名前と生国、年令、生きた期間を書いておこう。国は現在の国に置き換えているものもある。

  1. ファン・アイク(フランドル地方、1390-1441、51才)
  2. ボッティチェルリ(伊、1444-1510、66才)
  3. レオナルド・ダ・ビンチ(伊、1452-1519、67才)
  4. ラファエルロ(伊、1483-1520、37才)
  5. デューラー(独、1471-1528、57才)
  6. ベラスケス(スペイン、1599-1660、61才)
  7. レンブラント(蘭、1606-1669、63才)
  8. プーサン(仏、1594-1665、71才)
  9. フェルメール(蘭、1632-1675、43才)
  10. ワトー(仏、1684-1721、37才)
  11. ゴヤ(スペイン、1746-1828、82才)
  12. ドラクロワ(仏、1798-1863、65才)
  13. ターナー(英、1775-1851、76才)
  14. クールベ(仏、1819-1877、58才)
  15. マネ(仏、1832-1883、51才)

本書を読み終わって改めて高階氏の絵画に関する見識に感心した。本書は新書版のわずか200ページちょっとのボリュームであるけど、氏が選んだ15名の画家たちが描いた絵の専門的なポイント、歴史的背景などを簡潔にわかりやすく説明されていて非常に勉強になった。次からまた絵を観るのが楽しみになった。

難しいこともわかりやすく説明できてこそ本当の専門家だと思う。難しいことを難しくしか説明できない人は、その難しいことを本当は理解していないからだろう。そういう意味で本書での高階氏の説明に改めて感心した。

さて、今回は、氏の解説で参考になった点からいくつか取り上げて以下に書いてみた。

ラファエルロ

聖母マリアの服装は、教義上特別な意味がある場合を除き、普通は赤い上衣に青いマントを羽織ることになっている

デューラー

人間の身体の四性論、人間の身体の中には血液、胆汁、粘液、黒胆汁の四種類の液体が流れており、黒胆汁の多い人は憂鬱質になり、内向的、消極的で孤独を好むあまり歓迎されない性質とされていた。それが15世紀後半から大きく変わって、多くの優れた人間はみな憂鬱質であるとされるようになった。少なくとも知的活動や芸術的創造に向いていると考えられるようになった。ただ、社交的で活発な多血質と正反対の性格である憂鬱質の人間に世俗的な成功は望めない、人々には認められずに、ただ一人、自己の創造の道を歩むというのが創造的芸術家の運命である。ミケランジェロは「憂鬱こそはわが心の友」と言っている。

レンブラント

彼の人生は明暗ふたつの部分にはっきりと分けられる、地位も名声もあった華やかな前半と失意と貧困の後半、彼の絵もそれに応じて著しく変化した

ゴヤ

彼は1792年ころから次第に聴力を失い、遂には完全に耳が聞こえなくなってしまった。それまで外面的なものに向けられてきたゴヤの目が、人間の心の内部に向けられるようになったのは、それからのことである。

ドラクロワ

彼はロマン派絵画の代表的存在とみなされ、当時新古典派主義の理想美を追求するため先例の模倣のみをこととする形式的な「アカデミズム」から激しい非難や攻撃を受けた。彼が正式にアカデミーの会員になったのは十数年も待たされた挙句、死のわずか5年前であった、しかし歴史の歩みは個性美を主張したドラクロワの美学の勝利を語っている。

クールベ

クールベの作品は当時の市民社会を告発するような社会主義的作品であり、思想的に急進派であったが、画家としてはルネサンス以来の絵画の表現技法を集大成してそれを徹底的に応用した伝統派であった。

マネ

彼の「オランピア」はルネサンス以来の西洋絵画に真っ向から疑問を突き付けた、すなわち西洋400年の歴史に対する反逆だった、彼の絵は全く平面的な装飾性を持ったトランプの絵模様みたいで、この二次元的表現は、対象の奥行や厚み、丸みを表そうとしたルネサンス以来の写実主義的表現と正反対のものであった、それでいて絵に立体感があるのは彼の鋭い色彩感覚のため、マネ以降、近代絵画は三次元的表現の否定と平面性の強調という方向に進む

とても勉強になった。


五百旗頭真 「日米戦争と戦後日本」を読んで(2024/3/8追記)

2024年03月08日 | 読書

(2024/3/8追記)

防衛大学校の学校長などを務め、東日本大震災や熊本地震からの復興に有識者の立場で力を尽くした、政治学者の五百旗頭真氏が6日、亡くなった。享年80歳。

私は昨年、五百旗頭氏の本を読んで以下のブログを書いた。また、普段からテレビなので氏の鋭い論説に感心していた。ここに五百旗頭氏の生前の功績を称えるとともに、謹んでご冥福をお祈りします。

(以下、当初投稿)

BS放送「プライムニュース」で五百旗頭真教授が出演されて日本の防衛政策を解説されているのを見て、五百旗頭先生の高い見識に感心したので、先生の書いた本を何か読んてみようと思い、Amazonで調べてみると、この本を見つけたのでKindleで読んでみた。

読んでみると先生がいろんな資料、文献に当って、それらをベースに歴史の事実と解釈を述べていられるのはいかにも大学教授らしい緻密なアプローチと感じた。私自身のこの分野には大変興味があるあるので多少勉強はしてきたが、先生のこの本を読んで初めて知ったことも多く、読んだ価値が大変大きいと言えよう。そのような点を少し述べれば

  • アメリカの占領は6年間の長期に及んだが、これは早期講和を目指すと敗戦国に苛酷な講和条件とになり日本にとってよくないので、𠮷田首相や外務省はGHQと交渉して占領がある程度の期間に及ぶようにし、その間に占領政策(民主化政策)に協力してよい講和条件を得る方針をとった、戦争で負けたが外交で勝つ戦略で、これは成功した
  • 日露戦争後、アメリカは日本を敵視することになったが、それはポーツマス講和の斡旋をし、日本にとって価値のある講和の成立に尽力したアメリカに対し、恩義を感じるどころか、不満を爆発させ日比谷焼討ち事件や反米デモなどをしたからである、当時の日本人及びその日本人を煽った日本の新聞、大学教授などの知識人までがいかに国際認識を欠いていたか
  • ルーズベルトの政治的本能として、大国間の離反をさせるバランスオブパワーの原理を追求していた、彼はカイロ会議で蒋介石に琉球諸島を戦後中国のものにする提案をしたが蒋介石が琉球は長年日本のものだからと辞退した、千島をソ連所属としたため戦後日ソで領土問題が残った、満州と外蒙古の関係も戦後中ソ間の争いの種になった
  • 硫黄島と沖縄戦は米軍の敗北だ、それは犠牲者が想定よりもずっと多かったたり制圧に予想外の時間がかかっていたからだ、日本本土に近づくほど日本人は驚異的な戦いをするので、米軍の本土攻撃の再検討をもたらした
  • アメリカが日本の暗号を解読していたのや有名だが、実は、日本もアメリカの暗号を解読していたことが近年、研究者の発見で明らかになった、解読していたからこそ、東郷外相は開戦間近の和平暫定協定に手応えを感じていた、しかしハルノートを突きつけられたので絶望した

更に、昭和天皇がポツダム宣言受諾について決断を仰がれた際に、「自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい」と発言されたことを記載していることは評価できる。天皇はマッカーサーにも同様なことを述べられた(諸説あり)が、このような大事なことが日本の歴史教科書には書いてないらしい、なぜなのか。

さて、この本だが、先生の説明に素直に同意できない箇所もある、一つだけ述べよう

先生は「日本はアジアにおける最初の近代帝国を築いたが、やがて強くなった腕が一人で動きだす、満州事変以降の日本の歴史はまさにそうであった」などと述べ、戦前の日本の行動を非難されている。こうも断定的に非難できるものだろうか。歴史は複雑で、その評価を白か黒かで下せるのか。当時の日本がおかれていた状況を日本人はどう感じて、日本の行動をどう思っていたのか、もっと知りたい。何かを感じもせず腕は一人で動かないはずた。世論をリードした当時のメディアや知識人は国際認識を欠いていたのか。もっと歴史を多角的に検討、評価してほしいと感じた。


吉田秀和「音楽のよろこび」を読む

2024年02月24日 | 読書

吉田秀和「音楽のよろこび」(河出書房新社)を読んだ。氏の本は何冊か持っているが、この本は最近本屋で偶然見つけて面白そうだったので買ってみたものだ。

この本は氏が指揮者、文学者、作曲家などクラシック音楽に造詣の深い人たちと雑誌の企画などで対談したときの対談集である。巻末の初出一覧を見ると1955年から2011年までに行われた12の対談であり、古いものもあるが内容的には今に通用する議論が多いと思った。

対談の相手を記せば

中島健蔵(フランス文学者、文芸評論家)
平島正郎(音楽学者、明治学院大学教授)
遠山一行(音楽評論家、東京文化会館館長)
園田高弘(ピアニスト)
高城重射(オーディオ評論家、音楽評論家)
斉藤義孝(ピアノ調律師)
藤原義江(オペラ歌手、(声楽家)
若杉 弘(指揮者)
柴田南雄(作曲家、音楽評論家)
武満 徹(作曲家)
堀江敏幸(作家、フランス文学者)

吉田氏や対談相手の各氏は音楽に関係した仕事のプロであり、私にとっては内容的にかなり難しい議論も多く、読むにはある程度の知識が必要だ。また、対談の内容は単に音楽に関するものにとどまらず、文化論的な話にもしばし及ぶなど広範囲であり参考になった。むしろ読んで参考になったのはそちらのほうの議論であった。

そこで、そう言った部分を中心に参考になったところを少し書いてみたい。そして自分が感じたことをコメントとして書きたい。

  • 日本人が(海外の演奏家から)学ぶべきことは、とにかく演奏家が個性を持っているということ、これが実は大きなこと(中島p10)
  • 金持ちでこういうことに(音楽)に金をまく人がふえるといい、ところが美術では松方コレクションとか、大倉とか、いるけど音楽にはどうして金が出ないのだろうね(吉田p20)
  • 日本では新しいものというと、前のものをやめて新しいものをということになる、つまり革命ですよ、しかしヨーロッパでは、せいぜい進化だ、つまり前のものとの関係を全然断ち切ってしまうなんてことはない、新しいものだから良いというのはヨーロッパには通じないし、それが本物だと思い、そうでなければならないと考えています。文明というのは新しく変えなければならんと考えて、いつも日進月歩しているのは日本だけじゃないか、日本は古いものを徹底的にやっつけてしまう、古い、すなわち良くない、新しい、即ち良い、日本ではとかくそうです(吉田p69)
    (コメント)その通りだと思う、明治維新では江戸の幕藩体制を否定した、昭和の敗戦後は戦前を軍国主義として否定した、その単純な発想が非常に危険だと思う。物事を単純化して黒か白かと決めつける発想から抜け出すことが日本の知的水準の向上のために必要だろう、吉田氏はそういうヨーロッパの知恵を指摘しているのだと思う。
  • 日本の一般的な弊害というか、ある一つのところで成功すると同じルートをたどって店開きをしようとするわけですね、商社でも何でも。芸というものはあくまで個性なんだから、ある一つの形を同じように真似することが、害あって益ないということがあまりよくわからないじゃないか、日本はそれだから派閥なんかが発達する原因だろうと思う、同じような先生について同じような学びかたをしている、それじゃあまり意義がないと思いますね(園田p133)
  • 外国から来た指揮者が日本のオーケストラは自発性がないと言うんですね、勘がすごく良くて、注文を出すとすごく敏感に反応するけれど、自発的な燃焼というものが足りない、これができたらすごく良いと思うんですけれどね、それは国民性もある(若杉p236)、国民性だったら直りっこないでしょう(吉田、P236)
    (コメント)若杉氏がいう自発性や自発的な燃焼とは具体的にどういうことかはわからないが、仮に氏の言う自発性を持っていたとしても、外国から来た指揮者を前にそのような自発性をいきなり発揮することしないのが日本人だろうし、それは確かに国民性であろう。そして、それが悪いことだとは思わない。それは世界に誇るべき日本人としての奥ゆかしさである、信頼関係を構築しつつ徐々に自発性を出していくのが日本人であり、それは直すべきではないと思う。
  • 日本の将来に育つべきオーケストラは、ある意味インターナショナルなものなっていくんじゃないかという気がする(若杉p232)、日本の方がローカルになるんじゃないか、日本というのはやっぱり非常に古い文化を持っている国ですから、日本の何千年の歴史を通して貫いている国民性というのはもっと深いところにあるわけですよ、それはなかなか変らないものがあるような気がするんです(吉田p232)
    (コメント)若杉氏のインターナショナルというのは海外のオーケストラの音楽と取り入れて自分のものにし、ベートーベンもモーツアルトもドビュッシーもできるようになることを意味している一方、𠮷田氏は、インターナショナルとは日本の音楽が世界の音楽に影響を与えることができてこそインターナショナルと考えている、この違いで議論が少しかみ合わないところがあるように思えた。
  • ジョセフ・コンラッドなんという人はポーランド人でイギリスに行って英語で書いた小説家だけれども、彼の作品は英国の文学の中でとっても大きな高い位置を占めている。なぜかというと英国人ではとても書けない、しかし間違っていない立派な英語を書くからだ(吉田p239)
    (コメント)昨年読んだコンラッドの「闇の奥」(その感想を書いたブログはこちら)がこんなところで出てくるとは驚いた。
  • 今でも終戦後に始ったいわゆる早期教育からきている技術偏重時代が続いている。外国から来るプレーヤーには、技術は随分ヘンテコでも、結構面白い音楽を聴かせる人が現にいくらでもいる、そういうのを押し出さないと音楽はつまらなくなってしまう、音楽とは本来そういう個性的なものであると言うふうにもっていく必要があるんじゃないか(柴田p250)
  • ベートーベンの音楽にはやっぱり開放感があるんです、僕に取っては、それから非常に激励されるようなところがあるわけです(武満p268)
    (コメント)良く言えばそういうことだと思うが、人によっては「人を扇動する危険な音楽」と評する場合もある(例えば、石井宏著「反音楽史」第3部第1章ベートーベンに象徴されるもの)、私もそういう気もしている
  • (日本の文化は)やっぱり「無」というところを目指していていたと思うんです、それはいまだに僕でさえそういうものに惹かれるし、憧れがある。けど、そこではやっぱり人間は生きられないね、だから、そのあとでまだ生きていこうとする人は、どうしてもニヒリストになるより仕方が無い気がするね、一番純粋で、おのれを虚しゅうすることのできそうな人こそ、もっとも危険なような気がしている(吉田p275)
  • (日本は近大西洋を手本にしてきて)日本人としての自我をもつことはできた けれども、個人がしたいことだけするという原則だけではどうしようもない事態にまできている(武満p275)。
    (コメント)自我は持てたかもしれないが個人の自由のみ強調して規律や責任を論ぜず、日本らしらまでどんどん捨て去るような制度や思想の導入が事態の悪化を招いているのではないか。
  • 戦争がいかに残虐で愚かなものであったかについて、今、みんなが語り出している、それはとても大事なことで、いかなる戦争も、愚かで非人間的なものであることは間違いないし、それを伝えることは正しい。けれども誤解を恐れずにいえば、それぞれの戦争には個別の「何か」があって、全ての戦争を「愚か」という一つの色で塗りつぶしてしまうと抜け落ちてしまうこともあるのではないか(吉田p305)
    (コメント)その通りだと思う、戦前は軍国主義だったと黒色一色に塗りつぶす議論の乱暴さがが今の日本だ。物事はそんな単純ではないということでしょう。

いろいろ考えさせられるいい本であり、それぞれの対談の内容は深く、何度も読み返して理解を深めるべき本だと思った。


かげはら史帆「ベートーヴェン捏造-名プロデューサーは嘘をつく」を読む

2024年02月22日 | 読書

かげはら史帆著「ベートーヴェン捏造-名プロデューサーは嘘をつく」(河出文庫)をKindle読んでみた。本書は、「アントン・フェリックス・シンドラー」という人物がいったい何者なのかを書いたもの。彼はベートーヴェンの晩年に、音楽活動や日常生活の補佐役をつとめていた人物だ。1827年にベートーヴェンが亡くなったのち文筆活動に目覚め、1840年から1860年にかけて、全部で三バージョンの『ベートーヴェン伝』を書いている。

彼はベートーヴェンの死後、ベートーヴェンの遺品の中から手紙、楽譜、会話帳(筆談のためのノート)などを奪って、一部は廃棄したとされている。会話帳を例にとれば、本書の中で、彼は晩年、アメリカ人伝記作家アレクサンダー・ウィーロック・セイヤーの取材に応じ、かつて会話帳の一部を破棄したと告白している。いわく、会話帳は400くらいの数が存在していた。だがベートーヴェンが亡くなったあと、価値がないと判断したノートを大量に捨ててしまったという。

それだけではなく、彼は会話帳を改ざんしたと専門家の調査は結論づけている。書き加えたり削除したりしているのだ。本書の著者はその動機に注目する。そして研究者が明らかにした改ざん内容を一つ一つ検討して、改ざんは単に個人的な動機のみでなく別の理由がるのではないかと結論付ける。著者が挙げる具体例は以下のようなベートーヴェンの友人が書いた言葉を線を引いて見えにくくしている改ざんである。

「わたしの妻と寝ませんか? 冷えますからねえ」

この誘いにベートヴェンがどう反応したかはわからないが、故人の伝記を書くのに故人のイメージを損なうようなことに言及しないのはよくあることだ。また、そのような証拠を消し去ることも身辺者であればやむを得ないと著者は考える。

また、有名な「不滅の恋人の手紙」もシンドラーが会話帳とともに遺品から奪ったものだが、この手紙には宛先が書いていないし、実際に出したかもはっきりしないがシンドラーはこの手紙の宛先はかつての女弟子で「月光ソナタ」を捧げたジュリエッタだとした。手紙は1812年に作成したものだが、シンドラーが書いた伝記では1806年に書かれたとしている。それは1812年にはジュリエッタは結婚していたからである。

一人の女性を一途に愛する主人公としてのベートーヴェンを演出したいがために、会話帳のいかがわしい記載を削除し、架空のラブストーリーをでっち上げた。現実を理想に変えるための改ざんだったと考えられないかと著者は指摘する。

シンドラーが会話帳の改ざんを行ったことは広く知られているが、彼がどういった生い立ちでどういう人物で、どうして改ざんを隠し通せたのかなどについてはまだよく知られていない。そして、シンドラーが覆い隠した真のベートーヴェンを知りたいと望むならば、私たちがすべきなのは彼の存在を葬り去ることではない、シンドラーに限りなく接近し、彼のまなざしに憑依して、ロング・コートの裏側の「現実」に視線を遣ってみることだと著者は述べている。

本書で述べられているベートーヴェンの現実の姿についてはネタバレになるので、本書をお読みいただくとして、その中から上に書いたもの以外にもう一つだけ書いてみよう。

「汚い無精髭をはやし、使用済みの便器もほったらかし、風呂にもろくに入らないのに、食べ物の新鮮さにかけては極度に神経を尖らせ、気に入らなければ家政婦に卵を投げつけ罵倒する」

著者は最後に、シンドラーについて、不朽のベートーヴェン伝説を生み出した音楽史上屈指の功労者、それこそが正体だと結論づける。名コピーライター、名プロジューサーだ。

こういうことは他の人でも良くありがちなことであろう。そして、世の中には実際より良く書かれている人と、逆に実際より悪く言われている人とがあるだろう。新聞等で何度となく賞賛されたり、あるいは批判されている人物や制度といったものも素直に信じない慎重さが我々に求められるであろう。

面白い本でした。


ドストエフスキー「白痴」を読む(その2・完)

2024年02月07日 | 読書

(承前)

さて、ドストエフスキーの小説では、登場人物にドストエフスキーの考えや教訓めいたことを語らせている部分が多くあるように思える。その中にはロシアの対する批判的なことも多く含まれている。これはシェークスピアなど他の作家でもよくあることだ。この本を読んで、これはドストエフスキーの主張なのだろうなと思えるところを拾ってみて、括弧書きで自分のコメントを書いた。

  • 真実を語るべき者はただ機知なき者のみなり、と言う言葉があります(皮肉であり、清濁併せ持つことが知恵だと言っているのでしょう)
  • 同情というものこそ全人類の生活に対するもっとも重大な、おそらくは唯一無二の規範であろう。曖昧模糊たるものはロシア精神ではなく自分の魂に外ならないのだ
  • 世の中のことはたいがい「力の権利」でかたがつく、アメリカ戦争の時でも、もっとも進歩的な多くのリベラリストが移民の権益保護のために、黒人は黒人で、白人より下に立つべきものだ、従って力の権利は白人のものだ、とこんな意味のことを宣言していた
  • ロシアでは実際的な人がいない、役人も多い。ただ、その実際的な人は臆病とか創意工夫がない、そしてそういう人が将軍になる(役人や役人的な仕事をする人、将軍になるような人を揶揄しているのでしょう)
  • ロモノーソフ、プーシキン、ゴーゴリを除いたらロシア文学は全くロシアのものではなくなる、この3人だけが本当に自分独特のものを語ることができたのである、こういう人は必ず国民的になる(同じ作家としてこの3人を評価しているでしょう)。
  • 我が国のリベラリストと言う輩は、誰かが何か独自の信念を持っていると、それを大目に見ることができず、さっそく、自分の論敵に悪罵をもって応酬し、あるいは何かもっと卑劣な手段で報いないでは済まない(リベラリストと自称する人の本質を見抜いている)
  • ロシアのリベラリストは地主階級出身者である、ロシアの秩序に対する攻撃だけでなく、社会の本質に対する攻撃であり、ロシアそのものに対する攻撃をする、ロシアそのものを否定する、失敗したことがあれば喜び、我が国の民族、歴史、何でもかんでも憎んでいる。彼らは自分のことを知らずにロシアに対する憎しみをもってもっとも有効なリベラリストだと思っている。この憎悪を祖国に対する真心からの愛だと勘違いして、その愛情の根本ともなるべきものを他人よりもよく知っていると自慢していたものだ。そして最近はこの祖国に対する愛と言う言葉までも有害なものとして排撃し、ついには除外した。自分の国を憎むなんていうリベラリズムはどこへ行ったって見当たらないでしょう(自称リベラリスト、実は左派の正体を見抜いていると思う、「地主階級出身者である」という部分は除き、ロシアを日本と代えても通用するのではないか)
  • 英国の議会は何を論じているのではなく、自由な国民の議会政治、それが我々如き者にとって実に魅力があるのです
  • 社会主義について、これはカトリック教とカトリックの思想の産物だ、これは兄弟分の無神論と同じように絶望から出発したもの、道徳的な意味でカトリック教に反対して、みずから失われた宗教の道徳的権力に代わって、飢えたる人類の精神的飢渇を癒やし、キリストの代わりに、やはり暴力によって人類を救おうとするものです、我々は我々が維持してきたキリストを西欧文明に対抗して輝かさなければならない、ロシア文明を彼らにもたらしながら彼らの前に立たなければなりません(ドストエフスキー存命中はソ連にはなっていなかったが、社会主義の本質を見抜いていた)
  • 我々ロシア人から期待されているのは、ただ剣のみ、剣と暴力のみだからです、彼らには、自分の方のことからしか推して考えるため、野蛮でないロシア人を想像することができないからです、これは今までもそうでした、時が経てば経つほど、この傾向はいよいよ盛んになるばかりです(今のロシアを見れば実に的を射た指摘である)
  • 我々が滑稽だからと言って、じたばたするもんではありません、我々は滑稽で、軽薄で、癖が悪くって、退屈して、ものをよく見る目がなくって、理解することもできないでいる、みんながみんなそんな人間じゃありませんか、みんな、あなた方も、私も、あの人たちも
  • ローマ法皇ってどんな人か知っている、1人の法皇がいて、ある皇帝に腹を立てたの、するとこちらはお許しが出るまで3日間、法皇の門前で飲まず食わずに跪いて待っていたのよ(カノッサの屈辱)、この皇帝が3日間の間何を考えていたのかわかる、この皇帝は3日間のうちにこの法皇に復讐せずにはおかぬと誓った詩を読んで聞かせた。

最後に、日本に関することと、小説家に関する考えとか観察を登場人物に語らせているところを引用しよう。

  • 日本では恥辱を受けた者は侮辱を加えた相手のところに行って、おまえはおれに恥辱を加えた、その報いとしておれはおまえの面前で腹を切る、って言うそうですよ。これによって実際に仇を討ったように強い満足を感ずるらしい、世には奇妙な性質があるものですね(プチーチンの語り)
  • それにしても我々の前に依然として疑問は残っている、すなわち、小説家は平凡な、あくまでも普通の人たちを、どんな風に取り扱ったらよいか、また、いかにして、このような人たちをいささかなりとも興味のあるように読者の前に示して見せるか?と言う問題である(著者自らの語り)

(完)

 


ドストエフスキー「白痴」を読む(その1) 

2024年02月06日 | 読書

ドストエフスキー(1821~1881)の「白痴」(上・下)(中山省三郎原訳、上妻純一郎編集改訳)をKindleで読んだ。この小説はドストエフスキーの五大長編と言われる作品の1つで、他には「罪と罰」、「悪霊」、「未成年」、「カラマーゾフの兄弟」がある。私は「罪と罰」、「悪霊」、「カラマーゾフの兄弟」は読んだことがあり、「カラマーゾフの兄弟」は複雑なストーリーなので2度読んだ。この3つの長編作品はいずれも面白かった。そこで未読の作品にも挑戦してみようと思い、映画にもなっている「白痴」を選んでみた。1日1時間、この作品の読書に充てたが、読めない日もあるので読了するのに2ヶ月かかった。

この本で白痴という言葉の意味について、ウィキで調べると「題名の『白痴』には2つの意味がある。主人公ムイシュキン公爵が文字通り知能が著しく劣っているというものと、「世間知らずのおばかさん」という意味である。しかし、作者はどちらの意味においても否定的に描いていない」と書いてある。読んだ限りでは前者の定義で白痴が使われているようには思えなかった。さらに本書を読むと白痴は癲癇という病気の意味でも書いている。癲癇とは「大脳の神経細胞が過剰に興奮することで発作症状を引き起こす慢性的な脳の疾患」とされており、この物語中でもムイシュキンン侯爵は癲癇の発作を起こすし、少年の頃、スイスで癲癇療養のために過ごしたことが書いてある。

侯爵の発作について上巻で彼自身の思索として次のような話をしている、「発作が始まろうとする際どい一瞬に到達する一刹那が訪れ、時を超越する人生最高の調和、美が訪れ、この一刹那のためなら一生涯を捨ててもかまわないと思った、結果的には白痴、愚昧、精神的暗黒が突き立つ。ただ、この過程には誤謬があり、結局これは病気ではないか、と思うが結局侯爵はそうとは考えずに、これこそ人生最高の総合と考えた」。そして、この発作が最後の場面で出て侯爵はまたスイスで療養することになる、その伏線を物語の前半でちゃんと書いているように思えた。

ドストエフスキーは、この作品の主人公、白痴のムイシュキンン侯爵を「無条件に美しい人間」として描こうとした、とその手紙の中で述べているとこの本の解説に書いてある。

若い公爵レフ・ニコラエヴィチ・ムイシュキンは、幼時から重度の癲癇症状により、スイスのサナトリウムで療養していたが、成人して治って故郷のロシアに戻る。帰国する列車でロゴージンと知り合い、彼が熱を上げているナスターシャ・フィリポヴナを知る。ロシアでは遠縁を頼ってエバンチン将軍家を訪ね庇護を求め、エバンチン家と付き合いのある落ちぶれた将軍イヴォルギンの経営するアパートに住む。物語はこの侯爵、ロゴージン、ナスタージャ、エバンチン家の人々、イヴォルギン家の人々を中心に侯爵とナスタージャ、侯爵とエバンチン家三女のアグラーヤの関係などを巡る人間模様を描くもの。

ドストエススキーの長編小説を読むとき、登場人物が多いので、最初に登場人物の関係図を作り、それを見ながら読み進めないと何が何だかわからなくなる。今回もエバンチン家、イヴォルギン家、その他と3枚の人物関係図をメモにして読んだ。また、ロシアの小説は人物の呼び方が1人1つでなく、何通りもの呼び方がある。それが小説の中で脈絡もなく出てくるので、その点もメモに書き加えて読まないとわからなくなる。例えば、イヴォルギン将軍の息子のガーニャはガブリーラ・アルダリとも呼ばれるし、ガーネチカとも呼ばれる。

2ヶ月もかけて読了した結果だが、内容的には最後の方でどんでん返しとも言える劇的な展開もありゾクゾクするところもあったが、全体的に冗長な感じを受け、読み進めながら「この小説の何がそんなに面白いのだろうか?」と言う感想を持った。登場人物が多いので、それぞれの人物がいろんなエピソードを話すのだけど、その話の内容が本筋に関連がないと思われるものが多く、何でそんなエピソードを語らせるのか理解できない部分も多かった。例えば、次のような話だ。

  • 侯爵のスイスでの療養時の体験、ギロチンの死刑を見た経験、マリイという少女の話
  • レーベジェフの家で彼の甥の青年の長々とした話
  • ロゴージンの家に侯爵が訪ねたときにロゴージンが話す長々とした話(神を信じるか否かの話)

私の印象では、この小説の長さは半分くらいでも充分ではないかと感じた、従って、読んでいる途中から退屈になってきた。無理に長編にしているのではないか、という気がした。

(その2・完)に続く