子育て・私流

子供を三人育て、孫も五人になった。
男親の私がどのように考え、子供や孫に接してきたかを書く。

4 戦後の私の職場環境

2008年12月04日 | 私が歩んできた道を振り返って
昭和27年に新制高校を卒業し親父の仕事の手伝いの「土方からサラリーマン」に転職し、昼間の勤務と夜間の大學生活の4年間を終えたのは、私が24才の時になっていた。

《当時の職場環境》
私が配属されたのは、下町の中心街にある20人規模の支店であった。
小さな木造の建物で、郵便局程度の大きさであった。
当時の配属先の職員は、現地採用の者だけで構成されており、私たち新人3人が最初の学卒者配属だと知った。

 支店長      1人
 支店長代理    1人
 出納主任1人 ほか3人
 貸付係初任1人ほか3人
 預金係      4人
 計算集計係    2人
 外務員      4人
  合計     20人

こんな人員構成であったと記憶している。
私以外の職員は、支店長が近隣からの取引先や知人便りに採用した者ばかりである。
特に、驚いたのは女子職員の大部分は、中学卒で私より2~3才も年下である。
しかし、若手の女子職員が事務方の実権を持って3年も仕事しており、新人の年上の私が仕事の中に割り込んでいく情況になかった。
この私より年下の女子職員がわたしに向かって、「K君銀行にいって来て頂戴」と命令するのだ。
ムカーットするが、当面仕事優先で実務的には3年間の差があり敵わない。
「はあーい」と要って返事しその指示に従うしかない。

翌年も支店に大卒を含めて3人が配属されてきたが、事務室内に椅子も置けず、座る場所も無い店舗の狭さなので、支店長が連絡を取って支店配属を断った始末。

その2年後に、現在の店舗の少し割先に新しいし店舗が開店することになった。
今度の店舗は、職員40人規模の店舗になるという。
他店舗の転勤者や、新入職員が入ってきて、職員数40人に間もなく一杯になる。

この旧店舗から、新店舗への引越し作業は「職人上がり」の私は黙ってみていられない。
最も他の職員は、「なにを、どのようにしていいか」「なにを先に整理するのかにもとまどっている」
まず、私は、新店舗の机と椅子の配置図を役席者に相談し作ろうと提案した。
職人の仕事のやり方は、「段取りをすること」から始まり、「段取り」が十分でないと出来上がりが良くない。
(現在と違って、引越屋さんなどの職業もなく、全部自分達職員での引越しである。)

引越しの手順というものを机の配置図ともに作るのが最初。
どのような順番で、荷物を運ぶのか、それは建築した職人がやってくれるのか、何日の何時から開始するのか、職員各自の役割分担は。当日の昼食はどうするか。ガスが直ぐに使えるのか。
電話は、電気は、数えればきりが無い。
しかし、店舗の開店日は明日だ、待ってはくれない、
などなど、役席を中心に、建築した職人を交えて打ち合わせを十分にするように、私は提言する。
こんな、ことをしていると当然にお前が中心になって、職人とも十分相談してまとめてくれとなる。
役席者も逃げ腰である。事務の事は判るが、引越しなどの経験は一つも無いと言わんばかりの様子。
私としては、引越しの経験を沢山持っている人のほうが変なのだと思うが、そんなことを議論している暇もない。

この時には、新入職員から5年も経過していて、内部事情もわかっている。
女子職員の「K君呼ばわりも無くなった。」もう中堅の職員の位置にいる自分が居る。

《戦後の発展期だ》
戦後の発展期だ。我々の中小金融機関も、猛烈な勢いで業務を伸ばしてきている。
前記した、店舗の拡大と人員の増加はすさましいばかりである。
取引先である、中小企業の資金事情が急拡大していることが、背景にある。

私の配属先の下町の店舗は、中小企業と言うより、零細企業が多い町であった。

主な業種を並べると次の通りである。
 1.自転車産業
 2.家具製造業
 3.被服産業
 4.建築業
 5.アパート業

 1.自転車産業は、名前のある自転車産業が3軒ほど地元にあり、
   その下請けとして、
  A.プレス業
  B.メッキ業
  C.座椅子サドル(革)製造業
  D.ハンドル製造業
    などに別れて散在していて、自転車産業を支えていた。
    現代でいえば、自動車産業と同じでその産業の裾野の広がりは大きくて広い。
    
 2.家具製造業は、家内工業規模が多かったが、
  A.タンス製造
  B.家具製造
  C.机。椅子製造
  D.家具の塗装業者
    などがつながる。

 3.被服産業は、家内の内職から始まり零細企業が多かった。

 4.建設業は、かなりの数の職人が散在していた。
  A,大工
  B.左官
  C.材木屋
  D.鳶職
  E.土方
  F.フリキ屋
  G.水道屋
  H.電気工事屋
  I.屋根屋(瓦屋根屋、トタン屋根屋)
    (注)・私は、この建設業の生まれだから、この分野にやや詳しい。
 
 5.アパートは、これ等の中小・零細企業を支える、職人や工場労働者の住居を提供。

《戦後の中小・零細企業の金融》

戦後の中小・零細企業の金融の一つの例を書いてみう。
この時機に、地方から東京に出てきて、または、東京にいる親戚や知人を頼って上京してきた人の多くが、アパート(アパートといっても木造二階建ての一室)に住み込み、独立を夢みて働いている人が多かった。
これらの人が、間もなく所帯を持ち、4軒長屋の一つを借りて生活しだす。
力のある人は、長屋の二畳の玄関土間に「蹴飛ばしプレス」(このプレスは動力がなく自分の足で蹴って鉄板などを加工する)を据えて内職を始める。

この「蹴飛ばしブレス」を買う資金を貯める方法を私たちの「信用金庫」が指導し支えてきたのだ。

方法論は、毎月2,650円の掛け金を、3年間やって下さいと言って勧誘する。
2,650円×36回=95,400円です。
当時は、これで利息を含めて、10万円になるのです。

この掛け金を毎月、同じ日に集金し、真面目に掛け終わった人であれば、信用できる人として、借り入れに信用金庫側も応じて、「蹴飛ばしブレス」の購入が叶う事になる。
知恵と事業力が有るお客様は、このブレス一台から、更に数台のプレスえと広がり、工場を持ち、大型機械を入れて、仕事量を増加させ発展していったのです。

私も、信用金庫に在職して、当時はこんなお手伝いをよくしたものです。

  





3 金融マンとして、清く・正しく・美しく

2008年12月01日 | 私が歩んできた道を振り返って
前回に親父の仕事の手伝いから、サラリーマンに転身したと書いた。
私は、これを「土方からサラリーマンに」と言うタイトルにしている。

サラリーマンと夜間大學生の生活が始まって、少し仕事にも、大學生活にも慣れてきた或る日。
支店長と雑談する機会があった。支店長が言わく、金融マンは「公人」と同じ立場だ。
「心して勤めなさい」と言う。

《清く・正しく・美しく》
支店長は、「金融マンとして、人生を全うする心は、清く・正しく・美しくの精神を持ち続けよ。だと言う。」

その数回の雑談の中で教えられたのは、次のようなことだった。
(この話は、昭和28年当時のことです。)

 1.「清く」について。
  A.男女交際はご法度だぞ。(清く・正しくだ)もしも、事故があれば、男女両成敗だ。
    (この当時は、女子職員と男子職員が帰り道に並んで話をしていても、
     近所の人から支店長につげ口がありました。)
      注・昭和28年の比のことですからね。
     結婚するような場合には、男女のドチラかが他の店舗に転勤になります。
     また、不倫のようなものであれば、解雇です。

  B.金銭管理について気おつけろ。
   ア・個人同士での金銭の貸しや借りはしてはならない。
   イ・自分の財布の金銭と、仕事上の金銭は区分をはっきり分けて管理しろ。
     混同していている場合には、始末書で、解雇か小額なら転勤です。
   ウ・お客様から預かったお金は、当日中に入金を必ず済ませろ。
     翌日以降になったら始末書を取るぞ。
   エ・お客様の金銭に「手」をつけたら、即時に懲戒解雇だぞ。
   オ・ギヤブルは禁止だ。
     競輪、競馬、競艇。
     宝くじ。
     マージヤン、パチンコ などの場合は賭けてしてはいけないぞ。
   カ・サラリー金融やクレジット などからの借り入れもだめだぞ。
     まだこの時には、個人金融というものが発達しておりませんでした。
   キ・金銭借り入れの他人の「保証人」になってはだめだぞ。
   ク・どうしてもの金銭の借り入れは金庫(会社)から借りてやるからな。

 2.正しくについて。
  A.不正を働いたら、懲戒解雇だぞ。
  B.仕事上で扱う金銭は、商店で言う「品物」だと思う感覚でやれ。
    お札は、ただ数えて束ねるという作業をしているだけだぞ。
    「このお札が自分の財布にあったら」などよこしまな考えは持つな、いいな。
    (もしも、これが自分の財布の中になとどと考えると、顔に現われるぞ)
  C.金銭を扱う仕事だ「こまかすな」。また「そんな気持ちになるのもダメだぞ」
  D.正直にやれ。
    (もしも、問題が発生したら、最初に上司に報告し、その指示に従え)
  E.「休まず、遅れず、働かず」は、金銭の不始末と同じ扱いだぞ。
  
《支店長との数回の雑談で》

支店長(50才半ば)と、私(24才)との間で数回に亘って聞かされた内容を整理したものです。
 1.金融マンは、公人と同じだ。
 2.お客様の稼いだお金は「命の次に尊いものなのだ」
 3.金融マンとして「清く・正しくい」勤務生活を終えたときに「美しい老後が現われるのだ」
 4.これらことを、心に秘めて、真面目に一生懸命働けば、必ず出世する。
   金庫(会社)もお前を見離さないぞ。

 5.私は、当然にこの支店長の話を心の奥に仕舞いこみ、
      定年まで40年間勤め上げたことはいうまでもない。
  もう一度要っておくが。
  A.自分個人での金銭の貸借はしてはダメだぞ。
  B.ギャンブルに手をだすな。
  C.保証人になってはいけないぞ。
 
 D.最後に重ねて言っておくが「清く・正しく・美しく」
    の最後の「美しく」が「憂鬱つくしく」にならないように生きてくれよ。
  78才になった今でもこの言葉を思い出す。  

 今なら、社会保険庁や農水省のお役人に教えてやりたい。

  次は、結婚の前後の、私の金銭管理です。 

清く・正しく・美しく 3

2008年11月29日 | 私が歩んできた道を振り返って
22才の時に、私は申請商業孝行を卒業し近くの金融機関に、レンガ職人からサラリーマンに転職した話を前回に書いた。

職人の生活での休日は、一日と十五日の月に二回の休みだったが、金融機関は日曜日と祭日が休みだったので、休日の関係は楽になった。

《当時の金融機関の休日》
当時の金融機関の休日を少し整理して書いて置くと次のとおりである。

  昭和27年(1952)当時の金融機関の休日である。
 1.日曜日
 2.祭日(当時の祭日は年間4~5日と記憶している、現在よりかなり少ない)
 3.年始の3日間(大晦日は営業があり出勤)
 4.土曜日の午後が休み

少し説明しておくと、
 3.の12月31日の年末も店舗は営業しており、それも夜の午後10頃に店舗近くの商店を廻って集金して回るので、業務が終わるのは、除夜の鐘が鳴ってからの正月一日の午前3時近くでした。
   勤め仲間とそれから、初参りをしてから家に帰るから、家に帰って寝るのがいつも、午前6時過ぎ。
   当然に、一日は寝正月。
   結局、正月といっても、賞味二日間。
   休み明けの4日は、暮の仕事の整理が相当溜まっているので、普段の日より業務が多くて、
   正月早々遅くまで残業と言うのが相場だった。

 4.土曜日の、午前中は店を開いて営業しているから、12時に店を閉めても、
   結局仕事が終わるのは、午後3時近くである。

《普段の私の生活》

 中小金融機関に勤めて、家から勤め先まで30分ぐらい。
 弁当持参で、交代で昼食(店舗は昼時も開けている)し、仕事が終わるのは、午後7時近く。
 私は、支店長に夜間大學通学の許可を貰っているので、午後5時に先に帰らせてもらい。
 大學に付くのが、午後6時前後、一時間目の講義が既にはじまっていて、何時も遅刻。
 夜間大學が終わるのが、午後9時近く、それから真っ直ぐ家に帰ってくる。
 自宅での、夜食を食べて寝るのが、何時も11時前後だ。
 それでも、自分が選んだ道だ。文句も言わず、もくもくと一日も仕事も、学校も休まずに通った。
 夜間大學を卒業したのは、
 


2 お金の運用

2008年11月25日 | 私が歩んできた道を振り返って
前回はお金のため方の方法について、その一部分を紹介しました。
このやり方は、あくまで私流の考え方ですから。
また、このような方法の外にもっと良い方法もあろうかと思いますが、若い内は着実にこつこつと貯めていくということを進めます。

現在はアメリカから発した「サブプライム・ローン」の証券化商品で全世界がなやんでいます。
うまい話には「毒がある」と心に決めて、まず「安全と安心」な貯蓄を若い内には心掛けましょう。

《私の貯蓄資金の運用方法》
私の時代の老人や先輩から言われた「貯蓄資金の運用方法」を書きますとつぎのような考え方でした。
   「資金の運用は3分割とする。」
 1.流動性の貯金に1/3
 2.定期預金等の多少長期の貯金に1/3
 3.株式や有価証券に1/3

 1.の流動性預金に1/3を保つておく。
   ここには給料振込み口座の残鷹を常ににらんで、いつでも使えるようにしておく。
 2.賞与・給料の「当面は使わない資金」は、
   定期預金などの安全だが「利回りのよいものにして運用」する。
 3.2の資金の中から、
   5年から10年、当面資金を使わない残高の内50%程度を「株式や有価証券」で運用する。
   この資金運用は、預金より利回りがよい。「が」と言う言葉が付随していて、
   常にリスク(損失)が付きまとうので「元金割れ」も発生する商品だ。

《私の場合の資金3分割法》
私は、この資金3分割法を現在まで守って生活してきた実践者である。
78才になる現在まで、借金をせずに今まで生きて来た。
現在、勤め人の傍ら子供を3人育て、全員所帯を持ち、孫の数は5人になった。

サラリーマンである私が生まれた家庭の親は職人で、貧しい生活であった。
昭和20年、東京の大空襲に私は15才の時に遭遇し、疎開する田舎もなく焼け野原の片隅で生き延びてきた。
当然に我が家も戦火で喪失してしまうが、焼けどまりの残存家屋に移り住み東京に家族は留まった。
と言うより、落ち延びる知り合いや親戚の居る田舎が無かったのが本当のことであった。
それからは、20才まで職人の親父の仕事を手伝わされて、我が家も喪失した東京で生き延びてきた。
20才の時に、軍人の長兄と軍事工場に徴用されていた次兄がもどってきて、親父の仕事にはいったので、家族労働者で仕事も賄われるようになり、一番下の私は使い走りしかやらせてもらえなかった。
職人の家庭では、金銭は親父が全部管理しており、家族労働者は小遣いもを貰う程度でした。
職人の休日は、当時は(一日と十五日)の月二回のみである。

《20才の時独立サラリーマンに》

職人の家庭で親父の仕事を、親父、長男、次男、私と4人の家族労働者で賄うほどの仕事が常時あるわけでもない。他に日雇いの職人が二人もいるのだ。
将来を見据えると、職人の親父の仕事が子供3人に分割される規模でもない。
私は「夜間高校」を卒業した20才の時に自分の判断で、自宅の近くの中小金融機関(信用金庫)に転職することにした。

《此処から自立の生活がはじまった》

   「職人から、サラリーマンになった理由は幾つかあった。」
 1.先に書いた、職人の家庭での家族労働4人は多すぎだ。
 2.高校の先生のアドバイスは、日本の将来を支え伸びるのは、金融と証券だという。
   この時機、近場の信用金庫での募集があり、商業高校卒業ということで、
   私は職人生活からの転職が成功した。
 3.親父が仕事の金銭も家計の金銭も総て管理しており、
   これがドンブリ勘定で、何時も家には金が無い情況だった。
   また、家族4人で働いているのに、家に何時も金が無いことに私は不満があった。
   当時の職人は、小学校にも行っていないので、お金の計算が不得手なのだろうが。
   それにしでも、私には画点が行かなかった。
 4.勤め人になって、夜間大學に進学したいという希望を私が持っており、
   親父の仕事と決別し自立することにしたのだ。
 5.当然に、勤めながらの夜間大学生活であるが、
   大学の月謝、書籍代、交通費など総て自分個人の給料で賄って過ごした。
 6.住まいと食事は、親父に頼ったが。
 7.こんなことで、私の金銭感覚の下地が育てられていったのだと思う。
 8.20才代の、考え方の基本に、頼れるのは、自分のみである。
   親に金銭の負担をさせないと言うことを肝に銘じて、明日へ進むことにした。
 9.独立したからには、親に迷惑を掛けない生涯を送ることが、親孝行と思いながら。

   最後にかっこいいことを書いてしまったが。次回は、私の金銭管理術へ進む。