昭和27年に新制高校を卒業し親父の仕事の手伝いの「土方からサラリーマン」に転職し、昼間の勤務と夜間の大學生活の4年間を終えたのは、私が24才の時になっていた。
《当時の職場環境》
私が配属されたのは、下町の中心街にある20人規模の支店であった。
小さな木造の建物で、郵便局程度の大きさであった。
当時の配属先の職員は、現地採用の者だけで構成されており、私たち新人3人が最初の学卒者配属だと知った。
支店長 1人
支店長代理 1人
出納主任1人 ほか3人
貸付係初任1人ほか3人
預金係 4人
計算集計係 2人
外務員 4人
合計 20人
こんな人員構成であったと記憶している。
私以外の職員は、支店長が近隣からの取引先や知人便りに採用した者ばかりである。
特に、驚いたのは女子職員の大部分は、中学卒で私より2~3才も年下である。
しかし、若手の女子職員が事務方の実権を持って3年も仕事しており、新人の年上の私が仕事の中に割り込んでいく情況になかった。
この私より年下の女子職員がわたしに向かって、「K君銀行にいって来て頂戴」と命令するのだ。
ムカーットするが、当面仕事優先で実務的には3年間の差があり敵わない。
「はあーい」と要って返事しその指示に従うしかない。
翌年も支店に大卒を含めて3人が配属されてきたが、事務室内に椅子も置けず、座る場所も無い店舗の狭さなので、支店長が連絡を取って支店配属を断った始末。
その2年後に、現在の店舗の少し割先に新しいし店舗が開店することになった。
今度の店舗は、職員40人規模の店舗になるという。
他店舗の転勤者や、新入職員が入ってきて、職員数40人に間もなく一杯になる。
この旧店舗から、新店舗への引越し作業は「職人上がり」の私は黙ってみていられない。
最も他の職員は、「なにを、どのようにしていいか」「なにを先に整理するのかにもとまどっている」
まず、私は、新店舗の机と椅子の配置図を役席者に相談し作ろうと提案した。
職人の仕事のやり方は、「段取りをすること」から始まり、「段取り」が十分でないと出来上がりが良くない。
(現在と違って、引越屋さんなどの職業もなく、全部自分達職員での引越しである。)
引越しの手順というものを机の配置図ともに作るのが最初。
どのような順番で、荷物を運ぶのか、それは建築した職人がやってくれるのか、何日の何時から開始するのか、職員各自の役割分担は。当日の昼食はどうするか。ガスが直ぐに使えるのか。
電話は、電気は、数えればきりが無い。
しかし、店舗の開店日は明日だ、待ってはくれない、
などなど、役席を中心に、建築した職人を交えて打ち合わせを十分にするように、私は提言する。
こんな、ことをしていると当然にお前が中心になって、職人とも十分相談してまとめてくれとなる。
役席者も逃げ腰である。事務の事は判るが、引越しなどの経験は一つも無いと言わんばかりの様子。
私としては、引越しの経験を沢山持っている人のほうが変なのだと思うが、そんなことを議論している暇もない。
この時には、新入職員から5年も経過していて、内部事情もわかっている。
女子職員の「K君呼ばわりも無くなった。」もう中堅の職員の位置にいる自分が居る。
《戦後の発展期だ》
戦後の発展期だ。我々の中小金融機関も、猛烈な勢いで業務を伸ばしてきている。
前記した、店舗の拡大と人員の増加はすさましいばかりである。
取引先である、中小企業の資金事情が急拡大していることが、背景にある。
私の配属先の下町の店舗は、中小企業と言うより、零細企業が多い町であった。
主な業種を並べると次の通りである。
1.自転車産業
2.家具製造業
3.被服産業
4.建築業
5.アパート業
1.自転車産業は、名前のある自転車産業が3軒ほど地元にあり、
その下請けとして、
A.プレス業
B.メッキ業
C.座椅子サドル(革)製造業
D.ハンドル製造業
などに別れて散在していて、自転車産業を支えていた。
現代でいえば、自動車産業と同じでその産業の裾野の広がりは大きくて広い。
2.家具製造業は、家内工業規模が多かったが、
A.タンス製造
B.家具製造
C.机。椅子製造
D.家具の塗装業者
などがつながる。
3.被服産業は、家内の内職から始まり零細企業が多かった。
4.建設業は、かなりの数の職人が散在していた。
A,大工
B.左官
C.材木屋
D.鳶職
E.土方
F.フリキ屋
G.水道屋
H.電気工事屋
I.屋根屋(瓦屋根屋、トタン屋根屋)
(注)・私は、この建設業の生まれだから、この分野にやや詳しい。
5.アパートは、これ等の中小・零細企業を支える、職人や工場労働者の住居を提供。
《戦後の中小・零細企業の金融》
戦後の中小・零細企業の金融の一つの例を書いてみう。
この時機に、地方から東京に出てきて、または、東京にいる親戚や知人を頼って上京してきた人の多くが、アパート(アパートといっても木造二階建ての一室)に住み込み、独立を夢みて働いている人が多かった。
これらの人が、間もなく所帯を持ち、4軒長屋の一つを借りて生活しだす。
力のある人は、長屋の二畳の玄関土間に「蹴飛ばしプレス」(このプレスは動力がなく自分の足で蹴って鉄板などを加工する)を据えて内職を始める。
この「蹴飛ばしブレス」を買う資金を貯める方法を私たちの「信用金庫」が指導し支えてきたのだ。
方法論は、毎月2,650円の掛け金を、3年間やって下さいと言って勧誘する。
2,650円×36回=95,400円です。
当時は、これで利息を含めて、10万円になるのです。
この掛け金を毎月、同じ日に集金し、真面目に掛け終わった人であれば、信用できる人として、借り入れに信用金庫側も応じて、「蹴飛ばしブレス」の購入が叶う事になる。
知恵と事業力が有るお客様は、このブレス一台から、更に数台のプレスえと広がり、工場を持ち、大型機械を入れて、仕事量を増加させ発展していったのです。
私も、信用金庫に在職して、当時はこんなお手伝いをよくしたものです。
《当時の職場環境》
私が配属されたのは、下町の中心街にある20人規模の支店であった。
小さな木造の建物で、郵便局程度の大きさであった。
当時の配属先の職員は、現地採用の者だけで構成されており、私たち新人3人が最初の学卒者配属だと知った。
支店長 1人
支店長代理 1人
出納主任1人 ほか3人
貸付係初任1人ほか3人
預金係 4人
計算集計係 2人
外務員 4人
合計 20人
こんな人員構成であったと記憶している。
私以外の職員は、支店長が近隣からの取引先や知人便りに採用した者ばかりである。
特に、驚いたのは女子職員の大部分は、中学卒で私より2~3才も年下である。
しかし、若手の女子職員が事務方の実権を持って3年も仕事しており、新人の年上の私が仕事の中に割り込んでいく情況になかった。
この私より年下の女子職員がわたしに向かって、「K君銀行にいって来て頂戴」と命令するのだ。
ムカーットするが、当面仕事優先で実務的には3年間の差があり敵わない。
「はあーい」と要って返事しその指示に従うしかない。
翌年も支店に大卒を含めて3人が配属されてきたが、事務室内に椅子も置けず、座る場所も無い店舗の狭さなので、支店長が連絡を取って支店配属を断った始末。
その2年後に、現在の店舗の少し割先に新しいし店舗が開店することになった。
今度の店舗は、職員40人規模の店舗になるという。
他店舗の転勤者や、新入職員が入ってきて、職員数40人に間もなく一杯になる。
この旧店舗から、新店舗への引越し作業は「職人上がり」の私は黙ってみていられない。
最も他の職員は、「なにを、どのようにしていいか」「なにを先に整理するのかにもとまどっている」
まず、私は、新店舗の机と椅子の配置図を役席者に相談し作ろうと提案した。
職人の仕事のやり方は、「段取りをすること」から始まり、「段取り」が十分でないと出来上がりが良くない。
(現在と違って、引越屋さんなどの職業もなく、全部自分達職員での引越しである。)
引越しの手順というものを机の配置図ともに作るのが最初。
どのような順番で、荷物を運ぶのか、それは建築した職人がやってくれるのか、何日の何時から開始するのか、職員各自の役割分担は。当日の昼食はどうするか。ガスが直ぐに使えるのか。
電話は、電気は、数えればきりが無い。
しかし、店舗の開店日は明日だ、待ってはくれない、
などなど、役席を中心に、建築した職人を交えて打ち合わせを十分にするように、私は提言する。
こんな、ことをしていると当然にお前が中心になって、職人とも十分相談してまとめてくれとなる。
役席者も逃げ腰である。事務の事は判るが、引越しなどの経験は一つも無いと言わんばかりの様子。
私としては、引越しの経験を沢山持っている人のほうが変なのだと思うが、そんなことを議論している暇もない。
この時には、新入職員から5年も経過していて、内部事情もわかっている。
女子職員の「K君呼ばわりも無くなった。」もう中堅の職員の位置にいる自分が居る。
《戦後の発展期だ》
戦後の発展期だ。我々の中小金融機関も、猛烈な勢いで業務を伸ばしてきている。
前記した、店舗の拡大と人員の増加はすさましいばかりである。
取引先である、中小企業の資金事情が急拡大していることが、背景にある。
私の配属先の下町の店舗は、中小企業と言うより、零細企業が多い町であった。
主な業種を並べると次の通りである。
1.自転車産業
2.家具製造業
3.被服産業
4.建築業
5.アパート業
1.自転車産業は、名前のある自転車産業が3軒ほど地元にあり、
その下請けとして、
A.プレス業
B.メッキ業
C.座椅子サドル(革)製造業
D.ハンドル製造業
などに別れて散在していて、自転車産業を支えていた。
現代でいえば、自動車産業と同じでその産業の裾野の広がりは大きくて広い。
2.家具製造業は、家内工業規模が多かったが、
A.タンス製造
B.家具製造
C.机。椅子製造
D.家具の塗装業者
などがつながる。
3.被服産業は、家内の内職から始まり零細企業が多かった。
4.建設業は、かなりの数の職人が散在していた。
A,大工
B.左官
C.材木屋
D.鳶職
E.土方
F.フリキ屋
G.水道屋
H.電気工事屋
I.屋根屋(瓦屋根屋、トタン屋根屋)
(注)・私は、この建設業の生まれだから、この分野にやや詳しい。
5.アパートは、これ等の中小・零細企業を支える、職人や工場労働者の住居を提供。
《戦後の中小・零細企業の金融》
戦後の中小・零細企業の金融の一つの例を書いてみう。
この時機に、地方から東京に出てきて、または、東京にいる親戚や知人を頼って上京してきた人の多くが、アパート(アパートといっても木造二階建ての一室)に住み込み、独立を夢みて働いている人が多かった。
これらの人が、間もなく所帯を持ち、4軒長屋の一つを借りて生活しだす。
力のある人は、長屋の二畳の玄関土間に「蹴飛ばしプレス」(このプレスは動力がなく自分の足で蹴って鉄板などを加工する)を据えて内職を始める。
この「蹴飛ばしブレス」を買う資金を貯める方法を私たちの「信用金庫」が指導し支えてきたのだ。
方法論は、毎月2,650円の掛け金を、3年間やって下さいと言って勧誘する。
2,650円×36回=95,400円です。
当時は、これで利息を含めて、10万円になるのです。
この掛け金を毎月、同じ日に集金し、真面目に掛け終わった人であれば、信用できる人として、借り入れに信用金庫側も応じて、「蹴飛ばしブレス」の購入が叶う事になる。
知恵と事業力が有るお客様は、このブレス一台から、更に数台のプレスえと広がり、工場を持ち、大型機械を入れて、仕事量を増加させ発展していったのです。
私も、信用金庫に在職して、当時はこんなお手伝いをよくしたものです。