楽しいブログ生活

日々感じた心の軌跡と手作りの品々のコレクション

よもやま昔話的雑感

2016-02-04 21:09:10 | 
ことのは文庫の「文学に描かれた戦争」には森内俊雄の「眉山」の他に瀬戸内寂聴の「多々羅川」富士正晴の「帝国軍隊に於ける学習・序」海野十三の「降伏日記」4作品が収められており、解説を文学書道館館長の富永正志氏が書いています。

富永さんは、実はわたくしが高校時代に教わった生物の先生の息子さんで、はるか昔、彼が徳島新聞記者時代に、拙文を新聞に載せていただくにあたり、お世話になったことがあります。鳴潮欄を担当されたり、論説委員をされたりのご活躍を存じ上げてはいましたが、何と、文学書道館館長に就任!には驚きました。

そもそも記憶違いでなければ、森内俊雄氏に館長をの要請があったのを、事業部と運営方針の意見が合わず、寂聴さんに落ち着いたと言った経緯があったんじゃなかったかしら。

いやまあそれで、前置きが長くなりましたが、森内俊雄の「眉山」について、少しだけ触れたいと思います。
「眉山」は作者が少年時代に徳島で空襲に遭った体験を、大人になってから思い出す形で描いているのですが、わたしは作者の感受性をすだちの表現の中に見た気がしました。
「にわかにレモンのように苛烈でもなく、といって柚子ほど甘くもない独特の香りを持った固く小さな果実の、底深い緑の色が眼に浮かんできた。」とあるんですね。
この文章に心惹かれたのには、実は心当たりがあります。
というのも、何年前になるでしょうか、氏が徳島新聞に寄稿してたエッセイの中に、びわの実に灯りをともしたような風情があるというくだりがあって、わたくしは(あ、)と思いました。
わたくしは常々、果肉よりも、種の方が大きいびわの実をしゃくに思ってて、言われてみれば確かにその暖か色は愛でるにふさわしい魅力を備えていたのに、イチゴのようにまるごと果肉が味わえないからというこちらの勝手な了見で、びわを邪険な目で見てたことに気がついたのです。
何とまあ、がさつであさましい人間なんだろうと自分を恥じました。

見た目や実利だけでその価値を測るのは、自らを貧しくしてるんですよね。

魅力的なすだちの描き方に、やはり魅力的にまたたいてくるようになったびわの実のことを思い出したのです。

寂聴さんの話もしたいですが、今日は長くなりそうなので、この辺にして、次回に譲りたいと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする