《和泉・岸和田だんじり彫り物・物語-4》
今朝の最低気温は午前6時の21.5℃。 最高気温は午後1時の28.8℃。
晴れているのか、曇っているのか… やっと物の影が出来る位の雲と日差しです。
〖自民党総裁選 岸田氏 決選投票で新総裁に選出〗 2021年9月29日
自民党総裁選挙は、1回目の投票でいずれの候補者も過半数に届かず、決選投票の結果、
岸田前政務調査会長が、河野規制改革担当大臣を抑えて、新しい総裁に選出されました。
雑感… まぁ数日前から “一回目の投票では河野氏が有利だが過半数は取れない。
河野氏、岸田氏の決戦投票になれば、高市氏の票が岸田氏に流れ、岸田氏が有利” と
盛んにマスコミが言っていましたからねぇ。
どう云う選挙力学が働いたのかは知りませんが、勝者が分っていれば乗らない手は有りません。
主義主張とは別に勝ち馬に乗るという保身が働いたのでしょうね。
後で何か良い事が有るかも知れませんからね
ひげは岸田氏の人となりを知らないので、政治的な力量を知りません(汗・笑。
ただひげと同じ広島出身、大のカープファン、お好み焼きが大好き… 期待しましょう? (笑。
だんじり祭りは見守っている小学生も楽しみにしているお祭りです。
小さな子も走ります(笑)
今日は 《和泉・岸和田だんじり彫り物・物語-4》 です。
まず最初は… 「信長熱田神宮戦勝祈願」 です。
戦国時代、織田信長が今川義元との決戦(桶狭間の戦い)を前に必勝を祈願した場面です。
〖西野神社・社務日誌〗によると… 【熱田神宮に着いた信長は、右筆(ゆうひつ)の武井夕庵に
“この戦いは多勢に無勢、苦しい戦いとなる。熱田大神の力を借りて、是非勝利したい” という趣旨の
願文を作らせ、御神前に跪いて、集結した兵達の前でこの願文を読み上げ戦勝を祈願しました。
この時、本殿の奥から甲冑の触れ合う音が聞こえ、一羽の白鷺が舞い立つという吉兆が顕れたそうで、
信長は「これぞ、熱田の大神が我々を護り、勝利に導くしるしである!」と兵達を激励しました】
2枚目は… 「多聞丸射術修行」 です。 多聞丸とは “楠正成” の幼名です。
3枚目は… 「林軍太・多聞丸に降参」
多聞丸(後の楠正成)の父と敵対していた林軍太。
その息子多聞丸の武勇が優れている事を聞き、のちの災いになると思い、力量を試す場面です。
歯が立たなかったようですね(笑。 この時、多聞丸は弱冠11歳だったそうです。
4枚目は… 「後醍醐天皇御夢」 です。
後醍醐天皇が楠正成の存在を知ったのは夢のお告げ…
ウィキによると… 【元弘の乱が発生し、天皇が笠置山に籠り、ある夢を見た。
その夢の中では、庭に南向きに枝が伸びた大きな木があり、その下には官人が位の順に座っていたが
南に設けられていた上座にはまだ誰も座っておらず、その席は誰のために設けられたものなのかと
疑問に思っていた。すると童子が来て「その席はあなたのために設けられたものだ」と言って
空に上って行っていなくなってしまった。
夢から覚めて、天皇は夢の意味を考えていると「木」に「南」と書くと「楠」という字に
なることに気付き、寺の衆徒にこの近辺に楠という武士はいるかと尋ねたところ、
河内国石川郡金剛山(現在の大阪府南河内郡千早赤阪村)に橘諸兄の子孫とされる
楠木正成(楠正成)という者がいるというので、後醍醐帝はその夢に納得し、
すぐさま楠木正成を笠置山に呼び寄せる事にした】
5枚目は… 「桜井の驛」 父、楠木正成と子の正行(まさつら)の今生の別れの場面ですね。
【建武3年(1335)5月21日、楠木正成公、湊川の決戦に向かうにあたり桜井の駅で、
長男楠正行と今生の別れを告げる。 正行は父に従わんと願ったが、正成曰く
「後に残り忠孝を励め」と短刀一振りを与えて河内へ帰す。 時に正行11才である。
ひげは歌で知っています ⇒ ♪桜井の別れ
♪青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ 木の下陰に駒とめて
世の行く末をつくづくと 忍ぶ鎧の袖の上に 散るは涙かはた露か
6枚目は… 「楠正成、包近八幡宮へ戦勝祈願」 です。
楠正成は包近にも来ていたんですね。 包近八幡宮は楠本神社のようです。
7枚目は… 「正行如意輪堂」 です。 正行は楠正成の嫡男です。
四条畷の決戦へ出発に当たり、鏃を以って如意輪堂の扉に辞世の歌を残したそうです。
“かゑらじと かねておもえば梓弓 なき数に入る名をぞとゞむる”
(今度の戦いは生きて再びかえれぬ身。 故に、亡き人の仲間入りをする名前を残して
出発します… と言う意味だそうです) 23歳だったそうです。
8枚目は… 「義貞 龍神に宝剣を献ず」 これも歌で知っています ⇒ ♪鎌倉
♪七里ヶ浜のいそ伝い稲村ヶ崎 名将の剣 投ぜし古戦場
9枚目は… 「神武天皇東征」 です。
日向(高千穂)を治めていた神武天皇(死後の命名)が東に進軍し、大和朝廷を建国。
八咫烏(やたがらす)が、神武天皇勢を大和へと道案内しました。
建国記念の日(2月11日)は、神武天皇の即位日である旧暦の紀元前660年1月1日にあたり、
明治に入って新暦に換算した日付だそうです。
神武天皇は紀元前711年2月13日生まれ、紀元前585年127歳で没。
今朝の最低気温は午前6時の21.5℃。 最高気温は午後1時の28.8℃。
晴れているのか、曇っているのか… やっと物の影が出来る位の雲と日差しです。
〖自民党総裁選 岸田氏 決選投票で新総裁に選出〗 2021年9月29日
自民党総裁選挙は、1回目の投票でいずれの候補者も過半数に届かず、決選投票の結果、
岸田前政務調査会長が、河野規制改革担当大臣を抑えて、新しい総裁に選出されました。
雑感… まぁ数日前から “一回目の投票では河野氏が有利だが過半数は取れない。
河野氏、岸田氏の決戦投票になれば、高市氏の票が岸田氏に流れ、岸田氏が有利” と
盛んにマスコミが言っていましたからねぇ。
どう云う選挙力学が働いたのかは知りませんが、勝者が分っていれば乗らない手は有りません。
主義主張とは別に勝ち馬に乗るという保身が働いたのでしょうね。
後で何か良い事が有るかも知れませんからね
ひげは岸田氏の人となりを知らないので、政治的な力量を知りません(汗・笑。
ただひげと同じ広島出身、大のカープファン、お好み焼きが大好き… 期待しましょう? (笑。
だんじり祭りは見守っている小学生も楽しみにしているお祭りです。
小さな子も走ります(笑)
今日は 《和泉・岸和田だんじり彫り物・物語-4》 です。
まず最初は… 「信長熱田神宮戦勝祈願」 です。
戦国時代、織田信長が今川義元との決戦(桶狭間の戦い)を前に必勝を祈願した場面です。
〖西野神社・社務日誌〗によると… 【熱田神宮に着いた信長は、右筆(ゆうひつ)の武井夕庵に
“この戦いは多勢に無勢、苦しい戦いとなる。熱田大神の力を借りて、是非勝利したい” という趣旨の
願文を作らせ、御神前に跪いて、集結した兵達の前でこの願文を読み上げ戦勝を祈願しました。
この時、本殿の奥から甲冑の触れ合う音が聞こえ、一羽の白鷺が舞い立つという吉兆が顕れたそうで、
信長は「これぞ、熱田の大神が我々を護り、勝利に導くしるしである!」と兵達を激励しました】
2枚目は… 「多聞丸射術修行」 です。 多聞丸とは “楠正成” の幼名です。
3枚目は… 「林軍太・多聞丸に降参」
多聞丸(後の楠正成)の父と敵対していた林軍太。
その息子多聞丸の武勇が優れている事を聞き、のちの災いになると思い、力量を試す場面です。
歯が立たなかったようですね(笑。 この時、多聞丸は弱冠11歳だったそうです。
4枚目は… 「後醍醐天皇御夢」 です。
後醍醐天皇が楠正成の存在を知ったのは夢のお告げ…
ウィキによると… 【元弘の乱が発生し、天皇が笠置山に籠り、ある夢を見た。
その夢の中では、庭に南向きに枝が伸びた大きな木があり、その下には官人が位の順に座っていたが
南に設けられていた上座にはまだ誰も座っておらず、その席は誰のために設けられたものなのかと
疑問に思っていた。すると童子が来て「その席はあなたのために設けられたものだ」と言って
空に上って行っていなくなってしまった。
夢から覚めて、天皇は夢の意味を考えていると「木」に「南」と書くと「楠」という字に
なることに気付き、寺の衆徒にこの近辺に楠という武士はいるかと尋ねたところ、
河内国石川郡金剛山(現在の大阪府南河内郡千早赤阪村)に橘諸兄の子孫とされる
楠木正成(楠正成)という者がいるというので、後醍醐帝はその夢に納得し、
すぐさま楠木正成を笠置山に呼び寄せる事にした】
5枚目は… 「桜井の驛」 父、楠木正成と子の正行(まさつら)の今生の別れの場面ですね。
【建武3年(1335)5月21日、楠木正成公、湊川の決戦に向かうにあたり桜井の駅で、
長男楠正行と今生の別れを告げる。 正行は父に従わんと願ったが、正成曰く
「後に残り忠孝を励め」と短刀一振りを与えて河内へ帰す。 時に正行11才である。
ひげは歌で知っています ⇒ ♪桜井の別れ
♪青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ 木の下陰に駒とめて
世の行く末をつくづくと 忍ぶ鎧の袖の上に 散るは涙かはた露か
6枚目は… 「楠正成、包近八幡宮へ戦勝祈願」 です。
楠正成は包近にも来ていたんですね。 包近八幡宮は楠本神社のようです。
7枚目は… 「正行如意輪堂」 です。 正行は楠正成の嫡男です。
四条畷の決戦へ出発に当たり、鏃を以って如意輪堂の扉に辞世の歌を残したそうです。
“かゑらじと かねておもえば梓弓 なき数に入る名をぞとゞむる”
(今度の戦いは生きて再びかえれぬ身。 故に、亡き人の仲間入りをする名前を残して
出発します… と言う意味だそうです) 23歳だったそうです。
8枚目は… 「義貞 龍神に宝剣を献ず」 これも歌で知っています ⇒ ♪鎌倉
♪七里ヶ浜のいそ伝い稲村ヶ崎 名将の剣 投ぜし古戦場
9枚目は… 「神武天皇東征」 です。
日向(高千穂)を治めていた神武天皇(死後の命名)が東に進軍し、大和朝廷を建国。
八咫烏(やたがらす)が、神武天皇勢を大和へと道案内しました。
建国記念の日(2月11日)は、神武天皇の即位日である旧暦の紀元前660年1月1日にあたり、
明治に入って新暦に換算した日付だそうです。
神武天皇は紀元前711年2月13日生まれ、紀元前585年127歳で没。