こんにちは・・(^◇^)
ますます訪ねたくなる東大寺と言うサイトを見つけました。
それに加筆しながら、シリーズでアップしますね・・(^◇^)
ー復興への願いがつながる「鐘楼が丘界隈」ー
まずは、復興を胸に公慶が通いし小径の公慶道を
正倉院の正門から、東に行くと、古都奈良の文化財の東大寺の塔頭の一つである龍松院がたたずむ。
正倉院正倉の入口から拝観できるのは、ウイークデーの4時までなんですね・・(^◇^)
そこから、南の大仏殿を見るともう、紅葉が色づき始めていました・・(^◇^)
龍松院の前から小さな橋を渡って大仏殿の北東角へと抜ける小道を公慶道と呼ぶんですね。
13歳で東大寺大喜院(現龍松院)に入寺し、雨ざらしの大仏を見て大仏殿の再建を決意した公慶だが、幕府の許可を得て勧進を開始したのは37歳になってからだった。
勧進の多忙に伴って、穀屋(現・勧進所)に建てた寺に移り住むことになったんですね。
が、それまでの20余年、公慶は大仏殿再建を胸に、朝夕この小道を行き来したという。
「大仏殿の再建」と文字で書くのはたやすいが、そこに費やされた労苦は、我々現代人の想像をはるかに超える。
まずは資材の問題。あれだけ巨大な大仏殿を支えるには多くの大木が必要だ。
その内容はまた後日に・・(^◇^)
公慶道の両側には立派な杉や桧がずらりと周囲3mほどの木が並んでいます。
裏参道を過ぎると猫段前まで長池があるんですが、その東側にも大きな木が並んでいました。
これらは大仏殿再建のとき、資材調達に苦労した公慶が「この先修復が必要になったとき、大木がなかったら困るに違いない」と後世を慮って植樹したものだったんですね。
西側の講堂跡や僧坊跡には鹿と観光客は多いですが、公慶道には参拝客の姿はなく、静謐に包まれていますね。
そっと目を閉じ耳を澄ますと、朝もやの中を歩く公慶の足音が今にも聞こえてきそうだなあと思いました・・(^◇^)
昨日に京終サロンでの興福寺執事長の講演で、中金堂の建設の木材調達は、もう日本でできないと言う苦労話が頭をよぎりました。
家に閉じ込めるとまだサンタ猫が感情不安定なので、一緒にいますね。
肌寒いですが、陽射しもあるので、洗濯して、布団も干しますね。
今日も良い日でありますように・・(^◇^)
ますます訪ねたくなる東大寺と言うサイトを見つけました。
それに加筆しながら、シリーズでアップしますね・・(^◇^)
ー復興への願いがつながる「鐘楼が丘界隈」ー
まずは、復興を胸に公慶が通いし小径の公慶道を
正倉院の正門から、東に行くと、古都奈良の文化財の東大寺の塔頭の一つである龍松院がたたずむ。
正倉院正倉の入口から拝観できるのは、ウイークデーの4時までなんですね・・(^◇^)
そこから、南の大仏殿を見るともう、紅葉が色づき始めていました・・(^◇^)
龍松院の前から小さな橋を渡って大仏殿の北東角へと抜ける小道を公慶道と呼ぶんですね。
13歳で東大寺大喜院(現龍松院)に入寺し、雨ざらしの大仏を見て大仏殿の再建を決意した公慶だが、幕府の許可を得て勧進を開始したのは37歳になってからだった。
勧進の多忙に伴って、穀屋(現・勧進所)に建てた寺に移り住むことになったんですね。
が、それまでの20余年、公慶は大仏殿再建を胸に、朝夕この小道を行き来したという。
「大仏殿の再建」と文字で書くのはたやすいが、そこに費やされた労苦は、我々現代人の想像をはるかに超える。
まずは資材の問題。あれだけ巨大な大仏殿を支えるには多くの大木が必要だ。
その内容はまた後日に・・(^◇^)
公慶道の両側には立派な杉や桧がずらりと周囲3mほどの木が並んでいます。
裏参道を過ぎると猫段前まで長池があるんですが、その東側にも大きな木が並んでいました。
これらは大仏殿再建のとき、資材調達に苦労した公慶が「この先修復が必要になったとき、大木がなかったら困るに違いない」と後世を慮って植樹したものだったんですね。
西側の講堂跡や僧坊跡には鹿と観光客は多いですが、公慶道には参拝客の姿はなく、静謐に包まれていますね。
そっと目を閉じ耳を澄ますと、朝もやの中を歩く公慶の足音が今にも聞こえてきそうだなあと思いました・・(^◇^)
昨日に京終サロンでの興福寺執事長の講演で、中金堂の建設の木材調達は、もう日本でできないと言う苦労話が頭をよぎりました。
家に閉じ込めるとまだサンタ猫が感情不安定なので、一緒にいますね。
肌寒いですが、陽射しもあるので、洗濯して、布団も干しますね。
今日も良い日でありますように・・(^◇^)