蔵書目録

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『雷雨』 曹禺著 影山三郎 邢振鐸共訳 (1936.2)

2024年03月07日 | 翻訳・翻案 小説、詩歌、映画

   

  曹禺著 影山三郎 邢振鐸 共譯
    雷雨
      東京・サイレン社版
  
    装幀 河合光

  
  
    原作者近影
   
    
  
 最近中國文學及び演劇に對する關心が、わが國の藝術家及び一般大衆の間に嵩まつて來たことは面白い現象である。この事實を促進させたものは、日本に於ける中國演劇運動であつたと思ふ。中國演劇運動は日本の演劇愛好者及び演劇專門家の前に、近代中國の生きた生活を投げつけて呉れた。これは實に傳統的な世界でもなければ、梅蘭芳的に樣式化された世界でもなく、私達とともに呼吸する近代的苦腦の生活であつた。そしてその苦腦の性質は孤立的なものではなく、今日の世界の良心的な要素は、それを共に負擔しなければならないやうなものであつた。
 わが國に於ける中國演劇運動の最初の上演戯曲はこの「雷雨」だつた。この戯曲の作者曹禺君は、中國に於ける唯一のギリシヤ悲劇の研究者であり、現在中國の大學に演劇學の敎鞭を執つてゐられる人である。近代中國の社會的、家庭的悲劇の要素が、この作者によつて演劇的形象を持ち得たといふことは最も興味の深いことである。戯曲「雷雨」の持つ悲劇性は、私は主として、中國の封建的家族制度から來てゐると思ふが、主人公の周僕園は近代中國を象徴化した人物のやうに思はれる。彼の周囲に私達は澤山の問題を見出すことが出來る。戀愛、結婚、家族制度、労資鬪爭の問題等がそれである。
 戯曲の樣式として「雷雨」を見る時、これはイプセン的な三一致(時・處・人)の法則では割り切れないものであり、むしろ近代映畫的手法によつたものだと思ふ。プロローグとエピローグだけが現代で他は悉く過去の出來事として描いてゐるのがその一つである。このことはこの戯曲に歷史的な進展性を與へてゐると思ふ。
 私は最後に「雷雨」の翻譯者影山三郎、邢振鐸兩君の勞を謝し、またこの戯曲の日本に於ける再演を希望して置く。
   一九三六年一月廿一日
              雜司ヶ谷にて
                秋田雨雀
  
    
  
 「雷雨」は確かに一篇の得難き優秀な力作である。劇全體の構成、筋の運び、對話の効果、映畫的手法の舞臺藝術への適切なる移入等に、作者は實に莫大な苦心を費したものと思はれる。が而も其處に苦心の跡を殘さないまでに、凡てが非常に自然に、そして緊密に行はれて居る。又、精神病理學、精神分析學等に對する作者の並々ならぬ造詣の程も窺はれる。私の如き醫學を學んだ者が、強ひて難點を見出さんとしても、何等の破綻をも發見することは出來ない。斯樣な點から、作者は中國に於ける傑出せる一人であると言へるし現代の人々から歡迎されて居ることも充分頷かれる。 
 作者の強調する悲劇は希臘的運命悲劇であり、その點此の作の形式の新鮮さに比し悲劇的情調には、多少古風な點があると言ふべきである。前世紀初葉メンデルの遺傳法則の再發見以後、發生學、優性學等の大なる進歩と共に近親相愛の悲劇の必然性は非常に稀薄になつた。近親相愛の悲劇は、唯劣勢な惡性因子の容易な發生に於いてのみ存在し得るのであつて、劣勢なる良性因子の發生に對する可能性からは、却つて近親相愛は奬勵すべき行爲であり、從つてその悲劇性は失はれるのである。英國の有名なダーウイン家が累代從兄弟間の婚姻を實行したに拘らず、屡々逸才の輩出せるは、此の科學的見解の無意識的消極的實践である。
 人生そのものが旣に暗黑な運命となつてしまつて居る。作者は此方面に於ける認識に多少缼けて居る所があると思はれる。此が爲め濃厚なる舊來の道徳的雰圍気の中に立籠り、積極性に欠しい。最も積極的な人物魯大海さへ最後には霞込んでしまふ。若し作者が批判される場合は恐らく此點が最も人の注意を惹くものと思はれる。
 然し社會の進歩は常に跛行的で時にはアミーバ―の如く蠕動し、科學的進歩的思潮が社會の通俗的觀念に影響される場合には、それは尠くとも二三世紀遲れるであらう。事實、二三千年來の古き觀念は現に社會に於て、依然としてその暴威を逞しくして居るではないか。かゝる事を思へば、作者の悲劇的情調の古風さと、彼の藝術的手法の新鮮さとの間に介在する矛盾は正に眼前の悲劇的社會、就中、中國の社會に於ける矛盾の一部の反映であると言はねばならない。私は作者のより新しき作品に未だ接して居らぬが、或は旣に此の微細な矛盾を作者自身淸算して居るかも知れない。何故ならそれは決して難事ではないから。唯その強調する力點を他の方向に向け變へれば良いのである。
 然し乍ら「雷雨」は確かに紹介する價値がある。此は勿論梅蘭芳式の舊劇と雲泥の差があるのみならず、叉中國の新劇界に於ける得難き優秀な作品である。
 今、影山君と邢君の力に倚り此が日本文に譯出された。その譯文の正確と優美は言ふ迄もない。私は一人の文藝を愛好し、演劇を愛好する中國人の資格を以て作者と共に慶幸を分受し、叉謝意を表する次第である。
   一九三六年一月廿三日
              於鴻台
                郭沫若
   
    原作者序
  
 秋田雨雀氏の御推薦と三上於菟吉氏の御好意に依り、曩に日本語に翻譯された「雷雨」のサイレン社より出版されることを、影山三郎、邢振鐸兩君より最近寄せられた長文の御手紙に依つて知ることが出來た。此の消息は作者を驚異せしめた。のみならず同時に此の「驚異」が恐らく私の感情を表現するには不充分であることを痛切に感じたのである。と言つて別に「榮光‥‥‥慙愧」等との言葉を使はうと言ふのではない。唯々千里の外に居る二人の友が莫大な時間を費し、一語々々此の冗長累贅な物語を翻譯して下さつたことを思ふと、深く感激せずには居られないだけである。
 私は自らを劇作家と思つては居ない。私の劇が人に讀まれ、人に上演され、或は翻譯されるなどとは毫も考へては居なかつた。でなければ一般の天才作家達の樣に不機嫌に、自分が時代に理解され得ないものと慷慨もすることであらう。私は唯、平凡な人間の一人であつて、一つの月並な家庭に發生し得る平凡な物語を書いたに過ぎない。若し此が友人達に注意される價値があるとしても、勿論それは一時的なものであらう。將來恐らく彼等はその輕率を悟り、此を選んだ瞬間に大きな錯誤をなしたと言ふことを發見するに至るだらう。私は此の作品が水草の下の鳥影のやうに飄然と掠め通つた儘、寂寞の裡に消え去つてしまふのではないかと思ふ。然し私はその生命を惜しいとは思はない。何故なら、尊敬する友に依り一時の漣を起したとしても、それは旣に私の豫想外の事であるのだから。
 私は深長の沈黙の裡に、遠き所にあつて同情を以つて、「雷雨」に更に一つの新天地を與へて下さつた友に感謝して居る。
  
 偖て私は如何に自己を表現しようか。元來、小心、陰鬱、晦澁な人間である私は自分自身を理解し得ないのである。ギリシヤ人の尊敬する智慧ー「自知」と言ふものが私には缼けて居る。心の中にあるものは唯亂雲の如き焦燥、逼迫の感じだけである。だから私は今、自分の作品を語るに當つて唯茫然としてしまふのである。
 國內の數回の公演の後、多くの批評家は私を夫々三四の旣存大家達の信徒乃至は靈感の繼承者であると憶測した。正直のところ此は私を驚かした。私は私自身であるー一個の渺小たる自己である。私には大家が苦難の後に達し得た深奥を到底窺ひ知ることは出來ない。丁度甲蟲が暗夜、晝間の明るさを想像し得ないやうに、過去十幾年間、幾册かの脚本を讀みもし、叉自ら幾度か舞台に立ちもしたが、如何程懸命に考へても果して、どの點をどの作家から得たものか終に記憶を蘇すことは出來なかつた。此は事に依つたら、所謂「潜在意識」の下層に於て自己自身が瞞着されて居るのかも知れない。私は恩知らずの下僕である。主人の家から一本一本取つた金の絲を以つて、私自身の醜陋な衣服を織りなしたにも拘らず、此の色褪めたー私の手に入つた爲にー金絲が主人のものであることを否認する。とは言へ若しもそれら大家の力と秀麗さの一抹一點一句をでも自己のものになし得るならば、私は無上の幸ひとする。
 私は元來冷靜に物を言へない質である。自分の作品に就いて語ることも無論例外たり得ない。氷の溶け盡した春の日、陽光の下に跳躍する潑剌とした子供を悦びを以つて眺めるやうに私は「雷雨」を愛する。きらめく沼の畔に思ひ掛けずも靑蛙の一聲を聞き得た時にも似た喜悦の感覺である。斯樣な小さき生命から私は幾多の靈感と興奮とを與へられたと言ふであらう。私は心理學者のやうに兒童の行動を冷靜に觀察することが出來ないし、叉實驗室に於ける生物學者のやうに理智的なメスを以つて靑蛙の生命を解剖分析することも出來ない。私の「雷雨」に對する理解は唯母親の我が子を愛撫する單純な悦びに過ぎない。冷靜に語る術を私は知らないのである。かゝる仕事は、「雷雨」の批判者に委ねるべきであらう。事實、此の二年間に於ける「雷雨」に對する批判は私に、彼等こそ私の作品を私自身より以上に明瞭に了解して居ることを發見させたのである。何故に「雷雨」を書いたかと言ふ問題に對しても多くの人々が私に代つて註釋を與へてくれたし、勿論それらを私は承認することが出來る。然しながら私は、決して判然と何物かを匡正し、諷刺し、攻撃することを意識して居たとは言ひ得ない。或は、かすかな或種の感情の湧出に押流され、抑壓されて居た憤懣を洩らし、中國の家庭と社會とを誹謗するやうな事になつたのではないかと思ふ。だが、最初模糊たる影相のあつた時、私を興奮せしめたのは唯、一二のテーマと幾人かの人物、並びに因果でもなければ應報でもないところの地上に存する「殘忍」と「冷酷」とであつた。若しも讀者が此の事を會得しようと心掛けるならば、他の幾多の比較的緊張せる場面や一二の正確に惹きつけられはしようが、尚且つ全篇を通じて連綿不斷に隱顯する鬪爭の「殘忍」と「冷酷」とを窺ひ知ることが出來るだらう。此の鬪爭の背後には力ある何物かゞ存在して居るのかも知れない。それをヘブライの先覺者は「神」と呼び、ギリシヤの劇作家は「運命」と名付け、近代人は漂渺莫たる觀念を棄て簡單にそれを「自然の法則」と言ふ。  
 が、然し、果して一體それは何者であらうか‥‥‥
 とまれ、一種の逼迫した感情の鬱積が私をして「雷雨」の筆を執らしめたのであつた。
   一九三六年一月十五日   
              於天津
                曹禺

     
  
    戯曲  雷雨  (四幕) 

       〔本篇省略〕
  
   譯者後記
   
 「雷雨」を讀んだのは一九三四年の十二月であつた。其當時作者曹禺ー後で知つた本名である萬家寶と言ふ名前は、六年前天津に居た時舞台上の人として、見もし聞きもしたがーは私に取つて全く未知のものだつた。友人達と「某々の變名だ」とか「某は自由發表が禁ぜられたので別名を使つたのだ」などと色々想像し論爭してゐた程、「雷雨」は私の神經を尖したのである。
 翌年三月初め此を上演する準備に着手し、四月末、中華留日學生の日本に於ける第一回新劇紹介公演ー同時に雷雨の初演ーを行つたが、手續上の不慣れの爲に、留學生間と極く少數の日本人の間にしか宣傳せずに幕を下した。其にも拘らず、留學生間に相當な反響を齎らし、日本に於ける中國新劇運動興隆の導火線となる事が出來た。 
 その後、八月の初め天津で曹禺氏に會ひ、東京上演の話を周僕園、魯貴、周冲に扮した四人と共に食卓を圍んで語りながら、私から翻譯に就いて同氏の意見を訊ねてみた。氏は暫く沈黙して「御好意は感謝しますが、何分幼稚で洗練されていない拙作ですから、その御考へを止めた方が良いと思ひます」と言はれた。私は其時氏が唯謙遜からさう言はれたと思へなかつた。「兎に角やつてみます」と答へて、別れを告げた。氏は嘗つて二年前日本に來られたさうである。氏は新劇の爲に努力して來た、日本の人々の熱意と苦心を非常に感服し、いつか叉機會に惠まれたならば、ゆつくりもう一度日本に行き、日本の新劇に接したいと語つて居た。
 私は東京に居る間、氏の希望が一日も早く實現される事を祈つて居ります。 
 尚、今日私共の初志が叶へられたのは、我國の文藝と演劇に對して、深甚なる御理解を以て、御聲援下さつた方々の賜であります。
 特に本譯書の爲に序文を御執筆下さいました郭沫若氏、秋田雨雀氏に衷心より厚く御禮申上げ、叉原稿の整理その他種々と助力して下さつた友人中國文學研究會同人土居治君に感謝する次第であります。
   一九三六年一月廿五日
              東京にて 
                邢振鐸
  
   〔省略〕
   一九三六年一月廿五日
                影山三郎

  
  
    初演記錄
  
  周僕園‥‥‥賈秉文  老 僕‥‥‥佟功熈
  周蘩漪‥‥‥陳倩君  下男甲‥‥‥石子琪
  周 萍‥‥‥邢振鐸  下男乙‥‥‥徐仁凞 
  周 冲‥‥‥邢振乾  下男丙‥‥‥王毅之
  魯 貴‥‥‥王威治  尼 甲‥‥‥張春媛
  魯侍萍‥‥‥喬俊英  尼 乙‥‥‥張二媛
  魯大海‥‥‥呉玉良  姉  ‥‥‥張賢媛 
  魯四鳳‥‥‥龍瑞茜  弟  ‥‥‥張光弟
  
   中華話劇同好會 第一回公演
    一九三五年四月272829日
                 於 東京神田一橋講堂
                 舞台寫眞撮影 王任之

   

  〔下は、奥付の一部〕 
  昭和十一年二月六日發行
  定價 貳圓  
  譯者 影山三郎 邢振鐸
  發行所 サイレン社   
  
〔蔵書目録注〕
  
 背表紙  :「曹禺著 戯曲 雷雨 影山三郎 邢振鐸 譯」とある。
 口絵写真 :同じ4葉の写真が、未来社版にもあり、左から「第一幕、第二幕、第三幕、第四幕」とある。
 郭沫若の序:「鴻台」とは、当時彼が住んでいた辺りの古い地名「鴻之台」(現在の千葉県市川市内の一部)と思われる。
       明らかな誤りは、赤字で訂正した。郭若沫 → 郭沫若 
 原作者の序:文中の傍点個所は、文字入力の関係で、青字とした。
 なお、本書は、国会図書館のデジタルライブラリーで、1951年出版の未来社版の『雷雨』 影山三郎訳 と共に閲覧出来る。

     

 ちなみに、『大陸の雷雨』 曹禺著 多摩松也譯 天松堂 (昭和十四年七月十五日發行 定價壹圓貳拾錢) は、サイレン社版の本文だけを、全く同じ構成の訳文、ページ数で作ったものか?
  (上の写真:左から、表紙、奥付、本文の151頁、サイレン社版の本文151頁)
 最後に、原作者曹禺の父萬德尊は、日本の陸軍士官学校卒業生(第六期學生:明治四十年十二月入學、同四十一年十一月卒業、本邦第二十一期生相當)である。

 



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