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マイmy巷話

かたつむり。ときどき世田谷、目黒、渋谷の歴史や地理など。

世田谷 森厳寺の富士塚のはなし

2023-02-08 | 街歩き・歴史散歩

先日、世田谷区のある施設の片隅に展示されていた一枚の古写真を見て、気づいたはなしをしてみたいと思います。



まずはそんな昭和前期の古写真がこちら👆

こんもり茂った小山の前に人が大勢写っているこの一枚なのですが、説明には下北沢の鎮守様で北澤八幡宮の場所名が書かれていました。

が、、
日頃から小さな歴史を探して周りをぶらぶら🐾していることもあり、見れば見るほどこの場所は八幡宮ではなく、お隣の森厳寺ではないかと思いはじめたのです。

とすると、、背景の小山は江戸時代に作られた築山、「森厳寺の富士塚」ではないでしょうか❓❓



森厳寺富士塚は明治の古地図でも針山のような記号であらわされているように、その存在は江戸時代から広く知られていました。

その後、平成になってお寺の墓地整備で切り崩されたようですが、もし写真が富士塚ならば、地域の史蹟の貴重な記録写真が広い部屋の隅に、、おまけに場所名まで間違えて紹介されていてもよいのかな、、と💧



とはいえ、早合点をする前に、写真を拡大してみて、ここがお寺だということを確かめてみることにしました🔍

●周りにはたくさんの卒塔婆
●お坊さんが何人も並んでいる
●中央の石碑には南無阿弥陀仏の文字


森厳寺は南無阿弥陀仏の浄土宗派ですから確かに合ってますね!


そして、大震火災亡霊云々、、と書かれた札があることから、おそらくこの写真は書かれた年から考えると関東大震災の17回忌あたりの供養を下北沢の町の人らで行った際の集合写真ではないでしょうか。。

また、窪地に人が何人も立ったり座ったりしている場所は、塚が切り崩される前に世田谷区教育委員会が2007年に行った発掘調査の記録にある、戦時中に作られた2つの防空壕のうちのひとつで南側防空壕のような気がするし。。🤔




そんな富士塚だと思わせる最大のヒントが、目玉のような不思議な記号が描かれた旗ではないでしょうか。

これは今でいえば、
「江戸っ子イチオシ❗️富士講主催 大人気の日帰り富士塚ツアー」
で添乗員が使った旗に近いのかなっ笑

江戸末期、森厳寺の富士塚には講という組織の旗(マネキ)に導かれて多くの江戸っ子が押し寄せたらしいのです。
訪れた富士講中は塚にマネキを立ててから、富士詣ででひと登りをした後、門前の茶屋で一服をしたのだとか。。🍵

そんな習俗がこの昭和初期の写真を見るとまだ残っていたのかもしれませんね。




この森厳寺は徳川家康の次男の位牌所として、いまから400年以上前に創建された徳川家ゆかりの名刹なのです。

お寺とともに長い歴史を共にしてきた大銀杏は、毎年秋になると辺り一面を見事な金色の世界に変えてしまうようなとっても素敵な場所だったりするんですよね。。

かつての境内には作庭された池や築山などが、徳川家の法事に訪れる諸大名らの目を楽しませていたようですが、江戸末期に地元の富士講からの念願で築山は富士山へと様変わりをしたようです。

その大きさは高さ10m幅20mほどと、なかなか立派な富士山🗻だったとか。。


そんな富士塚は周囲で保存の要望もあったようですが、2007年に整備されて、現在はこのような景色に変わっています。
お寺とは思えない白が際立つモダンな建物は富士を見立てているのかな。。


…と真実はともあれ、出先で目にした古写真からいろんなことを今回も勝手に読み取ってしまいましたね💧💧

しかし、あの写真はもう少し大事にしてほしいものです😑
今度あの施設の人に話してみようかな。。


☆森厳寺富士塚の発掘調査記録は世田谷区の図書館で閲覧することができます。



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10年という歳月をブログの写真で比べてみる

2023-01-10 | 街歩き・歴史散歩
ブログであれこれ自分が好きな記録を書きはじめて10年が過ぎました。。。🐌


10年前が果たして遠いむかしと言えるか❓、、はおそらく人それぞれに違うもの。
ワタシの場合の10年を飼ったかたつむりの数で振り返れば、おそらく100回以上の出会いと別れがあったはずですな😅

そんな掴みどころがなかなか難しい10年という月日ですが、ブログを続けていたからこそ、偶然同じ場所を撮っていた記録写真を比較することが出来まして、そんな時間の意味と深さをワタシなりにちょっと振り返ってみたいと思います。
ま、結局はぶらぶら散歩ってやっぱり楽しい〜😆❗️ということを言いたいわけですねっ笑


まず最初は目黒区大橋あたりを2014年頃に歩いたときにたまたま撮ったクロマツの大木から…👀

この時、戦前の陸軍輜重兵第一連隊があった敷地周辺を回っていたのですが、駒場高校グラウンド際の立姿がなんだか印象的だったので撮った記憶があります。

ここは、明治の頃に陸軍の乗馬学校だった時期もあって、明治天皇や大正天皇が天覧に何度も訪れている地。
もっと遡れば、徳川家の御鷹場だったため、普段は人が立ち入ることが許されない場所だったんですね。
そんななか、将軍や天皇を唯一見下すことができた貴重な生き証人がこの松の大木だと思うとちょっと感慨深いものがありませんか?


そんなマツですが、昨年久しぶりに通りかかるとバッサリと伐られていましたね。。

うむ、、、潔ぎよすぎる💧


お次は同じく目黒区大橋にあった陸軍施設で近衛輜重兵大隊の射撃場跡👀

10年前にこの廃墟を見た時は、ビルに囲まれた都会の一角に手付かずのまま戦争の遺構が生々しく残っていることにちょっとびっくりしました。

そんな、廃墟、、


やっぱり、すっかり取り壊されて、いまは向かいに新しく建て替えられた大学病院の駐車場になっています。


そして、最後の写真は渋谷駅に隣接するこちらの稲荷橋❗️
これは2013年に撮りました。

ここは渋谷の駅前で主人を待ちつづけたハチ公🐕が自分の死期を悟るなか、これまで訪れたこともなかった駅の反対側のこの地でひっそり息絶えていた場所なんですね。。


そして、現在の稲荷橋がこちら👆

もはや同じ場所とはとても思えませんが、渋谷の駅前開発で橋の向こうの山手線の高架が高層ビルでぴったり塞がれてしまっています💧


10年前にこの橋から見た渋谷川はなんだかくたびれたような都会の風景でしたが、、


もはや、ニューヨーク的な圧迫感⁉️
渋谷川には夜はイルミネーションが灯り、おしゃれなレストランが並ぶ都会の遊び場所になっているんですねー。



、、と散歩中の風景の10年今昔を3つご紹介しました。

まぁ、消えていくものを悲しんでも都内に住むからには仕方がないっ。
それよりも新しい風景が上書きされて、再びの5年先10年先が果たしてどんな姿に変わるのかをブログの写真で再び記録出来たらよいかな、、と思っています。

では本年もよろしくお願いします。

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世田谷 陸軍獣医学校の境界標石

2022-12-16 | 街歩き・歴史散歩

以前、敷地まわりを歩いたことのある淡島通りの陸軍獣医学校跡地で、新たに陸軍標石をふたつ見つけました。
以前に見つけた石とあわせて、旧陸軍施設の跡地に文字がはっきりと確認できる境界標石が現在3つも残っているのは、なかなか都会では珍しいような気がします。



まずは獣医学校正門のあった付近からの眺めを。。

師走も半ばをすぎると冬暮れの陽になんだか忙しなさを感じますな。。。




そんなことより石ですねっ😆
手前の石は以前にブログ記事で紹介した標石ですが、実はそのすぐ並びにもアタマだけがわずかに出ている石があったんですねー。




たしかに「陸」という文字が見えていますね👀

雑草が刈られて、周りがきれいになったため、近頃になって気づいてしまいました。




そして、もうひとつは富士中学校の正門横に建っているのをフェンス越しに偶然発見しました❗️

ここも旧獣医学校の敷地内ですが、土地の境界ではないため、おそらく他の場所から移ってきたような気がします。



確認までに近づいてみると、、



確かに陸軍と刻まれています。


3つの標石はすべてが中学校の敷地内にあるため、この先も貴重な歴史資料として失われることなく残っていくことでしょう。。😌


因みにフェンス内の標石は中学校の正門内のため、勝手に入ってはいけませんよー。念のためっ。


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世田谷 公務員宿舎跡地と謎の標石

2022-12-13 | 街歩き・歴史散歩
再び、境界標石のはなしを。。




近所を散歩をしていると何故か❓旧郵政省の社宅が多いことに気づくのです。



この空き地にも以前は細長くて寂れた社宅が建っていたのですが、いつの間にか残っているのはポストマークの境界標石だけになってしまいました。



少し離れたこちらのお宅の前にも標石だけが、取り壊されずに残っていました👀


郵政省の他、周辺には陸軍省の名が刻まれた境界標石もいくつかあったりするのですが、もし自分ちの玄関前に何故か石だけ残されるのなら、「陸軍」より「〒」のほうがワタシも見た目には良いかな…と。


話変わって、このあいだ。
用賀に所用で出かけた折に変わった標石を偶然見つけてしまいました。



ここもやはり国家公務員用の社宅跡地らしいのですが、、👀

どうやら広い敷地は近い将来、区の再開発で公園整備が計画されているそうですが、いまは只々不気味な空気が漂っています。。



で、なんとはなしに見ていると、隣のマンションとの境界に接して、パズルのように外壁にピタリとはまった細長い石があることに気付きました。



これは間違いなく境界標石のようです❗️

日競」と刻まれているようですが、石の雰囲気からするとおそらく戦後のもののようです。

うむ🤔
やはり調べてみたくなりましたっ📖




早速、昭和30年前後の地図を出してみます👀

どうやら、公務員住宅ができる以前にこの場所は東京農業大学の農場だったようです。

隣は馬事公苑。。
なんだかあやしいが、ひとまず、「日競」と結びつく記録が地図には見当たらないようです。



お次は高度経済成長期の航空写真に目を向けてみました👀

見るからに農地から住宅密集地へと一気に変貌していますが、こういうスピード感がまさに高度経済成長期ってことなんでしょうねっ🫢
農大の農地も公務員社宅へと変わっているのがわかります。

そして、「日競」の境界標石が立つ正方形の敷地にも幾つかの建物が建っているようですが、社宅とは建築の形状が明らかに違っていますね!


…これらから、この境界標石の持ち主の目星はつきました🕵️‍♂️

先述したように、ここが馬事公苑に隣接していることから、馬に関連する施設、、ズバリ!「日競」は日本中央競馬会の略だったのではないでしょうか⁉️


そのあと、改めて調べたところ、昭和37年に東京農業大学から日本中央競馬会がこの土地を購入した記録を見つけたのですっ👏👏


やはり、街のいたるところにちょっと目を凝らすと楽しいおもちゃは落ちているものですねっ。

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渋谷 宇田川水源地と町境について

2022-12-03 | 街歩き・歴史散歩
これまで山歩きをしていて、周辺でもひときわ高い山の尾根沿いや分水嶺が県境だったりすることがたびたびありました。

それはおそらくむか〜しは目に見える自然のさまを利用するほうが、人々がいろいろな意味での利便性を図るのに一番都合が良かったからなのでしょう。

ある地域と隣り合う地域を線引きするということは、むかしから決していい加減には出来なかったわけでして、全てに意味があるはずっ。
そんな例を先日の宇田川散歩から取り上げてみたいと思います。




こちらは昭和16年の渋谷区地図ですが、よく見ると、、👀
それぞれ町の境が破線で示されていますが、赤矢印の3箇所がなんだかおかしなカタチで線引きされていますよね。


そして、お次はもうひと昔前で大正末期の古地図からその場所を見てみると、この3箇所はピッタリ宇田川源流部に当てはまりそうです。

つまり、これらの境界線は、宇田川の谷頭部分までを町の区分としたからなんですね❗️

川の源は自分らのものだっ👆、、みたいな諍いが、もしやこの不自然な波線の裏には隠されていたりして❗️❓


というわけで、地図に描かれた線って、自然に対するヒトの思惑が面白いほど反映していたりするんですよねー。
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渋谷 見えない宇田川とその源流をたどる その2

2022-11-27 | 街歩き・歴史散歩
引き続き都会のなかの見えない川の源流探し🐾



まずは戦後昭和30年頃の地図から…👀

前回は宇田川の暗渠を三角橋周辺の谷頭から代々木上原駅前西原児童遊園地(地図の赤矢印⬇︎)まで辿ってみました。

戦後、ここから上流(白線)側は埋められて住宅地(徳川山分譲地)になったようですが、そのむかしには代々木の深い谷だったことを頭の隅に置きながら、今回は北西へと宇田川の源頭部を詰めてみたいと思います。
とはいっても、ただひとんちの合間をふつうに歩いているだけなんですが…💧



昭和30年ごろには暗渠と化した西原児童公園からの流れの跡を住宅地の裏手のわずかな側壁に見つけました。

それ以前の代々木上原一帯は豊富な水を利用した田んぼだったのが、高度成長期に合わせて宅地へと変わっていったようです。



見えない水路を辿り、広い交差点にでました👀(地図の

大正末期の古地図には、この奥に大池が描かれているのですが、北と西側2ヶ所の源頭からの水が集まって出来た池なのでしょう。

そして、背景のお宅の立派な大谷石の外壁はおそらく戦前から戦後に分譲された徳川山からのものかな。。

「徳川山」の名前の由来は、周辺が明治の一時期に紀伊徳川家の土地だったからで、地名でもないのに、一昔前の昭和前期の渋谷区地図に徳川分譲地とはっきり記載があるのは、おそらく土地のブランド化を図りたい企業側の戦略が地図に反映されたからでしょうね❗️


この広い交差点では東外れに残るわずかな縁石に戦後復興期の宅地造成にまつわる歴史のカケラを見ることができるのです👀(地図の青矢印⬇︎

昭和30年頃の地図を見ると、代々木上原駅から徳川分譲地に続く道路がここまで新設されているのですが、何故か?その後の高度成長期に入ると、道は姿を消して、住宅地へと変わっているのです。
そんなかつての道路痕がこの不思議な空き地とわずかな縁石なんですね。


再び、川のはなしに戻って、交差点近くから水路の跡を西方向に見ています👀

道の突き当たりが大山園の跡地で、今回目指している宇田川の源頭部のふたつめがこのあたりですね❗️
因みに水の流れはこんな感じだったのかな。。

大山園の跡地まで近寄ってみると、10m近くもありそうな高さの立派なコンクリートの法面で守られた個人の邸宅になっているようです。

そんな「大山園」とは、明治の中頃に造成された、ある実業家の庭園のことで当時は庶民にも開放された名勝地だったとか。。

実はそれ以前は木戸孝允が所有していたらしいのですが、この方ってたしか維新後まもなく、ここから程近くの駒場にあった徳川家の御鷹場も所有していたはず、、

つまり、「桂小五郎」って、かつてはこのあたりの大地主だったんですねっ❗️


そんなこんなで、大山園跡の源頭部を首が痛くなるくらいに見上げたあとは、再び大池のあった交差点にもどります。

今度は徳川山北西の源頭部を目指してみましょうっ🐾

因みにこの交差点も戦前は周囲の谷頭からの水が合流していた場所のようです👀(地図の②)

改めて、今回の宇田川の源流探しはここがむか〜し狼谷と呼ばれたほどに迫り来る、幾つもの深い谷奥を源としているだけに、谷の数だけ流路があって、特定が難しいことに、今更ながら気づかされています💧


見えない流れを詰めて行くと、いよいよ道も狭まってきました。

このあたりは、いかにも暗渠らしい雰囲気が漂い、標高も先程の大池があった最初の交差点から5mは上がっているようです。
おそらくこのあたりも宇田川の源頭部のひとつでしょう。。

そんな右手の外壁は代々幡斎場でして、ここは江戸時代から続く火葬場。
最近、親しい知人をここから送ったことがあるので、ちょっと悲しくなってしまいました。。

で足早に、地図のへと引き返して、最後は、徳川山西側の谷の最奥部へと向かうことにします🐾

代々木大山公園の野球場にやって来ました👀

目指す源頭は階段下の西原総合体育館あたり。。
この場所は代々木上原駅前の西原児童遊園地との標高差が15mもあるので、ちょっとした山になっていますね❗️
おそらく、ここが宇田川源頭部のなかでも一番に険しい谷だったのでしょう。
むかしは狼犬もいたのがわかるような気がしますっ。


しかし、、💧💧

ここまでなんとか理屈や屁理屈をつけながら来たものの、湧水どころか水の一滴も落ちていないんですよね。。。

そんな最後、この谷からの流れが、体育館に隣接するJICAの敷地に入るのを古地図で確認して、施設を訪れてみることにしました。


昨今の厳しいセキュリティ事情に反して、割とあっさり入れたのは意外ですが、JICAの施設内って全てが英語表記のようです…大丈夫かな💧

正面入口のホールから階段を下がった先のレストランも外国の方ばかりで、ちょっとした旅行気分になってきましたっ。

レストランは広くて明るく、全てがステキな庭に面していて、ワタシのような余所者でもインターナショナルな料理が格安に食べられるようでして、目的を忘れて、ついついレッドビーンズカレーを注文してしまいました笑

が、、それが功を奏したようで、ご親切な食堂のマスターから、このステキな庭の奥に2つの池が並んでいるという事実をとうとう聞き及んだのです❗️❗️


カレーとコーヒーを頂いたあと、早速教えてもらった通りに、ガラスの戸口から庭へと出てみました。

落ち葉が舞い散る静かな散策路から一階のレストランを振り返ると、このJICAの敷地は建物側から水場に向かって、急激に下がっているのがよくわかります。


敷地はずれの谷底まで降りて行くと、可愛らしい楕円形の池が見えてきました❗️

まわりは薄暗く、木立に包まれて、水面に動きはまったく見らず、いかにも谷間の底らしい神秘的な雰囲気が漂っています。


池のほとりは立ち入りが禁止されていて近くまではいけませんが、2つの池はよく見ると細い水路で繋がっているのも確認できました。

池が西原体育館の源頭から流れてきて溜まったものか?、それとも湧水池なのかはわかりませんが、この水から宇田川が誕生したことだけは間違いなさそうですね❗️


改めて、今回の宇田川源流探しは、渋谷という場所柄、水を見つけることなんて無理だと思っていたところ、最後はたまたま人の助けを拝借して、宇田川の源頭から湧く水をじかに見ることができたのは嬉しいかぎりなのでした。

また、これからも散歩途中の見えない水路探しは続けていきたいものです。。

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渋谷 見えない宇田川とその源流をたどる

2022-11-22 | 街歩き・歴史散歩
多摩川を見渡す場所から都会に越してきて十余年。。
ウチの近くに川はないと思っていたところ、偶然、昭和の頃の古地図を見て、まわりは川や用水路だらけで、蛇行する川ではよく氾濫も起きていた❗️、、なんてことを知りました。
つまり、全てが暗渠化されていたんですね…。

それをきっかけにヒマが出来ると都会のなかの見えない川とそれにまつわる歴史のカケラ探しがなかなか楽しいことに気付いたのです。

で、今回の暗渠探検は散歩を兼ねて渋谷の外れのいまでは渋谷繁華街に町の名前だけが残る宇田川に注目してみました。


まずは宇田川の豆知識👀📖
渋谷川の支流。
むかしは、今の代々木公園からNHKに沿って流れる豊富な水量を利用した稲作が営まれていた。
その水の深さでときには人が溺死するくらいの底なし田んぼだったとも。
因みに湧水地という場所柄、低い水温のせいでお米の味はあまりよくなかったらしい。。

また、地理的には川の源頭部にあたる幾つかの谷戸(代々木上原や大山、西原、幡ヶ谷あたり)からの湧水が代々木上原周辺で宇田川の様相を呈して、代々木八幡からの支流と合流。
その流れが渋谷駅の宮下パークあたりで渋谷川にバトンタッチ🏁❗️

そんなところでしょうか。。


これは大正末期の代々木上原あたりの古地図です👀

おそらく、このあたりが宇田川の故郷になるのでしょうが、曲がりくねった等高線の集まりはまるで山の地図を見ているようですねっ。
これじゃ、谷を詰めれば水が出てくるのも妙に納得です。。。

そんな地図とにらめっこした結果、今回の宇田川散策は代々木上原周辺の3ヶ所の谷間あたりから湧き出る水の流れに焦点を当てて源頭を探ってみることにしました。
目指すのはこちらの3ヶ所。。

三角橋
大山園
徳川山

ではひとまずスタート。。。🐌


先ずは三角橋を昭和初期の古地図から見ていきます👀

三角橋交差点は渋谷区と世田谷区との区境ですが、どうやら周辺には水源地が2ヶ所あることがわかりました。ひとつめは小田急 東北沢駅の北側のガード下あたりで、ここはすでに川は失われていて砂利取場になっているようです。

そして、もう一つは三角橋北側の湧水池(地図③)
池を端とした流れは地図にはっきりと描かれているので、今も水路跡のヒントが何処で見つかればラッキーですよね❗️


🐾

🐾



三角橋交差点にやってきました👀

ここは暗渠となった三田用水の三角橋跡あたり。。
傍の大きなケヤキの根元に目を向けると、石を穿った跡の残る大谷石が護岸の役目を失った今でもこの木を支えています。
この三田用水の石はまわりにも幾つか残っているので、三角橋の道路拡張工事が進む前に是非探してみて下さいね。


そんな三角橋で宇田川という社名の材木屋さんを発見しましたっ😳

もしかして川と関わりがあるのかな❓❓、、と調べてみると、どうやら社長さんのお名前のようでしたが、宇田川の源頭に同名の会社があるなんて、偶然にしては凄いですよね。。


三角橋の都道420号線から北へと道が下がっています。
水源池はこの坂を突き当ったマンションと邸宅との境に見えるあの木のあたりでしょうか。。

かつては、この都道に沿って流れていた三田用水は安全確実に江戸の町まで水を運ぶために、ひたすら標高の高い場所を選んで水路は造られていました。
それを分水嶺に例えると、三角橋から確かにこうして地形が下がっているわけですから、むかしのひとの土地を見る才知はすごいですよね。。


古地図①📸
坂を降りた先をフェンス越しに見てみる👀

側溝の先に湧水池はあったと思われますが、敷地境界を真っ直ぐに2本並んだヒトんちの側溝があまりに立派すぎて、ワタシはそっちに見入っちゃいましたっ😆


古地図②📸
側溝から東側に移動して、マンションの敷地に沿って歩いて見る👀

少し道が左に傾いているのは、側溝を源頭部ととらえると、ここが東と西に迫り上がったV字の深い谷だったからなんですねー。


で、マンションのエントランス側に回ってみると、喚起を促す危険💦な急坂が谷底へと続いています。
水源池からの水路(青矢印)は坂を下ったあの奥ですね❗️


古地図③📸
今度は反対側の西側の谷へと移動してみました👀

建物の敷地境界を下った先を池からの水路は右から左へと(南から北)続いていたはずですが、いまは暗渠になっているのでしょうか。。


で、、肝心な宇田川のはじまりとなる池はいったい何処にあった❓もしくはあるのでしょうか🤔

…おそらくヒントはこちらの広大な邸宅(大樹荘)の東側の庭にあるはずですが、見ての通り確認など出来るはずもありませんでした💧
しかし、、なんでしょうね。
この邸宅は❓❓


代わりに水源池近くの窪地に古い井戸を見つけました👀
昔は湧水に恵まれたこの井戸で日々の暮らしが営まれていたのかもしれませんね。。


そんな三角橋周辺の2ヶ所の湧水地からの流れはこの上原中学校の南東角あたりで合流したようです。



その流れは、昭和初期の地図には現在の中学校東側の街路樹に沿うように、北側に向かって描かれています。

街路樹の落ち葉に隠れた量水器にもこの学校の歴史の古さが感じられますね。。


水路はこの先、井の頭通りを越えて、代々木上原の駅へと続きますが、なんだかこの交差点って不自然に盛り上がっているように見えませんか❓

で調べてみると、当初の井の頭通りは貯水池の水を世田谷区の和田堀給水所まで通した送水管の上に造られたために高さが生じ、その後、渋谷まで道路が新設された際も地表レベルはそのままに保たれていたからなんですね❗️
もちろん新設道路には送水管は埋まっていません。


はなしは戻り、水路は代々木上原駅のガードを抜けて、矢印先の小さな駅前公園に向かっています👀



実はこの西原児童公園あたりで、今まで追ってきた三角橋からの流れと、これから見に行く2箇所の源頭地(大山園と徳川山)からの流れは集まって、代々木八幡方向へと続いた結果、宇田川は誕生するんですねー❗️



そんな宇田川誕生の記念になりそうなこの公園も、残念ながら川は暗渠化されて、歴史と共に厚いコンクリートの蓋のなかに入れられてしまいました。。
公園の階段に残る橋のような遺構はそんな昭和の中頃に作られたもののようですね。


次回は、宇田川源頭部の残り2ヶ所、大山園と徳川山周辺を歩いてみます。。。🐌
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目黒・散歩途中に不思議な境界石を見つける その4

2022-01-21 | 街歩き・歴史散歩
散歩ついでに街角で見つけた石のはなしが思ったよりも長くなってしまいましたが、これでお仕舞いにしますね…🐌




目黒の住宅街で見つけた戦前に建てられた境界標石。。

「田中」と個人名が刻まれた石は立派な白ミカゲのようですが、なんだか見ればみるほどこの風情って近所のアレと似てるような…🤔




そうっ👆
アレとは池尻に残る駒沢練兵場の陸軍境界石。
道端に建ってるだけなのに、なんだかただモノじゃないオーラが似てる気がしませんか?


そんな田中さんの境界標石なのですが、一体どんな方だったんでしょうね。。


余計なお世話なんですが😅、、
ちょっと調べてみたくなりまして、地元の法務局で100年以上前の旧土地台帳からざっと辿ってみたところ、意外にもこの地番に当たる所有者には歴史のなかでその名を残す人物が何人もいるものの、残念ながら田中さんの名前は見当たりません。

そこで、大正11年に土地所有者だった実業家の望月軍四郎が山林を開墾した記述をヒントに、その後田中さんは移り住んだと仮定して、当時の住宅地図から探してみることにしました。
因みに昭和のはじめは関東大震災で罹災した人らが地盤の固い目黒や世田谷に移り住んだ時期にちょうど当たります。




そして、これが昭和10年の住宅図。

で、ありましたっ👀

🔴の2つの標石が建つ場所に「田中大太郎」さんのお名前を見つけました!
やはり田中さんは90年前のこの場所に確かに住んでいたんですねー。



再び余計なお世話なんですが😅、、
携帯片手にどんな方か?と調べたのですが、またもや名前が見当たらず。

90年前の地図に氏名が載るなら、社会的に地位のある方のはずなんですけどね🤔


そこで、この土地がいつ田中さんに文筆されたのか?を旧土地台帳から探ってみることにしたのです。
文筆とは今回法務局で学んだのですが、ある土地を登記上に分割する手続きを表す不動産用語。
語源はさておき、チョンマゲ時代からなんだかそのまま使われている言葉…ではないかと思われます。

昭和10年の地図で田中さんが住んでいたことはわかったので、それ以前に文筆した記録を土地の地番から調べて、新たな地番の台帳を見れば良いというわけですねっ👆
因みに地番というのも、番地とは違う不動産語でややこしいのですが…


そして、旧土地台帳の記録からわかったことをざっとまとめてみました📖

●大正10年からの所有者で実業家の望月軍四郎が昭和2年にこの土地を文筆して新たな地番が登記されている

●昭和3年に文筆された地番の土地所有権が田中◯に移転。

●昭和5年に開墾。山林から宅地へと変わり地価も大きく修正されている。


このことから、90年前に自分の土地に立派な境界標石を建てた方は、昭和10年の古地図に記載された田中大太郎さんではなく、その5年前に土地台帳に登記された「田中◯」さんではないかと思われます。
両者はおそらく親族だとは思いますが…。

敢えて名前を伏せたのは、調べると幾人かの同姓同名が存在するため、特定することができなかったからなのです。

それでもヒント💡として、

●昭和5年に目黒へ転居してくる以前の住所が渋谷駅前の渋谷警察署に隣接する住宅地で当時の庶民には手軽に住めない場所だということ。

●個人の標石とはいえ、材質やサイズまでも陸軍標石に似た作りだということ。
おまけに当時の世相を考えて、周りに忖度せず自宅に建てることができた意味。

●敷地が大通りに面して四周を囲まれた立派な屋敷構えだったと古地図からわかること。


…を踏まえて、そのなかのひとりに陸軍のトップ階級の名前があるため、その方かな⁉️と思ったりもしていますが🤔

🐾

🐾

結局、街で見つけた西郷標石や田中標石の人物を探し当てるまでには至りませんでしたが、この土地を深く調べるほど明治から続く時代の功労者の名前(詳しく書けませんでしたが浜口陽三のアトリエも!)が古い土地台帳に次々と現れては消えていくことを目の当たりにできて、なかなか貴重な体験だったと思っています。

100年以上前の色褪せた冊子がオタクな散歩好きに、地元の土地に埋もれた歴史の断片を今回こっそり教えてくれたのかもしれませんが笑

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目黒・散歩途中に不思議な境界石を見つける その3

2022-01-13 | 街歩き・歴史散歩
ワタシが今まで見た戦前の希少な標石といえば、山のなかでは宮内省御料局の宮標石、街中では陸軍の境界石あたりを挙げられますが、今回目黒の住宅地で見つけた個人名が刻まれている境界石はホントに初めて。。



しかも、「田中」「西郷」と違う名前がふたつも並んでいますっ。

石に土地の境を標すばかりか表札の役目まで担わせるとは、、🤔
やはり地位のある人物だったのでしょうか。




「田中」と刻まれた石から見てみます👀
池尻で見た陸軍の標石と同じような作りの立派な御影石で出来ています。

そして背後に見える小さな石が、、


これですっ👆
西郷から下の文字が埋もれていますが、「家」と読める気がしませんかっ👀



石のアタマには境界点を示す穴が開いているので、この西郷石も確かに境界石であることは間違いはなさそうです。



一方、田中さんの石にも、はっきりとした境界点があります。
実は田中さんのほうは、西側と東側の敷地の角にそれぞれ立派な境界石が残っているのですが、西側の石は見ての通りにすっかり埋もれています。

うむ。やはり調べてみようかな。。🤔



そこで、明治の地租改正以降から戦後までの国の税金徴収目的で使われていた旧土地台帳を法務局で閲覧させてもらうと、意外なことがわかりました。

どうやら、100年以上も前のこの土地所有者は、現在検索をするとすぐに出てくるような歴史的に名を残す方々が記録簿に並んでいたのです❗️


が、、肝心な田中と西郷の名前は記録には見当たらず💧💧
ワタシの無責任な憶測としては、西郷従道が台帳に登場することを期待していたのですが。。

西郷従道とは西郷隆盛の弟で、この方、かなりの兄想いだったらしく、身体を壊した兄の静養地として、明治初年頃にこの標石の建つ場所からほど近い目黒川沿いに広大な土地を購入しているのです。
のちにそこに本人が立派な屋敷を建てて、一帯は西郷山と呼ばれるまでになったのですが、当時の地租改正で税を払えなくなった周辺の農家から山林や農地の買い上げを頼まれた従道の所有地は最大14万坪にまで及んだとか。。
だからこそ、この西郷石の関係を疑ってしまったのですが、ちょっと残念。



ただ、土地台帳が制度化されるのは明治20年過ぎてから。。
もしそれ以前に西郷従道がこの土地を手放していたとしたら、記録は残ってないということになりますよね?
やはり真相は藪のなか。。
西郷標石のみが知るってことでしょうか🤔


また、台帳に名を連ねる土地の所有者の筆頭は、深川亮蔵という方でして、明治24年には古川源太郎に譲与しているようですが、調べてみるとどちらも旧佐賀藩の鍋島家の重臣だったのです。

鍋島家は海外渡航で不在が多かった若い殿様に代わって、元教育係でもあったこの方々の手に明治維新後の旧鍋島藩の全業務は委ねられたのだとか。。
具体的には、設立した第三十国立銀行の頭取に就任して旧佐賀藩の経済基盤を作り、佐賀や東京にたくさんの土地を購入して利を得たり、、
と外面的には全てはこの人らの名前で行われていたのです。
だから、台帳の登記名がお殿様じゃないってわけか…🤔




これは明治初年頃の古地図です👀

現在標石が建つ位置の下あたりに「茶」と記載がありますが、おそらく、旧土地台帳に記録された鍋島家の土地がこの茶畑かと思われます。

茶畑といえば、ここからほど近い渋谷の地に鍋島家は「松濤園」という広大な茶畑を作らせて、旧藩士に狭山茶を生産させた時期もあったため、この目黒の土地の茶の生産も松濤園と加えて、利を出していたのかもしれません。

のちに松濤園は分譲されて都内屈指の高級住宅地として地名だけが残っています。



…と、目黒のある土地を巡って明治維新の立役だった西郷家から鍋島家へ、、と散歩途中に見つけた石を端にはなしをずいぶん膨らませてしまいました。

が、その後もこの土地所有者の変遷はなかなか面白く、鍋島家から幾人かを経て、明治の横浜発展の礎を築いた実業家の小野光景、そして早稲田や慶応をはじめ日本の教育、研究施設に多額の寄贈をした実業家の望月軍四郎などが記録上に連なっていることが判りました。

やはりここはただの山林、、というよりもなんだか持っていたくなるような意味のある土地だったように思えてなりません🤔


次回はもうひとつの「田中」の石について調べてみたいと思います。



マイマイネタはしばらくお休み。すみません。。🐌
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目黒・散歩途中に不思議な境界石を見つける その2

2022-01-11 | 街歩き・歴史散歩
前回記事に続き、散歩途中に楽して見られる陸軍境界石がまだあったことを思い出しました。


それがこちら👆
世田谷区池尻の陸軍用地と刻まれた境界石は、墓地と隣接する専門学校の境で今もまるで現役のような存在を示しています。


御影石のアタマが十字に刻まれていますね…👀

十字の意味は敷地が四等分に分かれた場所だと示すため。
でも、ここはただの一本道だし。。🤔


で、大正時代の古地図を見ると、この池尻から246号線を東側に越えた一帯は陸軍の駒沢練兵場で、境界石は練兵場のちょうど北西の角の民有地と個人墓所の境に設置されていたようです。

当時、柵があったかは分かりませんが、広漠な場所だからこそ、ここには幾つもの標石を立てて(現在、他の標石は埋もれていて、上部だけ見ることができます)、当時は土地の区別を明確にしたかったのかもしれません。

…このように立派な御影石の「陸軍」標石だけでもなかなか珍しいものの、先日、目黒区の松見坂の住宅地の裏路地を散歩中に、個人名が刻まれた2つの境界標石が偶然並んでいることに気づいたのです。


まずは右手が以前見つけた「田中」と刻まれた立派な境界石で、左側の小さなものが今回見つけた石。

なんだか「西郷(家)」と読めるんですよね、、、。

しかし、昨今は個人情報やらなにやらあるため、慎重にやらなきゃいけません💧
ちょっと調べてみようかな…。



再び続く。。🐌

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