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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

主は我らの義(デビット・カン講演9)

2012年09月25日 | 日記



   ひまわりさんより(9月25日)

今日の日課の中に、「いつも、塩で味つけられた、やさしい言葉を使いなさい。そうすれば、ひとりびとりにたいしてどう答えるべきか、わかるであろう」(コロサイ4:6)とありました。私は、どうしてやさしい言葉を使うと、相手に対してどう答えるべきかわかるようになるのだろうと思っていました。ちょうど一昨日から、「悪い言葉を口から出さない」ことと、昨日の「すべてについて感謝すること」を実行していく中で、「ああ、そうか、聖書の言葉を実行していくと、聖霊様の感化の中に入るので、聖霊様が語るべき言葉を教えてくださるのだ」、と思いました。まだ、体験はしていませんが、そのように確信できました。(*毎日このブログを見ていて下さるという”あさがおさん”こんにちは。これからも、良い学びができますようにお祈りしていますよ)

  ユダヤの祭りとキリスト(デビット・カン講演9)

ペンテコステが起こった時の、神の民の状況を学んでもらいたいのですけれども、ペンテコステの日に初穂をささげるように神様は求められました。「過ぎ越しの祭り」があって、そして、「種なしパンの祭り」が始まるわけですけれども、最初の日に初穂を「揺祭」としてささげる儀式がありました。
そのささげられた初穂というのは何でしたか。大麦の束だったんです。それは何を表していたのでしょうか。イエス・キリストの復活、よみがえりを予表していたんです。
そして、ペンテコステの日に、神の民は収穫の初穂を捧げるよう求められました。それは何だったと思いますか。二個のパンでした。それは「揺祭」の時にささげられた大麦から作ったパンだったのですね。そのパンは、その時収穫した束ではなくて、前もって収穫した束から、前もって製粉して焼いたパンだったのです。この二個のパンはユダヤ人と異邦人を表していました。ユダヤ人の残りの者、それから、異邦人の残りの者たちを収穫するためには、まず初穂を神様にささげなければなりませんでした。
終末時代にも、まずそのようなことをしなければなりません。





主は我らの義(デビット・カン講演9)

2012年09月25日 | 日記



   ひまわりさんより(9月25日)

今日の日課の中に、「いつも、塩で味つけられた、やさしい言葉を使いなさい。そうすれば、ひとりびとりにたいしてどう答えるべきか、わかるであろう」(コロサイ4:6)とありました。私は、どうしてやさしい言葉を使うと、相手に対してどう答えるべきかわかるようになるのだろうと思っていました。ちょうど一昨日から、「悪い言葉を口から出さない」ことと、昨日の「すべてについて感謝すること」を実行していく中で、「ああ、そうか、聖書の言葉を実行していくと、聖霊様の感化の中に入るので、聖霊様が語るべき言葉を教えてくださるのだ」、と思いました。まだ、体験はしていませんが、そのように確信できました。(*毎日このブログを見ていて下さるという”あさがおさん”こんにちは。これからも、良い学びができますようにお祈りしていますよ)

  ユダヤの祭りとキリスト(デビット・カン講演9)

ペンテコステが起こった時の、神の民の状況を学んでもらいたいのですけれども、ペンテコステの日に初穂をささげるように神様は求められました。「過ぎ越しの祭り」があって、そして、「種なしパンの祭り」が始まるわけですけれども、最初の日に初穂を「揺祭」としてささげる儀式がありました。
そのささげられた初穂というのは何でしたか。大麦の束だったんです。それは何を表していたのでしょうか。イエス・キリストの復活、よみがえりを予表していたんです。
そして、ペンテコステの日に、神の民は収穫の初穂を捧げるよう求められました。それは何だったと思いますか。二個のパンでした。それは「揺祭」の時にささげられた大麦から作ったパンだったのですね。そのパンは、その時収穫した束ではなくて、前もって収穫した束から、前もって製粉して焼いたパンだったのです。この二個のパンはユダヤ人と異邦人を表していました。ユダヤ人の残りの者、それから、異邦人の残りの者たちを収穫するためには、まず初穂を神様にささげなければなりませんでした。
終末時代にも、まずそのようなことをしなければなりません。





主は我らの義(デビット・カン講演8)

2012年09月24日 | 日記



    ひまわりさんより(9月24日)

昨日は、「悪い言葉を口から出さない」ことをやってみましたが、今日は、「すべての事について感謝しなさい」(1テサロニケ5:18)を実行しようと思って、いろんなことに感謝してみました。そうしたら、だんだん感謝の心になってきて、ありがたいことで一杯になってきました。感謝していると、不満や批判がなくなり、心の方向が変わるのだと思いました。そして、今までどうしてクリスチャンの品性が築かれないのかと思っていたのですが、単純にみ言葉に従っていないからだと思いました。以前は、心に感謝がないのに、感謝なんて出来ないと思っていたのですが、肉には本来感謝などあるはずはないのですから、み言葉に書いてあるから感謝していけばよいのだと思いました。(ただ、み言葉に従うと言っても、心がある程度自由にされていないと、パリサイ人のような律法主義になるか、すぐに、できないと言ってあきらめてしまうことになるように思います・・・)。

    4種類の人々(デビット・カン講演8)

世界の人達が四つに分けられると言いましたけれど、第1は、名目的再臨信徒、つまり真理を理解して情報として受け受けとめている人たちです。
2番目は、女の残りの子ら、神の戒めを守り、経験的にそれを実践している人たちです。イエス様の言葉、イエス様の品性、預言を受け入れています。また、イエス様の義を受け入れています。イエス・キリストが心の中で生きた力となって働かれるのです。生活を通して、そのような証をしていきます。そういった人たちが女の残りの子らなのです。
次に、バビロンの教会に二つのグループの人たちがいます。バビロンの諸教会に神の民がいます。
「後の雨」が降るとき、バビロンの教会から呼び出されてくる人たちです。それは聖書では、11時労働者と言われている人たちです。日本語で何と言ますか。・・・5時労働者ですか。最後の最後までいって呼び出される人たちですね。そして間もなく、女の残りの子らと、5時労働者たちが一つになります。







主は我らの義(デビット・カン講演7)

2012年09月23日 | 日記



    ひまわりさんより(9月23日)

聖書には、「悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはあらない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい」(エペソ4:29)とあります。今日はある人と、今度の金曜日の打ち合わせについて連絡をしていたのですが、相手はそのことを全然覚えていなかったのです。こちらは苦労して予定を取ったのに、そんなことは全然知らずに、気楽なものです。つい、一言文句を言いそうになったのですが、聖句を思い出して、思いとどまることができました。でも、まだ心が穏やかではなく、何か言いたくなりそうな気持でした。そこで、もう一つの聖句、「あなたの手に善をなす力あるならば、これをなすべき人にさし控えてはならない」(箴言3:27)を思い出し、「私はこの聖句を優先する。自分の思いには従わない」と言い切り、「イエス様の動機を希望をお与え下さい」と祈ったところ、心が平安になり、相手を思いやる心に変えられました。

   聖書の言葉は生きた力(デビット・カン講演7)

私には孫がおりまして、生まれて16か月ぐらいです。本当にかわいい男の子なんです。まだ私が若かった時、2人の娘を育てました。子育てをしていたわけですが、私は仕事と勉強に忙しくしていました。そのために、子供たちと一緒に過ごす時間をとれなかったのです。しかし、孫が生まれてからは、状況が変わってきました。『私が言わんとすることがわかりますか?』 『お孫さんがいらっしゃる方、おられますか? おお、たくさんいらっしゃいますね』。孫と交わる時、何かが起こります。孫が何かを私に与えてくれて、私自身も心を彼に与えます。そうすることによって一つになります。孫が泣く時、何を求めているか、私は理解することができます。だんだん言葉を学び始めているところです。まだ言葉をちゃんと出すことはできません。音は出しますけれども・・・。そして泣きます。それだけでわかります。私たちは一つになっているからです。その交わりでは、美しい言葉で語る必要はないんです。時には孫を抱っこします。抱っこしていたら孫が私の背中をトントン叩いてくれます。それは私を信頼してくれているということなんです。時には孫の母親が、私から孫をとって抱きかかえようとします。すると「おじいちゃんと離れたくない。おじいちゃんと一緒にいたい!」と泣くわけです。そういったことがお祈りなのです。ですから聖書には、絶えず祈りなさいとありますよね。私たちが罪のうちにとどまっているとき、神様との関係が壊れてしまいます。お祈りができなくなります。それは私たちの神様に対する態度なのです。聖書に書かれている真理の言葉は、単なる情報ではありません。生きた力なのです。主が私たちの義なのです。これが女の残りの子らの経験となるべきであります。





主は我らの義(デビット・カン講演6)

2012年09月22日 | 日記



 ひまわりさんより(9月22日)

今日の安息日は、朝から夜までとても感謝に満ちた一日でした。午前中は、9時から、息子の通う神学校1年生のY君が来てくれ、共に聖書の学びと礼拝を行いました。うれしいことに、彼は、前回来た時、ポケット版の『各時代の大争闘』をあげたのですが、自分も他の人にあげたいからと言って、10冊も取り寄せ、友達に配るのだそうです。3人だけの礼拝でしたが、とても充実したものだったと思います。彼は、12時過ぎに帰り,その後、もとの教会で聖書研究を行っていた、Kさん親子が来てくださり、息子とガールフレンドと一緒に、聖書の学びをし、その後近くの渓谷まで川遊びに出かけました。そのあと、日没礼拝では、子供たちのために夫が、腹話術をやってあげ、子供たちは大喜びでした。夜には、手術で入院していて、数日前に家に帰ってきた方の、フットマッサージに、夫と共に出かけました。その方は、手術後1か月近くも風呂に入っていなかったそうで、足浴をしたら、アカがたくさん出てきました、足浴で足を温めた後、昨日習ってきたフットマッサージを行ったところ、とても気持ちがいいと喜んでくださいました。ところが、家に帰る途中で20分ぐらい来たころ、免許証などを入れたポシェットを忘れたことに気づき、引き返してもらう羽目になり、夫に怒られてしまいました。この頃、忘れっぽくなってしまって、もっと気をつけなければならないと思いました。





      真理は力である(デビット・カン講演6)

 いろんな大事な言葉が聖書の中に見られますけれども、それらは単なる概念、知識ではないのです。み言葉というのは、生きた力であります。『お祈り』という時に、それはただ単に手を組んで何か神様に語るということでしょうか。それは単なる概念にすぎません。
 バビロンの教育者たちは、人類にそのような概念を教えてきました。しかし、真理というのは単なる情報ではありません。真理は力なのです。では、お祈りとはなんでしょうか? お祈りとは、私たちと神様の関係そのものなのです。私たちが神様とつながっている時、何かが起こります。何かを受けるのです。私たちは変えられます。自分自身を神様にささげます。