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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

新生への道 8 キリストにある成長 ⑪

2013年10月22日 | 日記

  


 新生への道 8 キリストにある成長 ⑪

キリストが昇天されたときも、主はなお共におられるという確信を弟子たちはもちました。それは愛と光に満ちた個人的な存在でした。弟子たちと共に歩み、語り、祈り、彼らの心に希望と慰めを与えられた救い主イエスは、平和の言葉を語りながら、彼らを離れて天にあげられました。天使の群れがイエスを受け止めると、弟子たちに聞こえたのは「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:20)という救い主のみ言葉でした。イエスは、人のかたちのまま昇天されました。弟子たちは、イエスが神のみ座の前にあってもなお自分たちの友であり、救い主であり、また思いやり深い点においても変わりがなく、悩み苦しむ人類と強い関係にあることを知っていました。イエスは、彼のあがなわれた者のために払った価の記念となった手足の傷を示して、ご自分の尊い血の功績を神の前に述べておられるのです。弟子たちは、イエスが天に昇られたのは場所を備えるためであって、再び来られて、自分たちを受け入れてくださるということも知っていました。  

   主に会う備えをせよ ⑪

私は、だいぶ以前に、水のバプテスマは受けていましたが、その時、ほんとうに聖霊によるバプテスマを受け、神にある新しい命へと甦えらせていただいたのだと思いました。心からは、自然に、「わたしたちの主キリスト・イエスによって神は感謝すべきかな」(ローマ人への手紙7章25節)という喜びが湧きあがってきました。

 私たちは、キリストを個人的に自分の救い主として信じるとき、程度の多少はあれ、自分の罪を認め、自分の知恵や力の限界を知り、いくぶんか自分を明け渡すことができます。しかし私たちは、心に何か、最低でも一つか二つ、最後まで神様にささげていないものを持っているようです。それを明け渡すなら、私たちは、あたらしい生命に生きることができるようになります。その新しい生命をいただいてはじめて、私たちはクリスチャンとしての歩みが始まるのです。それが信仰による義であり、実を結ぶ信仰の第一歩だと思います。


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