SOS.TV.JAPAN

ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

同性婚と新世界秩序への入口 第3回

2015年08月30日 | 日記

 聖書と同性愛

聖書は同性愛について何と言っているか見てみましょう。

「イスラエルの女子は神殿娼婦となってはならない。またイスラエルの男子は神殿男娼となってはならない」(申命記23:17)。男娼とは男色(同性愛)者を言います。

「また主の宮にあった神殿男娼の家をこわした。そこは女たちがアシラ像のために掛け幕を織る所であった」(列王記下23:7)。

「あなたは女と寝るように男と寝てはならない。これは憎むべきことである」(レビ記18:22)。

「女と寝るように男と寝る者は、ふたりとも憎むべき事をしたので、必ず殺されなければならない。その血は彼らに帰するであろう」(レビ記20:13)。

 

「なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり、不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである。ゆえに、神は、彼らが心の欲情にかられ、自分のからだを互にはずかしめて、汚すままに任せられた。彼らは神の真理を変えて虚偽とし、創造者の代りに被造物を拝み、これに仕えたのである。創造者こそ永遠にほむべきものである、アァメン。それゆえ、神は彼らを恥ずべき情欲に任せられた。すなわち、彼らの中の女は、その自然の関係を不自然なものに代え、男もまた同じように女との自然の関係を捨てて、互にその情欲の炎を燃やし、男は男に対して恥ずべきことをなし、そしてその乱行の当然の報いを、身に受けたのである」(ローマ1:21-27)。

 

「それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者」(1コリント6:9)。

 

なぜこのような言葉が聖書に記録されているのでしょうか?聖書にこのような言葉があるので同性愛者は聖書を嫌悪し、イエス様を同性愛者などと呼んで冒涜しています。

 「神様はあなたを愛しておられます。イエス様を信じれば救われます。あなたはあなたらしく生きればいいのです」。このような、美しく良い話ばかりします。読むのも不快になるような生ぬるい言葉です。

しかし、罪の話をする時だけ、私たちの本来の姿がどうあるべきかを、正しく直視することができるのです。罪を悟って十字架の下にひざまずくために、罪について話す必要があります。自分の状態をあるがままに照らし出されるために、罪について話す必要があります。現代の教会で、罪について話すことは宗教的暴力だという人さえいます。世渡りに疲れ、暖かい慰めを受けようと教会に来たのに、どうして教会に来てまで、罪の話を聞かなければならないのかと言うのです。これらの人々の要求に応えようとして、教会がその本来の機能、使命を失っています。

 

パウロは、当時のローマ社会に蔓延していた罪を取り上げて、神様を離れた結果、こうなったと指摘しています。歴史は、ローマ社会が善と悪が混沌とした状態であったと記しています。善悪があいまいな社会は、必ず続けてぜいたくと快楽の追求が起きます。平凡な日々に退屈を感じて、毎日新しい刺激と快楽を見つけるのに忙しくするのです。パウロが生きていた時代のローマ皇帝15人を調査したところ、15人中14人がゲイでした。同性愛者だったのです。皇帝ともなれば、宮殿に女性を連れてきて思い通りに快楽を求めて生きることができるので、面白くないのです。退屈だというのです。それで堕落した先が同性愛でした。このような同性愛を自然に受け入れるような社会だったので、さらには獣と交わるところまで堕落していきました。こうしたことは、ローマ時代にのみあった罪ではありません。今日、私たちの社会でも多く見るようになってしまった罪です。

昔の、他人の話ではなく、私たちの話です。私たちの罪であり、私たちの悪です。「私は同性愛者ではなく不倫だけだ。同性愛よりよほどましだ」。まさかそう考えている方はいらっしゃらないですよね?人間が神様を離れた時に、一番最初に現れるのが性的堕落です。いつの時代を問わず、社会が腐敗して堕落した時に、性的堕落が最も蔓延します。その中でも同性愛は、その社会が崩壊する直前の末期現象です。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。