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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

新生への道 8 キリストにある成長 ⑥

2013年10月17日 | 日記

 

   新生への道 8 キリストにある成長 ⑥

毎朝、神に自分をささげ、最初の務めとして、次のように祈りましょう。「主よ、しもべのすべてをあなたのものとしてお受入れください。私のすべての計画をあなたのみ前に置きます。どうか、しもべを今日もご用のためにお用いください。どうか、私と共におられて、すべてのことをあなたにあってなさせてください」と。これは毎日のことです。毎朝、その日一日、神に献身して、すべての計画を彼にお任せし、摂理のままに実行するなり、中止するなりするのです。こうして、日ごとに生涯を神のみ手にゆだねるとき、あなたの生涯がもっとキリストの生涯に似てくるのです。

 キリストにある生涯は、平和な生涯です。感情の興奮はないかもしれませんが、いつも変わらない平和な信頼をもった生活です。自分に望みがあるのではなく、キリストに望みがあるのです。自分の弱さはキリストの力に、無知はキリストの知恵に、もろさはキリストの持久力と一つになります。すると私たちは、自分をながめて自分のことばかりを考えないで、キリストをながめるようになります。キリストの愛を瞑想し、その性格の美しさ、完全さを心にとめて考えましょう。キリストの自己犠牲、キリストのへりくだり、キリストの純潔と聖さ、またそのたとえようもない愛を魂の瞑想課題としましょう。キリストを愛し、キリストにならい、全くキリストに頼るときはじめて、私たちはキリストのみかたちに変えられていくのです。

 

  主に会う備えをせよ  ⑥

私たちの教会に、こうしたことが見られなければ幸いです。しかし、現実には、教会はたえず、こうした人間のプライドの問題で悩まされ続けているのではないでしょうか。教会のあらゆる問題の根底には、この「柔らげられていない心」、捨て去られていない自我が潜んでいるように思えてなしません。

 「あなたがたの間に、ねたみや争いのあるのは、あなたがたが肉の人であって、普通の人間のように歩いているためではないか」(コリント人への第一の手紙3章3節。

 コリント教会の信徒たちは、キリストの救いを知り、クリスチャンとしての歩みを始めました。しかし彼らは、まだ「肉の人」と呼ばれ、自我に縛られた、人間的な生き方しかできませんでした。彼らの信仰に、神的な要素、神の力のあらわれはなかったのです。コリントの人々は、自分たちの中にある肉の働きにとどめを刺し、自己を完全に神様に明け渡し、神様に導いていただかない限り、本当の成長をすることはできませんでした。

 同じように、今日の神の民も、キリストを救い主として受け入れるだけでなく、自分をささげ、自我に死ななければ実を結ぶことはできないのです。

 「服従に欠けるものは何も受け入れられない。自我を屈服させることがキリストの教えの本質である」(『各時代の希望』中巻333頁) 

「しばしば、次のような疑問が起こる。では、神の言葉を信じると言っている人の、ことばにも、精神にも、品性にも改革が見られないのは、いったいどうしたことであろうか。自分がよく考えて計画したことに対する反対があったりすると、がまんできずに、ついに短気を起こし、するどい激しいことばを口にするものが多いのはなぜであろうか。また、彼らの生活には、世俗の人が持っているのと同じ利己心、放縦、短気、はげしいことばが見られる。彼らは、真理を全く知らないかのように、世人と同じ傷つきやすい誇り、同じ生来の傾向、同じ品性のゆがみをもっている。というのは、彼らが悔い改めていないからである。

彼らは真理のパン種を持っていない。パン種は、まだその仕事を始める機会がないのである。彼らの先天的および後天的の悪への傾向が、パン種の改変力に屈服していないのである。彼らの生活は、キリストの恵みに欠けていることと、品性を改変するキリストの力を信じていないことをあらわしている」(『キリストの実物教訓』73頁)。


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