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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

麦と毒麦(人を救う真の福音とは)第13回 デイビット・カン

2017年02月10日 | 日記

さてここに、神の子ら、特に神の恵みに頼り始めた者がおちいりやすい誤りが二つあります。これは特別に注意しなければならない事柄です。まず第一に、前にも述べたように、自分の行為をながめ、自分の力に頼って神と調和しようとすることです。自分の行為によっておきてを守り清くなろうとする人は、不可能なことをしようとしているのです。人がキリストなしにすることはすべて利己心と罪に汚れています。信仰によるキリストの恵みだけが私たちを清めるのです。

それとは反対ですが、同じように危険なことは、キリストを信じれば人は神のおきてを守らなくてもよいという考えです。つまり、ただ信仰によってキリストの恵みにあずかるようになったのだから、行いは私たちの救いと全く関係がないと言うものです。

 

けれども服従というのは、単なる外面だけの同意ではなく、むしろ愛によって奉仕することなのです。神のおきては神のご品性そのものを表現したものであり、愛の原則を具体化したものですから、天にあっても地にあっても神のみ国の基礎です。私たちの心が神のみかたちに似て新しくされ、神の愛が心のうちに植えつけられるならば、神のおきては日々の生活に実行されるのではないでしょうか。

     

愛の原則が心に植えつけられ、私たちの心が創造主である神のご品性に似たものとして新しくされるとき、はじめて「わたしの律法を彼らの心に与え、彼らの思いのうちに書きつけよう」(へブル10:16)という新しい契約が成就されるのです。このようにおきてが心に記されるとき、それはその人の生活を左右するのではないでしょうか。服従、すなわち愛より出た奉仕と忠誠は、弟子であることの真のしるしです。聖書にも「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである」(Ⅰヨハネ5:3)。「『彼を知っている』と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない」(Ⅰヨハネ2:4)と記されています。人は服従しなくてもよいというのではありません。信仰―ただ信仰だけが私たちをキリストの恵みにあずからせ、服従できるようにするのです。