11月24日 日曜日 快晴
カグベニ~ジョムソン~マルファ へ
カグベニ7時30分出発
カグベニを出発する前にナーランが、今日はアップダウンは少ないが向かい風か強くて下手をすると押し戻される程で歩くのも大変だぞ、と言った。
ドルジに、高い山でもあるまいにそんな大げさな風が吹くのか、と尋ねると、たまに石が飛んで来たり山羊が飛んで来たりすると言う。
バカ言うんじゃねぇ~と、言っては見たが、道の埃は凄そうだからマスク代わりのバンダナを首に巻いて備えた。
風は吹いた・・・陽が高く登ると猛烈な風が吹き付け、山羊なんかが飛んでも不思議は無いと思える程だった。
風が吹く理由は川だろうと想う。
ピサンの村も風が強かったが、あそこも川沿いだった。
風だけならどうと言う事も無いのだが風は乾き切った道の土埃を巻き上げる。
とくにジープロードを歩いている時に車やバイクに出会すと酷い事になる。
息を止めて目を瞑り暫く立ち尽くしてやり過ごさなければならない。
ジープロードの埃を避けて河原を行くのだったが河原を行けば当たり前のように川に当る。
乾季なので川の深さは大した事無く靴を脱いでズボンを捲って渡れるのだが痛い程の水の冷たさに泣いた。
何度かの渡渉の後「だからここは一度ジープロードに戻ろうと言っただろうが」と怒ると、ドルジが「ニルギリをバックにとても良い写真が撮れたよ」と言ってごまかしに掛かる。
ドルジに預けてあるカメラで自分が川を渡っている写真を撮ってくれたのだが、樹木が直立していて水平がキッチリと取れているのに感心した。
ドルジに「この川で魚は捕れないのか?」と訊くと「こんな冷たい川に魚がいるはず無いだろう」と、人を馬鹿にしたように言った。
「お前なぁ、俺の閻魔帳ではボーナスはマイナスだぞ、言葉に気をつけろよな」と日本語で言うと「ボーナス、ボーナス」と真似をして意味も分らずに笑顔になった。
こんな時、ドルジの無邪気な姿を見ると、こいつは言葉がわからなくて悪気は無いのかもな、と思ってしまうのだが。
ナーランが河原で石拾いをしながら行く。
おおそうか、アンモナイトの化石が転がっているのはこの河原か、と自分も探してみたが見つからなかった。
しばらくしてドルジが少し欠けてはいるが小さなアンモナイトを見つけて来てくれた。
昔はいくらでも見つかったが今は滅多に見つからないとナーランが言った。
土産物屋で売っているのはアッパームスタンの奥地から持って来た物なのだそうだ。
河原を歩き、またジープロードに戻り、時には旧トレッキングロードに入り込みしてジョムソンに10時に着いた。
ここで昼飯を、とドルジが言うがまだ速過ぎると言って街の一番外れまで歩く事にした。
ジョムソンは空港もあるこの界隈では大きな街だった。
乗り継ぎになるがポカラまでのバスも出ていて歩かなくても飛行機やバスで来る事が出来る。
峠越えをして歩いて来た自分に言わせると相当に都会的な街なのだが、歩かない人にとってはここでも辺境の地の雰囲気は十分らしく、長期滞在と思しき白人が多く見られた。
これまでに通った街の中で一番俗な雰囲気がして自分は好きになれない街だった。
チェックポイントが2カ所あって何やらドルジも手間取っていた。
くだらない事で時間を取られているうちに11時近くになって適当な茶店に入り昼飯にした。
直感は当るもので、この街は好きになれないなと思うと、チェックポイントで手間取ったり、また、茶店の昼飯も外れたりするようだ。
メニューを持って来られたので「ハムのピザ」を頼むと、今日はハムが無いと言う。
それじゃぁ、と、フライドチキンとスープヌードルを頼むとちきんを切らしていると言う。
それじゃぁ何が出来るんだと言うと「ダルバート」と言う。
他には何も出来無いのかと問うと、フライドライスが出来ると言うので、卵くらいはあるだろうと言って卵と野菜のフライドライスにした。
こう言う事に苛々してドルジの一寸した態度に八つ当たりをするのに彼は慣れたようで「お前が選ぶ店はろくなもんじゃ無いな」と怒りながら言うと「ミルクティーもう一杯か?」と話しを逸らす術も心得た。
11時30分ジョムソン出発
ジョムソンからの道はいよいよトレッキングロードらしく無くなり、ジープロードを歩く事が多くなった。
この地では荷物を運ぶのにトラクターの後に荷台を連結して運ぶ。
荷物を運ぶトラクターと人を運ぶ4WD車がもうもうと土埃を上げてジープロードを行くのだが速度が遅いので土埃の煙幕は長い事続く。
カグベニで標高2800mと大分低くなっているのだがジョムソンやマルファまでは平行移動で標高は下がらない。
しかし南に下っているせいか陽射しは強くなり気温が上がって行くような気がした。
旧道のトレッキングロードに入るとヒマラヤ杉の巨木が見られるようになった事から、同じ標高でも暖かくなっているのだろうと思う。
マルファの街が近づくとダウラギリが大きく迫って来た。
マルファはリンゴの産地だとナーランが言っていたが、街の入り口には彼方此方にリンゴ畑があって、日本のリンゴよりは随分小振りなリンゴが成っていた。
1時00分マルファ着
マルファは石の街だった。
石を積み上げて造られた建物は真っ白で、建物の間に通る道と言うよりも通路と言うのが正しいような道も白く美しい街だった。
街の人に石に何かを塗って白くしているのかと尋ねると、白い石を使っているのだと言うがしかし、どうも石灰などを溶いて塗っているように思えるのだが良く分から無い。
ドルジが本日もシャワーとトイレ付きの一番良い部屋を取ったと偉そうに案内した。
しかし、部屋は一階に有り日当りが不十分で寒かったのでもっと狭くて良いから三階にしてくれと言うと、本日の空きはここしかないと言う。
「あのなぁ~ドルジ、アピールしなくてもお前のサービスが良かった時はちゃんとメモしてボーナスに加えるから」と言うと「ティー?ミルクコーヒー?」と言って話しをはぐらかす。
せっかく温水シャワー付きの部屋だったが陽当たりが悪く寒いので浴びるのは止めた。
しかしトイレ付きの部屋は有り難い。
出発の時に慌てる事無く心行くまで座り込んでいられるのが嬉しい。
サンルームになっているダイニングで紅茶を飲みながら日記を書いた。
同じように日向ぼっこをしながら手紙を書いている髭の白人男性と、斜向いで熱心に何やらノートに書き込んでいる若い白人の女性がいた。
日記を書く手を休め何気無く見た壁の張り紙に驚いた。
2年前にダウラギリで消息を絶った日本人クライマーとネパール人ガイドの手掛かりを求めるものだった。
そして隣の張り紙は、ダウラギリ方面のトレッキングロードで行方不明になった外国人女性の捜索願だった。
途中の宿でも張り紙は見なかったがトレッキングの途中で行方不明になっている人の話しを聞いた。
ヒマラヤのトレッキングルートには5000mを超す峠越えは普通にあるので天候が崩れたりすれば難儀するのは容易に想像がつくが、自力で歩き通したいと思うトレッカーの気持ちは尊重する。
街の写真を撮りに出てみた。
白い石積みの美しい佇まいを見せる街はすれ違うトレッカーも無く静かだった。
ホテルや土産物屋が軒を並べるメインの通りから裏経回ると幾分かネパールらしい雰囲気があって、牛の糞や驢馬の糞の乾いた藁などが見られたがマルファの街は今までのどこの街よりも豊かな雰囲気を感じた。
根深誠著「遥かなるチベット」は河口慧海の足跡を辿った旅行記だが、マルファの近くのトゥクチェ村はチベット公益で栄えたネパール有数の豊かな村であったと書いている。
たぶんマルファも同じように豊かだったのだろうと想像する。
マルファやトゥクチェに住むのはタカリー族だ。
タカリー族は今でもアンナプルナ街道の随所でホテル経営などを手がけ財を成し、商売上手で通っている。
閑散とした街の通りを何度か行き来していたら女学生らしい三人連れに出会った。
写真を撮らせてもらい何処へ行くのかと尋ねると文房具屋だと言った。
後に着いて行くと雑貨屋でノートを買ったのだが、一冊のノートを選ぶのにきゃっきゃと騒ぐ姿は日本の子供も変わりないなと思った。
夕食時になりダイニングに行くと二つある大きなテーブルが中途半端に白人に占領されていた。
どちらも座ろうと思えばスペースはあるのだが、テーブルは微妙な間隔で英語が空間を埋めていて日本語の割り込みは気が引けた。
ドルジがここが暖かし寄り掛かれるから良いだろうと、話しが弾んでいる4人のグループの中に自分を押し込んだ。
まあ仕方が無いな、と何時ものように聞こえない振りをして静かにオニオンスープとチキンのフライドライスを食べた。
自分と少し間を空けた隣の席のドイツ人の髭面が美味そうに透明な酒をお替わりして呑んでいた。
意を決して「先ほどから美味そうに呑んでいるそれはロキシーか?」と尋ねた。
すると「アップルワインだ、ここの名物でとても美味い、一杯80ルピーだ」と教えてくれた。
そうか、名物か、呑んでみなくちゃな、と思い注文しようとするとナーランが「小さなグラスに1杯で80ルピーだが瓶一本は8杯は呑めて350ルピーで得だ」と、如何にも呑みたそうに勧めた。
一本頼んでみたが驚く程美味いものでもなく、焼酎のリンゴジュース割りを薄くした感じだった。
アルコール分も低くリンゴ風味もほのかで髭面ドイツ人が何杯もお替わりする理由が頷けた。
酒に目のないドルジとナーランが座り込んでテーブルの白人達と話し始め、なんだか和やかな雰囲気のうちに自分も輪の中に加えられたしまった。
まず髭面ドイツ人が自己紹介をし、そして昼間熱心にノートに向かっていた若いカナダ人の娘が続いた。
自分がフロームジャパンと自己紹介するとオーストラリアから来た母子二人連れの息子が「何故にそんなもこもこのダウンパンツを履いているの?」とストレートに尋ねて来た。
オーストラリア少年は自分がダウンパンツを履く温度の中で半袖のTシャツ一枚でいた。
寒がりだと言うのもなんなので「ズボンを洗濯しちまったからさ」と答えておいた。
すると母親の方が「あなた、頭にタオルを巻いていた人てしょう?」と言った。
自分は何処かでこの親子に出会っていたらしく、彼女らは自分を覚えていた。
その後アップルワインは二本目になり、酔っぱらったナーランがトランプの手品などをやって場は盛り上がった。
とくにカナダ人の娘は種明かしをせがんでは自分の物にしようと真剣だった。
ナーランの英語って本場の人にも通じるんだ、凄いな、と見直した。
ドルジと自分のインチキ英語は控えめにして、もっぱらオーストラリア少年にアップルワインを呑ませる事に専念した。
程なくして少年が酔いつぶれてその夜のパーティーはお開きになった。
久しぶりに酔っぱらって午後8時就寝。