この嬉しさは何処から来るのでありましょうか? と、振っといて、状況説明に入ります。
数日前、同級生の友人からUSBに入れた歌を貰った訳です・・・カバー曲で、柴田淳が唄っている物でありました。
おっさん、柴田淳には少し込み入った思い出があって封印している歌手な訳ですが、まっ、そろそろ魔力も解けて居るんじゃないかと言う事で訊いちまった訳です。
で、記憶の中で一番生々しいのは匂いだと思うんですが、つぎは、音楽と言いますか、歌じゃないかと思う訳です。
と、言う事で、そう言う歌を聴いちまうとそう言う事を即座に思い出しちまう訳です。
しかも、歌につられた思い出し方、歌によって蘇った記憶と言うのは時間の壁を簡単に乗り越えちまっている訳で、リアリティー満点、てんこ盛りの大盛りで蘇っちまう訳です。
そんな訳で、柴田淳の歌を楽しんで、こう言うつまんない物をボソッと持って来てくれる友人にはおっさんも態度で示しを着けなくちゃなるまい名、と思い、返してやるUSBにおっさんなりの「懐かしの日本のニューミュージックと演歌」の詰め合わせセットを作って入れてやった訳です。
そしたら、昨晩・・・いい加減寝静まってる頃にメールがありまして、詰め合わせセットがとても良かった・・・特に、堺正明の「街の灯り」が良かったとの事でありました。
で、小さな喜びと言うのは・・・彼が喜んでくれたのが嬉しい、と言う事であります。
おっさん、一身上の都合により、他人様が喜ぶ様な事は意識しては絶対にしない、と言うのが身上な訳でして、「ああすればこうなる」的な行為を偽善と称して忌み嫌っている訳であります。
まっ、その方向で脱線してみますと・・・やるんなら自分の命と引き換えで最後までやれよな、と言うのが身上なんで、そこまで思い入れを強くして人の喜びを引き出そうと言う経験は未だ無いので生きていられる訳です。
要するに、この命と引き換えでも好しと思える事態に遭遇していない、と言う事な訳です。
ナンと申しましょうか・・・「こうしてみるけどどうなるかわからない」とでも申しましょうか、そう言う感じで他人の人生に踏み込もうと言う事態に遭遇していないと言う事であります・・・解り難いですか?
要するに、まっ、仏教的に言う所の「喜捨」の心を考えますと、相手の喜びは自分の喜びと言う事で、誰かに差し伸べた手は結局の所自分を掴んでいると言いますか、誰かを抱きしめた腕は、自分を抱いているのだと言う事になると思う訳であります。
いや、そこまで難しく勘違いしなくても良いんじゃないか?と言うのも解りますけれども、しかし、人には人の考え方と言うのがある訳でして、やっぱし、社会的風潮や流れなどを見るに付け、ナンでこうなっているんだろうか?と、常に疑問から入っちまうおっさんなんかだと、そう簡単には迎合と言いますか、感化と言いますか・・・まっ、社会には騙されないぞ、と、構えちまう訳であります。
しかし、不覚にも、何も意図しない所から出た、言わば悪戯心の所業がものの見事に「喜捨」を思い知らせてくれちまった訳で・・・恐るべし仏陀よ・・・お前様はやっぱし、ただ者じゃないよなぁ~、と、思っちまったと言う事であります。
しかし・・・USBに詰め込む曲を選んでいる時に、奴の好きそうな曲を拾い上げ、そして、例えば、八代亜紀の「舟歌」のあとにブレッド&バターの「あの頃のまま」を入れたら、なんて思うだろうなぁ~・・・野郎わざとやりやがったな、と、思うんだろうなぁ~・・・と、意識していたのは否めない訳であります。
と、言う事は・・・もう確実に彼が喜ぶなり驚くなり笑い転げるなりの反応を期待していた訳で「無色」の行為ではなかった訳であります。
ああ、おっさんはなんて罪な事をしてしまったのか? 野郎が喜ぶであろう事を見越して自分の喜びを呼び起こすなどは悪魔の所業・・・「喜捨」になって無いじゃないか・・・なんて然もしい心根なんだ・・・と、深く落ち込む訳であります。
まっ、そこ迄書くと嘘になっちまいますんでアレなんですけれども、要するに、「無償」とか「無意識」って、現実にはあり得ないんじゃないか?
結果的に自分の喜びになると言う以前に、手を差し伸べようと言う気持ちが起きた時点で、既に自分は何らかの形で喜びが約束されちまって居るんじゃないか?と、思う訳です。
と、言う事は・・・凡夫には「喜捨」は出来ない訳であります。
なので、おっさんは、社会が認める良い事は一切関わらないと決めているんですけれども・・・これは、詭弁としては割と上出来だと思うんですけど・・・ダメですか?
数日前、同級生の友人からUSBに入れた歌を貰った訳です・・・カバー曲で、柴田淳が唄っている物でありました。
おっさん、柴田淳には少し込み入った思い出があって封印している歌手な訳ですが、まっ、そろそろ魔力も解けて居るんじゃないかと言う事で訊いちまった訳です。
で、記憶の中で一番生々しいのは匂いだと思うんですが、つぎは、音楽と言いますか、歌じゃないかと思う訳です。
と、言う事で、そう言う歌を聴いちまうとそう言う事を即座に思い出しちまう訳です。
しかも、歌につられた思い出し方、歌によって蘇った記憶と言うのは時間の壁を簡単に乗り越えちまっている訳で、リアリティー満点、てんこ盛りの大盛りで蘇っちまう訳です。
そんな訳で、柴田淳の歌を楽しんで、こう言うつまんない物をボソッと持って来てくれる友人にはおっさんも態度で示しを着けなくちゃなるまい名、と思い、返してやるUSBにおっさんなりの「懐かしの日本のニューミュージックと演歌」の詰め合わせセットを作って入れてやった訳です。
そしたら、昨晩・・・いい加減寝静まってる頃にメールがありまして、詰め合わせセットがとても良かった・・・特に、堺正明の「街の灯り」が良かったとの事でありました。
で、小さな喜びと言うのは・・・彼が喜んでくれたのが嬉しい、と言う事であります。
おっさん、一身上の都合により、他人様が喜ぶ様な事は意識しては絶対にしない、と言うのが身上な訳でして、「ああすればこうなる」的な行為を偽善と称して忌み嫌っている訳であります。
まっ、その方向で脱線してみますと・・・やるんなら自分の命と引き換えで最後までやれよな、と言うのが身上なんで、そこまで思い入れを強くして人の喜びを引き出そうと言う経験は未だ無いので生きていられる訳です。
要するに、この命と引き換えでも好しと思える事態に遭遇していない、と言う事な訳です。
ナンと申しましょうか・・・「こうしてみるけどどうなるかわからない」とでも申しましょうか、そう言う感じで他人の人生に踏み込もうと言う事態に遭遇していないと言う事であります・・・解り難いですか?
要するに、まっ、仏教的に言う所の「喜捨」の心を考えますと、相手の喜びは自分の喜びと言う事で、誰かに差し伸べた手は結局の所自分を掴んでいると言いますか、誰かを抱きしめた腕は、自分を抱いているのだと言う事になると思う訳であります。
いや、そこまで難しく勘違いしなくても良いんじゃないか?と言うのも解りますけれども、しかし、人には人の考え方と言うのがある訳でして、やっぱし、社会的風潮や流れなどを見るに付け、ナンでこうなっているんだろうか?と、常に疑問から入っちまうおっさんなんかだと、そう簡単には迎合と言いますか、感化と言いますか・・・まっ、社会には騙されないぞ、と、構えちまう訳であります。
しかし、不覚にも、何も意図しない所から出た、言わば悪戯心の所業がものの見事に「喜捨」を思い知らせてくれちまった訳で・・・恐るべし仏陀よ・・・お前様はやっぱし、ただ者じゃないよなぁ~、と、思っちまったと言う事であります。
しかし・・・USBに詰め込む曲を選んでいる時に、奴の好きそうな曲を拾い上げ、そして、例えば、八代亜紀の「舟歌」のあとにブレッド&バターの「あの頃のまま」を入れたら、なんて思うだろうなぁ~・・・野郎わざとやりやがったな、と、思うんだろうなぁ~・・・と、意識していたのは否めない訳であります。
と、言う事は・・・もう確実に彼が喜ぶなり驚くなり笑い転げるなりの反応を期待していた訳で「無色」の行為ではなかった訳であります。
ああ、おっさんはなんて罪な事をしてしまったのか? 野郎が喜ぶであろう事を見越して自分の喜びを呼び起こすなどは悪魔の所業・・・「喜捨」になって無いじゃないか・・・なんて然もしい心根なんだ・・・と、深く落ち込む訳であります。
まっ、そこ迄書くと嘘になっちまいますんでアレなんですけれども、要するに、「無償」とか「無意識」って、現実にはあり得ないんじゃないか?
結果的に自分の喜びになると言う以前に、手を差し伸べようと言う気持ちが起きた時点で、既に自分は何らかの形で喜びが約束されちまって居るんじゃないか?と、思う訳です。
と、言う事は・・・凡夫には「喜捨」は出来ない訳であります。
なので、おっさんは、社会が認める良い事は一切関わらないと決めているんですけれども・・・これは、詭弁としては割と上出来だと思うんですけど・・・ダメですか?