このゆびと~まれ!

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京都を聚楽第を中心とする城下町に変貌される

2024年05月23日 | 歴史
⑯今回は「作家・津本陽さん」によるシリーズで、豊臣秀吉についてお伝えします。
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このとき強制移転をさせられた寺院は、浄土、法華、時宗の三派のものがほとんどであった。
この三派は町衆とのつながりが深く、秀吉は京都支配を完全たらしめるには、両者の連繋(れんけい)を弱体化させねばならないと見ていた。

寺町につらなる寺院の背後には、お土居(どい)が南北につづいている。寺院は京都東部の防御機構となったわけである。

イエズス会司祭ルイス・フロイスは、天正二十年(一五九二)年十月一日、本国への書信につぎのように記している。 「この年、関白殿は、京都でいままでに例のない事をおこなった。都の全体を大きな溝渠(こうきょ:水を通すように掘ったみぞ)で取りかこんだのである。

このような大工事によって彼の名をのこし、都の状況を彼独特の流儀で一新させようとした。
すなわち、すべての仏僧をその寺院から立ち退かせ、溝渠に沿う一定の地域へ集まり住ませた。

この種の区画整理は、はなはだ困難で、関白のほかには誰もなしうることではない。事は数日のあいだに迅速におこなわれた。

仏僧と信徒の憤懣(ふんまん)はすさまじく、彼らは引きはなされ、はなはだしく打撃をうけた。
僧たちは民衆との交流を断たれ、疫病患者のように隔離され、幾多の宗派がいわゆる一箇所に集められた。

彼らの所得は没収され、寺領から追放されたので、生活の手段もなく、信徒の寄付も途絶え、ふたたび以前のような寺院を建てる望みもなくなった。
そのため、あらたに生計の道をたてる者もあり、扶助もなく窮迫(きゅうはく)するばかりの者もある状況で、京都でのわが宗門キリシタンのためには好都合なことである」

京都では、現代までつぎのようなわらべ唄が伝承されている。
「まる、たけ、えびすにおしおいけ。あね、さん、ろっかく、たこ、にしき。し、あや、ぶっ、たか、まつ、まん、ごじょう」
この唄は京洛を東西に縦貫する道路を、北限の丸太町通から南の五条通までをかぞえたものである。
丸太町、竹屋町、夷川、二条、押小路、御地、姉小路、三条、六角、蛸薬師、錦小路、四条、綾小路、仏光寺、高辻、松原、万寿院、五条の通りが詠みこまれている。

秀吉はわずか半年のうちに、京都市街の様相を一変させた。中核部は武家、公家の屋敷と町屋の三区分が整然とおこなわれ、周辺に寺院が配置される。
その全体がお土居で囲まれ、洛外との通行は、「京の七口」と呼ばれる関門を通じておこなわれることになった。関門は旧来の呼称に従い七口と呼ばれていたが、実際は十ロ以上あった。

秀吉は禁裏(きんり:御所)の位置を変えないまま、聚楽第を中心とする城下町の形成をめざしたのである。

(小説『夢のまた夢』作家・津本陽より抜粋)

---owari---
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