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乞食が一人もいないほど好景気

2024年05月24日 | 歴史
⑰今回は「作家・津本陽さん」によるシリーズで、豊臣秀吉についてお伝えします。
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当時、日本の人口は四千万人に接近していたといわれる。日本の数十倍の国土を有している明国の人口が六千七十万人といわれていたのを考えると、おどろくばかりの稠密(ちゅうみつ:こみあっていること)な人口であったわけである。

「信長公記」を著した信長お弓衆・太田牛一がのちに秀吉に仕え、「太閤さま軍記のうち」を著すが、そのなかに、秀吉在世中の日本が政治経済の大発展期に遭遇(そうぐう)していたと記すくだりがある。

「太閤秀吉公御出世よりこのかた、日本国々に金銀山野にわきいで、そのうえ高麗、琉球、南蛮の綾羅錦繍(りょうらきんしゅう:上質の素材を用い、刺繍を数多く施した美しい衣服)、金襴(きんらん)、錦紗(きんしゃ)、ありとあらゆる唐土(もろこし:中国を言う古い呼称)、天竺(てんじく:インドの旧名)の名物、われもわれもと珍奇のその数をつくし、上覧にそなえてまつり、まことに宝の山に似たり」

太田牛一は武人であるので、秀吉右筆の大村由己(ゆうこ:学者・著述家)のように舞文曲筆(ぶぶんきょくひつ:文章をことさらに飾り事実をまげて書くこと)を用いず、儒教道徳観念に左右されていないので、当時の事情を客観的に把握しているといわれる。

彼は民間の大好況について記す。
「むかしは黄金を稀にも拝見申すことこれなし。当時はいかなる田夫野人(でんぶやじん:粗野な者のこと)に至るまで金銀沢山に持ちあつかわずということなし」

「太閤秀吉公御出世よりこのかた、日本国々に金銀美もっぱらにましまし候ゆえ、路頭に乞食ひとりもこれなし。ここをもって君の善悪は知られたり。御威光ありがたき御世なり」
全国どこにも乞食が見あたらないというのは、非常な好景気に湧きたっていた事実を裏書きするものといえよう。

室町期の通貨は明銭と砂金であったが、信長は天正大判を、秀吉は大判、小判を鋳造した。金貨をこしらえるだけの財力がととのっていたのである。
秀吉は現代の六、七千万円に相当する小判を常に小姓に持たせ、諸人への心付けとして使っていた。

文禄期(1592年から1596年までの期間を指す)は建設ブームの時代であった。秀吉はじめ諸大名が築城、居館造営など大建築工事をあいついでおこない、農民に夫役(ぶやく:強制的に課する労役)を命じた。

このため、農民は労賃を得て豊かな生活ができ、乞食をする者などはいなくなった。暮らしむきに余裕ができると子供がふえ、人口は増加の一途を辿っていった。

当時の武士階級は財力をそなえていた。商人の規模も後世にくらべると桁はずれに巨大である。
元禄期の豪商川村瑞賢、奈良屋茂左衛門、紀伊国屋文左衛門、淀屋辰五郎などが巨万の富を築いたというが、文禄期の博多商人の足もとにも及ばない規模にすぎなかったといわれる。

日本の金銀が海外へ流出し、国力が衰えてくるのは寛永期(1624年から1643年)になってのちのことである。

秀吉は有りあまる国富をもって隣邦(りんぽう:となりの国家)と共栄をはかるべきであったのに、戦乱をひきおこしたのはあきらかな過誤であった。

大航海時代を出現させたスペイン、ポルトガルが「地獄の使徒」といわれるほどに残忍な所業をあえてして、未開大陸の掠奪(りゃくだつ)をおこなってはいたが、日本はなぜ同文同種(どうぶんどうしゅ)の朝鮮、明国とあいたずさえ、あらたな未来を拓こうとしなかったのか。
時代の趨勢(すうせい)であったとはいえ、戦国の蛮風(ばんぷう:粗野な風習)が悔(く)やまれてならない。

(小説『夢のまた夢』作家・津本陽より抜粋)

---owari---
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