⑨今回のシリーズは、豊臣政権の五大老の一人、加賀藩主・前田利家についてお伝えします。
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利家に見られる一人の人間のこうした変化は、そう珍しいことではないだろう。昔の手に負えないやんちゃ坊主が、何十年ぶりかに再会してみると温厚な商店主や町の世話役などに変身していることは、誰しも経験していることである。
私は利家の変化について言えば、むしろこれから述べることのほうに、驚きを感じざるをえない。
一つは利家が晩年、儒者藤原惺窩(せいか)の門に学び、この時期の武将には珍しく漢籍(かんせき)が読めたことであり、さらにもっと驚くべきことは、かれの槍檀(やりだん)のなかにいつも算盤(そろばん)が入れられていたということである。
加藤清正が関が原の戦いのあと、かつて利家から、「*以って六尺の孤を託(たく)すべし、以って百里の命を寄すべし」という『論語』(泰伯篇)の一節を聞かされたが、当時は無学でその意味がよくわからなかった、しかし今となってはよくわかる、と述懐したという話が伝わっている。利家自身、ある時期から書物を読みはじめ、一方、戦場にあっては常にお金のかかりをしっかり考えていたのである。
私は、講演などでこれまでに何度となく北陸金沢の街を訪れる機会をもった。いまや街の大きさでいえば、東京、大阪、京都という江戸期の三都はおろか、仙台、福岡、広島などに比べても、人口は半分に満たないほどである。
だが、それら外様雄藩(とざまゆうはん:特に経済力の大きい外様の藩)と呼ばれた諸大名の城下町が、甚大な戦災の被害を受けたということがあるにしても、いずれも小型東京にすぎず、金沢の街としての風格は一頭地を抜いている。文化の奥深さが違う。
地元の新聞社の人に聞くと「藩政以来という老舗がまだ数多くあります。ただ長い歴史のなかで、暖簾(のれん)こそ昔のままで出ていますが、経営者はずいぶん代わっているようです」という話だが、それにしても加賀友禅、金沢漆器、金箔、木工、焼き物、和菓子など伝統工芸の老舗やそれを担う人たちの多さは、京都に次ぐ厚みをもつ。私の家にも陶器や漆器など、金沢で買ってきたものが少なくない。江戸時代、京都は日本最大の産業都市であったが、金沢もまたその意味で、相当の産業都市であった。
利家より五代、綱紀(つなのり)の時代に加賀は「天下の書府(今でいう図書館)」といわれ、江戸、京都と並ぶ学問の中心となり、当時の碩学(せきがく:大学者)である木下順庵、室鳩巣(むろきゅうそう)などが、加賀藩に仕えた。そうしたことも、金沢の街としての風格を形づくる大きな要因となったことは間違いない。金沢の裏町を歩くと、いまでも加賀宝生(かがほうしょう:石川県の伝統芸能である宝生流の能楽のこと)の謡(うたい)が家々から聞こえてくるという。
戦国の余韻が色濃く残る豊臣時代にあって、かつて「槍の又左」と呼ばれた荒くれ男は、軍事偏重の戦国大名の枠組みから抜け出し、「書」と「算盤」、即ち「文化」と「経済」に着目した領国統治に力を注ぐ近世大名へと大きく一歩を踏み出していたのである。
利家の遺言状には「武道ばかりを本とすることあるまじく候」という一言が入れられている。かれが本拠とした金沢の街が、いまだに文化都市として、日本の諸都市の中で異彩を放っているのは、けだし当然かもしれない。
(小説『前田利家・上』作家・津本陽より抜粋)
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「*以って六尺の孤を託(たく)すべし、以って百里の命を寄すべし」
(現代語訳)
「小さなみなし児を預けても安心できる、諸侯の国の政治を任せても心配はいらない、重大な局面に立っても毅然としている。(そういう人物こそ、君子といえるのだ、と曾子はいった)」
”六尺の孤”とは、幼い孤児のこと、昔は一尺は今の八寸程度という。孤とは親のいない子供。
周代のころ、諸侯の国は百里四方だった。
”六尺の孤”とは、幼い孤児のこと、昔は一尺は今の八寸程度という。孤とは親のいない子供。
周代のころ、諸侯の国は百里四方だった。
---owari---
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