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燦爛(さんらん)な大阪城・聚楽第の築城は約百万両の金銀収入で可能に

2024年05月22日 | 歴史
⑮今回は「作家・津本陽さん」によるシリーズで、豊臣秀吉についてお伝えします。
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桑田忠親(くわたただちか:歴史学者)によると、秀吉時代の大坂城の壮観は、このように、文献によって知るほかはないが、徳川氏によって建て直された江戸初期の大坂城のありさまは、黒田家所蔵の「大坂陣屏風絵」(俗に黒田屏風)、東京国立博物館所蔵の「大坂陣屏風絵」などで、うかがうことができるという。

″普請狂い″といわれた秀吉が手がけた大坂城、聚楽第(大坂築城を開始後の四年目に、京都の内野に敷地をえらんでつくった大邸宅ではあるが、外観は、城郭を構成しているので、別名を聚楽城といった)、さらに建築途上にある伏見城などは、絢爛(けんらん)、華麗(かれい)というような表現では形容できないものであったとは美術家の言である。

これらの黄金時代の産物を表現するには、わずかに燦爛(さんらん)という形容が適当だというのである。

秀吉は日本の黄金期の頂点にいた。文禄・慶長期の豊臣政権の直轄蔵入地(くらいれじ)(幕府の直轄地)は二百二十万石だ。また全国金山からの運上金三万四千余両、銀山からの運上銀八十余万両。金山の後藤、銀山の大黒常是(だいこくじょうぜ:江戸時代前期の銀貨鋳造師)からの運上金銀、堺の地子銀、琵琶湖船役料をあわせ、金一万両、銀十四万両の運上収入が毎年あった。

金銀収入が約百万両であるからすさまじい金額である。
このような経済的な収入によって築城が可能であった。

(小説『秀吉私記』作家・津本陽より抜粋)

---owari---
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