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非理法権天(ひりほうけんてん)とは?

2016年03月01日 | 日記

かなり昔の話で申し訳ありません。

私が学生の頃、両親の勧めにより、とある団体の夏季講習に参加しました。

学生20人ぐらいが1班で構成され、学習をしながら、2週間の寮生活を過ごしました。

 

班のなかでリーダーを決めることになり、年長の私が選ばれました。

特にリーダーだからといって大した仕事はなく、朝礼の号令や教室へ向かう歩行整理などが主なものでした。

 

リーダーの役目は楽勝と思っていたのですが、最後になって、全学生2000人ぐらいの前で10分間スピーチをしなさいということになり、慌てました。

 

そのような経験はなく、テーマも自分で考えて話しなさいということで少し困りました。何を話すべきか悩んだのですが、私の学校で歴史の先生に教えてもらった「非理法権天」について、話をすることにしました。

 

この歴史の先生のあだ名は「ピテカントロプス(ジャワ原人)」で、歩いているときに横から見れば原人が歩いているようなお姿だったので、そのように呼んでいました。今、考えると大変失礼なお話しですが、当時は愛着も込めてそのように呼ばせてもらいました。

 

その先生は、「僕の授業の勉強はどうせ将来は忘れるのだから、忘れないお話を二つします」と言って、教えていただいたのがこの「非理法権天」というお話でした。

 

もう一つのお話は、清水次郎長は三度、結婚しているが、妻の名前は「お蝶」でまったく変わっていない。再婚した時に、妻が改名した(たぶん次郎長の要請による)ものです。それで、先生は映画やテレビで次郎長の妻が出てくるが、何代目のお蝶か分からないと嘆いておられました。

確かに、勉強の話は忘れても、この話は忘れなかったようです。

 

話を戻しますが、この「非理法権天」という言葉は以下のような意味があります。

「非理法権天」とは、かつての日本の法観念を表す格言です。

 

『非は理に勝たず、理は法に勝たず、法は権に勝たず、権は天に勝たず』 

(人事は、つまるところ天の命のままに動くもの、天を欺く事は出来ない) 「広辞苑」

 

「人間としてなすべきことは天命に従って行動すべきであり、天を欺くことはできない」という教えです。

すなわち、天はすべてを超越するものであるということなのです。

 

儒教の力が現在よりも強かった江戸時代においては権力者が作った決まりはおよそ人の持つ道理よりも勝るという考えを持つものが多かった。この言葉は当時の世相をよく表している。

 

江戸時代の『貞丈家訓』(伊勢貞丈)という文献には、この言葉の解釈が以下のように記載しています。

伊勢貞丈は江戸時代中期の旗本(幕臣)で伊勢流有職故実研究家でもある。元々は室町幕府政所執事の家柄であり礼法に精通しています。

 

「非」とは、「道理の通らぬこと」を指し、

「理」とは、「道徳的規範」を指し、

「法」とは、「明文化された法令」を指し、

「権」とは、「権力者の威光」を指し、

「天」とは、「全てを超越した天の意思」」を指すとのことです。

 

この言葉の概念は、儒教の影響を受け、権力者が法令を定め、その法令は道理にも勝るとの価値観を有しています。

 

この話をしました翌日に一人の男子学生が私を尋ねて来られました。

昨日のスピーチ「非理法権天」で分からないことがあるので、教えてほしいということでした。

私は軽い気持ちで苦戦しながら、スピーチしたにもかかわらず、真剣に聞いていただいたことに驚きました。わかる範囲で真剣に説明させて頂いたことを覚えています。

 

「非理法権天」という格言はかつての日本の法観念を表すものだと思うのですが、「法」よりも上に「権」があることに、違和感がありました。現在の日本は法治国家なので、権力に屈しない法が当然必要であります。

 

この「非理法権天」に「権」は不要であると思うのですが、いかがでしょうか。

 

---owari---

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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
初めまして。 (自称マクロビ)
2016-03-01 17:43:26
こんにちは。
「非理法権天」、勉強になりました。
有難うございます。

「権」についてですが、
何か、国に一大事と言うか、国難に出くわした時、この「権」が「法」を越えるのでは
と考えます。

別の言い方ですと、
国難に遭遇した時、ドエライおっさんが現れて、「オレに任せろ」的に一時的に
国防の責任者になると。
その後、国難にが去った時は、また、普通ののおっさんに戻る、的な感じでしょうか?

直感的に思ったので、正しくないと思いますが!

今後とも、宜しくお願い致します。
返信する
Unknown (このゆびと〜まれ!)
2016-03-01 18:22:06
マクロビさんへ

こんにちは。

コメント、ありがとうございました。

ご指摘のように、国の一大事が起きたとき、「法」では対応できない場合は、「権」で対応する必要がありますね。そのような視点が大切ですね。

「法」はすべてを網羅しているわけではないので、非常事態になれば、「権」が必要ですね。

叶ならば、「天」を欺くことのない「権」が望ましいですね。

ありがとうございました。
返信する
まぁ邪推です (くらぶなび)
2019-06-22 16:41:46
もしかしたら
提唱者は「権」の役割に批判的だったかもしれません。
そこであえて,権を参列させて後世の方々に宿題を与えたと考えれば,我々の理性がまさに試されているということになります。
実際に現代に置いて権益や利権のはびこる社会がまかり通っていることを,当時において予測したものかもしれない。
歴史変動の折に「権」が備わっていいなかったことがありませんよね。「権」に批判的であるという持論を示すために,将来を生きる我々が試されていると考えれば,蔓延であってはならないと戒めるところです。
返信する
こんにちは (このゆびとまれ!です)
2019-06-24 15:12:14
くらぶなびさんへ

ブログの最後に書きました「この『非理法権天』に『権』は不要であると思うのですが、いかがでしょうか」の問いかけに返信をくださいまして、誠に有難うございます。

仰せのとおり、「提唱者は『権』の役割に批判的だったかもしれません。そこであえて,権を参列させて後世の方々に宿題を与えたと考えれば,我々の理性がまさに試されている」というご見解は明快ですね。

また、「歴史変動の折に『権』が備わっていいなかったことがありませんよね」と仰いましたが、そのとおりです。したがって、『権』は不要であるとは現実的な話ではないですね。
悪い権力はいけませんが、善い権力や正義の権力ならば肯定できるのではないでしょうか。
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