このゆびと~まれ!

「日々の暮らしの中から感動や発見を伝えたい」

桶狭間の合戦、信長の強運とは?

2017年12月17日 | 歴史

戦国時代の申し子、織田信長が世に出るきっかけともなった戦いが、東海の雄、今川義元を打ち破った桶狭間の合戦(15605月)である。この合戦の勝敗を分けたのは意外にも、わずか十数分間の豪雨であった。

 

今川義元は駿河を中心に遠江(とおとうみ)・三河を治める大大名。この時42歳の男盛り。後世、あまりにあっけなく信長に敗れたため凡将のレッテルをはられたが、実像は情けに厚く、文武に秀でた文字通り「海道(東海道のこと)一の弓取り」であった。

 

第一、凡将であれば当時今川の領地に隣接する武田信玄や北条氏康などの名だたる戦国大名と対等に渡り合うことは不可能である。

 

この年の512日、天下制覇の野望を胸に上洛を決意した義元は、25千の兵を率いて西へ進軍した。

 

一方の信長はと言えば、この時27歳。ようやく尾張一国を統一したばかりの新興大名。動員できる兵力はせいぜい2千~3千。兵力・財力・実績と、いずれを比較しても信長には到底太刀打ちできる相手ではなかった。

 

戦前は、信長は戦わずして降伏するだろうと見られていた。義元にすれば、そこに油断が生じたとしても無理からぬことであったろう。ところが、この窮鼠は、敢然と牙をむいて大猫に立ち向かったのである。

 

19日午前2時ごろ、立ったまま湯漬けをかき込んだ信長は、「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり・・・・・」という謡曲『敦盛』を謡いかつ舞った後、清須城を出発した。正午過ぎ、中島砦に向って進軍する信長に、放っていた物見の兵から、義元本陣が桶狭間に休憩したとの一報がもたらされた。

 

中島砦から桶狭間まではわずか3キロ足らずの距離。大軍と言えども隘路(あいろ)で伸び切った義元本陣を衝くのはこの時と、信長は必死にいさめる重臣らの意見を退け、進軍を再開した。

 

折も折、激しい雨が降り出し、織田軍にとっては格好の目隠しとなった。昼食のため駐屯していた今川軍は、まさか敵が目前に迫っているとも知らず、突然の豪雨にあわてて木の下などに隠れ、これがため陣形は大きく乱れてしまう。

 

『三河物語』に、「車軸の雨」と形容されたほどの豪雨が、信長と義元の運命を左右することになった。桶狭間の山上から今川軍の混乱ぶりを眺めていた信長は、雨がやんだのを合図に突撃を開始した。

 

織田軍の長槍部隊が、長槍の穂先を並べて突撃し、敵を追い立てていく。不意を衝かれる形になった義元本陣は、為すすべもなく壊滅したのである。

 

もしもこの時、曇りか小雨であったなら、百戦錬磨の義元のこと、天気の急変を想定して地形的に不利な場所での休憩を取ることはなかったであろう。ところが、当日は「連日の日照りに加え、目も眩むばかりの暑さ・・・・」と記録されるほどの快晴であった。

 

勝敗を分けたのは、わずか十数分間の豪雨で文字通り通り雨だった。義元こそは歴史の気まぐれに翻弄された武将と言えよう。

 

一方、強運にも勝利をおさめた信長は、これを機に天下への道を邁進していくことになるのである。

 

この戦いでは、信長の知略にも焦点をあてなければならない。信長は多くの諜者を敵地へ送り込み、情報集めに全力をそそいだ。最新の情報をつかみ、敵軍の動きを徹底的に洗い出し、地の利がある場所・桶狭間で戦いに持ち込んだのだ。信長の高度な情報戦の賜物という側面も見逃がしてはならない。

 

それにしても、後世の私たちから見れば、ある意味天下分け目の戦いであったこの合戦、天上界では信長に軍配を挙げたのでした。

 

---owari---

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ロシアから見た日本(後編) | トップ | 無敵を誇った織田軍、その強... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

歴史」カテゴリの最新記事