⑳今回は「作家・津本陽さん」によるシリーズで、豊臣秀吉についてお伝えします。
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天正十一年(一五八三)正月、秀吉は山崎宝寺城で鶏鳴(けいめい)とともに起きた。彼は四十八歳の春を迎えた。
宝寺城の内外は、前年夏の合戦で敵味方の命が多く失われ、付近の山野には行く先をわきまえぬ怨霊(おんりょう)がさまよっているかと思える、荒涼とした気配がただよっていたが、秀吉は物の怪をおそれない。
彼は主殿の奥まった辺りの寝所で、絹の肌着に側女とともに伏し、熱寝をむさぼってめざめる。
「さあ、今年は何かとせわしいだわ」
女性の柔肌を抱きつつ、格天井(ごうてんじょう)の柱のぐらい辺りに眼をあそばせる秀吉の表情は、無数の軍兵たちの生血のにおいに馴れてきた、峻厳な武将のものであった。
彼は湯風呂を浴び、髪をくしけずったのち、金紋の小袖に縫箔(ぬいはく:刺繍(ししゅう)と金銀の箔で模様を表わしたキモノ形の能装束のこと)の肩衣の派手ないでたちで大広間に出て、群臣、近国大小名の年賀をうけ、時はあわただしく過ぎた。
秀吉は拝謁(はいえつ)に出向いた侍衆に、親愛の情をつくして応対する。彼は一度会い、言葉をかわした相手であれば、姓名、経歴をくわしく覚えていた。
それはなかば人心収攬(しゅうらん)の努力によるものではあるが、彼には天性の記憶力によって、労せず相手の身上をそらんじうる才があった。
「そのほうが父者は、腰痛に悩んでおったが、近頃の様子はいかがでや。なに、本復(病気が完全になおる)いたせしか、それは重畳(ちょうじょう:この上なく満足なこと)」
「おのしが乙姫は、幾つになったかのん。はや、十三か。そろそろ婿を探さねばなるまあが、儂にまかせておけ」
元旦は諸侍、公家、寺社の僧、商工を業とする町衆たちに会い、終日を過ごした。
京都の町衆たちの、秀吉の評判は上々であった。
「筑前さまは、信長さまとはちごうて、諸事気兼ねいらずでありがたい」
「ほんまにそうや。大路を馬で打ち過ぎながら、行きあう男や女子に、気やすうお声をかけなさるが、あげなことをなさるるお大名は、ほかにはおらへんどつせ」
彼らはいぬ信長に拝謁するときは土下座して、地面に額をすりつけ、顔もあげられず、ただ声と衣摺(きずり)を聞くのみであったが、秀吉とは畳のうえで言葉を交すことさえできた。
秀吉は町衆たちの話におもしろげに耳をかたむけ、同輩のような威張らないロをきく。しかも気前よく引出物をくれた。
(小説『夢のまた夢』作家・津本陽より抜粋)
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