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無敵を誇った織田軍、その強さの秘密は?

2017年12月19日 | 歴史

戦国史研究家の小和田哲男・静岡大学教授は『戦国合戦大全』という本のなかで織田信長のことをこう評価している。

 

「戦国武将に限らず、歴史に名を残す人物は他人より優れた資質とか才能を持っていた。しかし、それもせいぜい一つか二つといった程度。ところが信長は独創性、進歩性、国際性、先見性、決断力、統率力などなど超人的な資質の持ち主であり、文字通り『天才』という言葉があてはまる人物」

 

魔王と恐れられ、全国統一につき進んでいた信長が、「本能寺の変」で倒れたのは、15826月、49歳の時であった。神仏を認めず、自らを神体と称したのは、独裁者となることでそれまでの古い価値観を打破し、新たに強力な統一国家を築くという革命思想を持っていたことがうかがえる。

 

尾張の一大名から実質的には天下人にまで駆け上った信長の成功の要因とは一体何だろう。華々しい合戦の話は様々に伝えられているが、ここでは意外に知られていない、ある革新的な政策について触れてみたい。

 

それは、わが国で初めて専業兵士による常備軍団を創設したことだ。当時の兵士は半農半兵で、米作りをしながらその合間に戦に出るというパターンが普通だった。実際、信長以前の合戦記録を見ると、その大半が農閑期に行われていたことが分かる。

 

信長はこんなどっちつかずでは天下統一などおぼつかないと考え、領地内に分散して住んでいた兵士を農地から引き離し、清州などの城下に移住させることにした。

 

当時、土地を捨てなければならない兵士たちの抵抗は強かったが、城下に集中させたことで命令系統がスムーズになり、軍団としての機動性は大幅に高まった。

 

常備軍団を保有したためいつでも戦え、遠征しての城攻めも執拗に仕掛けられるようになった。時には負けることがあっても、敵が農作業に戻ったスキを見計らって村を焼き、農作物を奪ったのである。けっして強兵とは言えないが、この粘り強さが織田軍団の真骨頂であった。

 

信長はこうした戦い方で8年をかけて美濃を攻略した。本願寺を攻めた「石山の合戦」に至っては11年もかけた。「石山の合戦」では本願寺に味方する毛利軍や上杉軍が離れていき、孤立するのを待ってからおもむろに攻略に乗り出している。まさに、万全を期した戦いぶりであった。

 

この粘り強さはもちろん信長の性格に起因している。「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」で知られるように、信長といえば短気な気性ばかり取り沙汰されるが、実際は粘り強い一面も持ち合わせていた。唯一恐れた武田信玄に対し、信玄の生前はご機嫌を取るための貢ぎ物を欠かさなかったことなどその典型だ。

 

また、ときには25年も前にあった部下の落ち度を思い出してなじることもあったという。この粘り強さ、執念深さが災いして、「本能寺の変」という非業の最期を自ら招いたと言えなくもない。

 

ともあれ、信長のこの画期的な「兵農分離政策」はやがて豊臣秀吉の農民から武器を取り上げる「刀狩り令」に受け継がれ、その後の身分制社会の確立へとつながっていくわけです。

 

信長は日本の歴史に大きく痕跡を残した天才的な戦国武将だったと言えるのです。

 

---owari---

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