ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

いつのまにか少女は

2020-11-13 12:26:39 | 日記
私が週に1度通っているリハビリ型デイサには、若い女の子のトレーナーがいる。今年の4月にこの職に就いたばかりだが、半年が過ぎ、はじめはぎごちなかった彼女の受け応えも、だいぶ板に付いてきたように見える。

けれども、私に一つ気がかりなことがある。彼女がマスクを外して、自分の素顔を見せようとしないことである。コロナ感染を気遣ってのことではない。彼女の言動から、それははっきりしている。では、一体どういうことなのか・・・。

デイサから帰ってきたきのうの夜、ウィスキーのグラスを傾けながら、私はふと『老子』の一節を思い起こした。

「天下皆知美之爲美。斯惡已。皆知善之爲善。斯不善已。」
(書き下し文:
「天下みな美の美たるを知る。これ悪なり。みな善の善たるを知る。これ不善なり。」
現代語訳(意訳):
「世上の人々が美しいものを美しいと認めるとき,そこには,醜さ(の認知)が生じてくる。 世上の人々が善なるものを善だと認めるとき,そこには,悪(の認知)が生じてくる。」)

この一節の現代語訳(意訳)をひっくり返せば、次のようになる。
「世上の人々が醜いものを醜いと認めるとき、そこには、美しさ(の認知)が働いている。世上の人々が悪なるものを悪だと認めるとき、そこには、善(の認知)が働いている。」

どういうことか。彼女がマスクを外さず、自分の素顔を見せようとしないのは、自分をブスだと思っているからだろう。彼女が自分をブスだと思うのは、彼女が美人女優の顔をイメージするなどして、そこに美しさ(の認知)を働かせているからである。

これと同じことは、戦争と平和についても言える。人が「戦争は悪だ」とみなすのは、彼/彼女が「善い」とみなす平和の状態をイメージし、この善(の認知)を、戦争がもたらす悲惨な状態と対比するからである。現代の日本では「戦争は悪だ」とする認識が実感を伴った形では行き亘らないが、それは、「ああ、平和って、善いものだなあ」という実感が人々の間で希薄であることから来ている。「平和って善いものだなあ」という実感は、戦争の悲惨さを体験して初めて生じるものであり、この意味で、戦争と平和の観念、悪と善の観念は、相互依存的な関係にあると言えるだろう。

これと同じで、美と醜の観念も相互依存的な関係にあると言えるが、インストラクターの彼女の場合、独特なのは、想像の中で美の観念に自分を投げ入れ、つまり、美しくなった自分を想像し、彼女が空想上のカレシと恋の戯れを演じているに違いないことである。

久々のトレーニングで疲れた身体に、ウィスキーを流し込む。酔っぱらった私は、井上陽水の「いつのまにか少女は」を口ずさんでいた。

♪♪いつのまにか青い空がのぞいてる
思いつめた黒い雲は逃げてゆく
君はどこで生まれたの、育ってきたの
君は静かに音もたてずに大人になった
Un un Un un

白い膚が光に触れまぶしそう
髪の色は青い空に浮きたって
燃える夏の太陽はそこまできてる
君は季節が変わるみたいに大人になった

いつのまにか〈愛〉を使うことを知り
知らず知らず〈恋〉と遊ぶ人になる
だけど春の短さを誰も知らない
君の笑顔は悲しいくらい大人になった
Un un Un un un Un un un
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