旅と宝塚と写真好きジジ

現在、過去、未来の旅日記、花や風景写真、宝塚、相撲、ポケモン、ハリポタゲーム等について投稿しています。

祝! 新関脇 若隆景 優勝! TJ

2022-03-28 15:12:57 | 大相撲+その他スポーツ

大相撲春場所(大阪場所)も昨日千秋楽を迎え初優勝の可能性を残した3人が本割で関脇若隆景が大関正大に敗れ、前頭高安も関脇阿炎に敗れ、前頭琴ノ若も小結豊昇龍に敗れる波乱となった。やはり優勝を前にしたら異常な緊張を強いられたのでしょうね。普段と動きや表情が硬いなと感じました。

結果若隆景と高安関の優勝決定戦となり、熱戦の末新関脇若隆景が優勝、今回新関脇で優勝は名横綱双葉山以来86年振りという話題も残し、また震災経験をした福島出身と言う話題にもなった久しぶりに力の入った優勝戦を見た思い。

殊勲賞はなし、敢闘賞は琴ノ若、高安関が、技能賞は若隆景関。

以下十両竜電、幕下金峰山、三段目神崎、序二段虎徹、序の口琴手計関の各力士が優勝されました。

尚大関正代、貴景勝はカド番を脱しました。TJ応援の隆の勝関は何となく元気なく4勝どまりで一気に前頭5枚目に陥落。来場所は気合を入れなおして優勝して???

地元紙の来場所番付予想は

   東         西 

   照ノ富士 横綱

   御嶽海  大関   正代

             貴景勝

   若隆景  関脇   阿炎

   豊昇龍  小結   大栄翔(再)

   逸ノ城  前頭1  高安

   霧馬山    2  琴ノ若

   遠藤     3  玉鷲

   北勝富士   4  阿武勝

   隆の勝    5  翔猿

 

間もなく近くの公園も春爛漫

 

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大相撲春場所9日目を終わって TL

2022-03-22 11:26:03 | 大相撲+その他スポーツ

まん延防止期間がやっと解除されたと思ったら、何やら聞きなれぬ「初の電力ひっ迫警報」なるものが突如発令されました。これもこの前の地震の影響とかで、ちょっとした地震で新幹線同様足腰弱い基幹産業が音を上げるのは何とも心もとないですね。

「大相撲春場所」ももう10日目の中盤にかかり9日目までの勝敗で優勝戦線が見えてきました。前回投稿した日に突如一人横綱の照ノ富士が休場しなんだかてっ辺が消えてしまって残念至極でした。それでも新大関御嶽海に続いて新関脇若隆景が勝ち越しを決め、全勝の高安関と共々優勝を目指す構図が見えてきましたね。

カド番大関の二人、貴景勝は6勝を挙げたが、危ぶまれた正代も気を取り直したのか3連勝して何とか明かりが見え始めた。平幕では混戦模様でしたが、琴ノ若が一歩抜け出して勝ち越しを決めたのは立派。十両では北の若、竜電が8勝、7勝で追うのが王鵬、東龍、翠富士、水戸流と続く。TJ応援の隆の勝関は負け越しでガクッ。

店長さん「大相撲序盤戦&太平洋戦争・集団疎開の記事」にコメント ありがとう。「コメント 興味深い記事 大変な時代をすごされましたね・・・興味深く拝読しました。私は戦後生まれで田舎育ち、大変貧乏でした。百姓をしていない満州帰りの祖父母と両親でしたので・・時々弁当を持参の時には、麦飯(今なら健康食ですが・・)と梅干だった事を覚えています。アルマイト製の弁当箱?? 周りは白飯で・・辛かった事を思い出しますが・・そんなに悲壮感なかった・・白飯を食べたいと言う欲求は有りましたが。とわ言え周りも貧しかったのには変わりがありません・・今の欧州を見ていると虐殺としか言いようがありません。もし終わっても終わらなくても戦争は憎しみの連鎖になると思う・・早く終わる事を祈るばかりです。

小文字で長文の投稿をお読みいただきうれしいです。戦中戦後の生き方過ごし方は各人各様で闇営業の成金さんも出ましたが、今の平和を考えると夢の世界だったようにも思えます。昨今のウクライナ情勢を見ると悲しくなります。ロシアが侵攻理由の一つに「ロシア系住民の虐殺」を挙げていますが国連の場でそれを取り上げて批難していた記憶がありません。無茶ですね。

 

A.Yamadaさん「 コメント  大相撲序盤戦&太平洋が届いた記事」にコメント頂きありがとう。「コメント ジジさんいつも楽しみに訪問させていただいています。 戦争当時のお話興味深く読ませていただきました。 ジジさんの体験談など貴重なお話ありがとうございました。 子供の頃祖父母や両親から当時の話は聞いたことがありますが、まさかあの頃の日本と同じようなことが繰り返されるとは思ってもいませんでした。 本当に一日も早く世界に平和がくることを祈るだけですね。」

本当ですね。まさか今の時期に戦争をロシアのような大国が突然隣国に侵攻して始めるなんて信じられません。ウクライナにロシアの存在を危惧させるような行為があったなら、なぜ国連はじめ、世界へ訴えないで突如攻め込むなんて本当に嫌な国ですね。第二次大戦末期に突如不可侵条約を一方的に破棄して日本へ侵攻したのもロシアでした。兎に角隣国は皆要注意。

 

ベルさん「大相撲序盤戦&太平洋戦争・集団疎開の記事に」コメント下さり(´▽`)アリガト!。「 おはようございます ロシアの侵略みたいな戦争 ボタン一つで核戦争になりかねない時代にこうして本当に戦争が起こってしまうのに驚いてます  第二次大戦母からよく聞かされたのが疎開って言葉 田舎へ疎開してた時のはなし 宇和島の街が空襲で真っ赤になっていたのを見てた  今のウクライナニュースで映る夜の風景はまさに町全体が赤く焼けてる同じことが繰り返されてるんですね 早く終結してくれるといいですね

TJのように経験者でも平和な今起きているウクライナの惨状には目を覆いたくなります。日本も戦争経験者が減り恐ろしい事実を目の当たりに見られるウクライナの惨状を見てショックを受ける方も多いでしょうね。それにしても国連や世界の主要国の無力さを見るにつけ明日は我が身と特に隣国には気を付けましょう。

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大相撲序盤戦&太平洋戦争・集団疎開 TJ

2022-03-18 09:34:53 | 大相撲+その他スポーツ

あっと言う間に5日間が過ぎた大相撲、その間コロナ・ウクライナ・東北地震と話題に事欠かない昨今ですが、序盤戦を終わった大相撲大阪場所にも問題が… 上位陣は御嶽海、若隆景、阿炎関が夫々4勝をキープ、高安関が単独5勝をあげ、これからの優勝戦線が見えてきたかなという展開に。

一方あっけない負け方で2敗した横綱照ノ富士、やっと1勝した大関正大、カド番の大関高景勝も何となく不安定。TJ応援の隆の勝関も元気なくはや4敗。幕内中位下位では霧馬山、琴ノ若、千代の国、輝関が4勝。十両は翠富士、北の若、竜電関が5勝。王鵬、矢後関が4勝と続く展開に。

 

太平洋戦争の記憶「集団疎開編」

奇しくも昨日3月17日が最初の大規模な焼夷弾による神戸空襲の日でした。「神戸空襲を記録する会」に依ると大小阪神地区だけで100回以上の空襲があったようです。やがて全国主要都市すべてに広がり最後は広島、長崎への原爆投下でした。

地域戦争を除き平和が続いた世界にロシアがウクライナへ侵攻したニュースには心底驚きました。TVで見る限り空爆による被害は同じに見えますが、避難する人々はまだ落ち着きがみられるのが救いです。何故早く収束できないのか、TJには判りませんが、世界各国が国連の元もっと早く動けないのかイライラします。

あの恐ろしい空襲の後初めて親元を離れて未知の疎開先へ行くのに、まだ子供だったからか殆どの生徒は意外に明るくてまるで遠足に行くような気分で神戸駅から汽車に乗りました。お結びのお弁当まで頂き楽しく過ごし姫路へ到着。 

姫路で姫新線に乗り換え岡山県勝田郡勝田町(昔は勝間田町)の正行寺さんに着きました。広いお寺の本堂に先に送った荷物や布団が着いていて大勢が雑魚寝状態でした。直ぐには馴染めなかったのがトイレ。戸外にしかなくって小は正門の横に、大はもっと離れた墓地の横に臨時の小屋状態でした。 

正直いって当時の事は時系列的にはっきりとは記憶してません。授業は文字通り寺子屋式で本堂に並べられた座卓に座って、一緒に疎開した先生が一人でされました。当地の学校にも行ったような記憶が薄っすらとありますがそこで授業したかどうかは定かではありません。

キレイな桜並木があったことは覚えています。後街の中に古い木造の劇場があり、戦時中なのに宮城千賀子さんが主役の「歌ふ狸御殿」を見ましたね。ああこんな世界もあるんだと知り、その後から現在に至るミュージカル好きの原点だと思います。 

戦況が厳しくなってあちこちから空襲・戦災の噂も漏れてきましたが、疎開地は安全に思われました。近くに津山と言う大きな街があり、時たま買い物に当番者が大八車を引いて徒歩で出かけました。 

大八車と言えば近くに林野温泉があり、清潔を保つためこれも順番に出かけました。ここでの一番強烈な印象は広島に原爆が投下された少し後の事でした。この温泉は冷泉に近く長い時間浸かれます。ある日皮膚がボロボロ状態の方を見かけました。 

今思えば被ばくされた方々だったのでしょう。「空気と触れると痛いから外へは出られない」と嘆いておられたのを覚ええいます。もう授業はいい加減になり簡単な勤労奉仕や、掃除に洗濯、食事当番等日常生活に明け暮れる毎日でした。

勤労奉仕で一番過酷だったのは「松根油」作り。何でも飛行機用の燃料に使うのだとかで、まず粘土を固めて日干し煉瓦を作り、乾くと積み上げて大きな竈を作る。生の切り倒された松の木を倒して割るのは多分村の方がされたのでしょう。 

児童はその松の木の束を担いで山から村まで運ぶのですが、ひ弱で虚弱児童だった私には地獄の責め苦で辛くてよく泣きました。おまけに背よりもはるかに高い釜にその松の木をほり込んで炊き、上部に浮いた油をひしゃくですくって桶に入れ日干し煉瓦を積み上げた階段を下りるのも恐ろしかった。 

後は叩いた繊維が軍服になるとかで「桑の皮むき作業」。子供ですから爪が割れて痛くて大変でした。一ついいことは桑の実が食べられたこと。でも帰ると口の中の検査があり、ばれると怒られました。まあお腹を壊す可能性があったからでしょうが…

後は川で洗濯したり泳いだり、風呂焚き当番の時に前日こっそり田んぼの水路に仕切りを仕掛けてドジョウや小魚を捕まえ、一人が見張りに立ちもう一人が風呂を焚きつつ十能で焼いてこっそり食べる楽しみもありました。 

後炊事当番。寮母さんに口うるさくジャガイモ等の皮むきを、いかに薄く剥くか教えられました。これが身を助け今でも自炊が出来ます。後はそうですね。岡山県なのか勝間田町の配慮なのか不明ですが一日一回はお米のご飯が頂けました。 

コメは玄米で近くの精米所に行きシーソーみたいな人力米搗き機でコメを撞いて持ち帰りました。又漬物の配給日には醤油蔵にある大きな樽に漬かった大根を貰いに行き、ぶよぶよしたぬか床に渡した木材の上から大根を引き出すのも怖かった。 

甘いものに飢えていたので薬屋で甘い味のする薬を誰かが見つけ、嘘をついてセンセに預けていたお金を貰い買って隠れて食べました。後近くにあった軍の駐屯地の馬のエサになるハト麦や豆かすが駅に送られてきて俵積みになったいるのを盗んで風呂の当番の時に焦がして食べました。

そうこうする内に戦況が悪化し岡山市が空襲に遭い、次は津山だとデマが飛んでお寺さんは更に山奥へ避難され、供出で鐘のない鐘楼の下へ仏様などを埋められました。そんなある日予期せぬ出来事が… 

祖父の体調が思わしくないとの事で祖母が迎えに来て一時帰宅しました。途中宝殿駅と加古川駅の間で空襲警報が出て初めて機銃掃射を経験しました。乗客は座席を外して列車の下に潜り外に座席を立てかけました。線路の小石をバッバッバッと跳ね上げて弾が撃ち込まれ生きた心地がしませんでしたが、幸い銃撃は一回だけでした。 

家に着くと焼け出された親類が二家族来ていて賑やかでしたが祖父の姿がありません。祖母は笑って「あれはウソ、いっぺん連れて帰ってあげようと思って」と言い、祖父は須磨の一の谷で小屋を借りて疎開させた家具類の見張りをしてるとの事でした。

当時母は勤め先が休業してしまい親類の伝手で岡山県の西の方へ芦屋の学校の寮母として赴任していたので家族5人がバラバラ状態でした。一の谷の小屋は今の須磨ロープウエイの少し東の急坂を上がった所で、見た目立派な洋館がその時すでに廃屋になりつつあり、そこの番人さんが住んでいた小屋を借りていました。手入れしていない広い庭一面にバラが咲いていて子供でしたが夢のような、白昼夢を見ているような気持でした。最近一度訪ねてみましたが、一杯住宅が立ち並んでいるだけでした。 

祖父は少し弱っているように見えましたが、その後疎開先に電報が来て危篤を知り急遽一人で帰宅しましたが6月5日に亡くなりました。丁度神戸の第二回目の爆弾空襲の日で葬儀屋さんも来ないし、仕方なく長持ちみたいな箱を近くの大工さんに改造して貰い急造の棺桶として大八車に載せて焼き場まで運びました。 

個人の死者は個別に焼いてくれましたが、空襲で焼死した方はトラックで運び込まれ、焼き場の裏に掘った大きな穴へ薪とガソリンと遺体を交互に投げ入れて焼いていました。もうその時は悲惨だとも思わずビックリだけしたのを思い出します。 

終戦は川で遊んでいた時に知りました。一番のいたずらっ子だった子供が「これや」と両手をあげて降参の形をして知らせてくれました。疎開先から帰ることが決まったのは9月末、センセは迎える人がいるなら適宜帰ってよろしと言われ、食べ物が無くなるまで全部食べようと飼っていたヤギさんまで潰して食べました。おかげで帰宅すると太っていたので驚かれました。 

そんな田舎でもデマが飛んでもう姫路まで米軍が来ているとか、男は奴隷に女は外国へ売り飛ばされる等の話がまことしやかに語られていました。 

ある日近くに駐屯していた軍隊の兵隊さんがなぜかお寺に来て小声で「今駐屯地の倉庫に穴が開いてるから取りに行き」と教えてくれました。半信半疑で数人で行くと確かに穴が開いていて缶詰類がぎっしりとありました。持てるだけ持って逃げかえりこっそり行李の中に隠し、農家さんに頼んで分けてもらった南瓜と一緒に持ち帰り喜ばれました。

私は誰もすぐに迎えに来てくれそうもないので、すぐ近所の子供のお母さんが迎えに来られたので頼んで一緒に帰りました。家には焼け出された家族がもう一家増えて2階に3家族がおられ賑やかでした。その内母も帰宅し家族は3人になりました。

焼け残った我が家があったので幸いでしたが、焼けた方の一部は焼け跡にバラック住宅を建てて住んでおられ、空き地は貸農園になっていました。ウクライナから近隣諸国に避難されている方々も、近々帰る事ができても灰燼に帰した故郷を見ると呆然とされるでしょうね。でもその苦悶が原動力となって日本も復興できたのですから、一日も早く戦争は止めて復興への道を歩んで欲しいと切に願います。(長文ごめんなさい)

公園の椿です。平和っていいですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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太平洋戦争開戦-終戦(TJの体験)TJ

2022-03-14 13:53:27 | 雑感+時折「旅の思い出ミニ写真展」添付

一気に春めいてきて公園の桃の蕾も膨らんできました。そんな季節の移り変わりに関係なくロシアとウクライナは不毛な戦いをやめようとはしません。当事者同士にしか判らない問題。かつて日本も同じ道を歩み手痛い被害を近隣諸国に与え、最後は敗戦を経験しました。

太平洋戦争を思い出すままに 開戦-空襲-疎開-終戦-戦後。(1)

「1945年3月17日神戸空襲編」

1941年4月に新しく出来た国民学校に入学、同年12月8日太平洋戦争が勃発しました。やがて戦況が厳しさを増し日本本土も米軍の空襲を受け始めました。開戦後目に見えて悪化したのは物資、特に食糧でした。給食のパンを頂くまで例え空襲警報が出てもパンの到着を待ちました。 

最初の神戸空襲体験は1945年3月17日でした。空襲警報が出て灯火管制下、防空壕にも入らず当時建設途中の山麓弾丸道路の東側沿いにあった住居から外へ出ていると西の方の空が一瞬明るくなり街並みがクッキリと浮かび上がりました。後で判ったのは照明弾が投下されたという事でした。 

そうこうする内に海岸方向に次々とB29らしき米軍機が襲来し焼夷弾を投下し始めました。焼夷弾は油脂焼夷弾で最初は火柱状のものが落ちて来て途中でパッと開くと中から焼夷弾が花火の様に散って落ちました。最初は暢気に遠目でキレイだと見ていました。 

その内もうどこがどこやら判らないくらい煙が立ち込めてきて、何故か小雪が舞い始めやがて道路の西側のたばこ屋さんと米屋さんに焼夷弾が落ちてから北側にかけて落ちはじめあっと言う間に燃え広がり始めました。

その内の一個が自宅の石垣とモルタル張りの台所の間に落ち物凄い火柱が一瞬立ち上がりましたが勇気ある祖母が掛布団を投げて空気遮断しやっと消火出来ました。不幸中の幸いで今思えば1発だけのこぼれ玉で幸運だったとしか言いようがなく焼失は免れました。

中には自分達だけが家を放り出して裏山へ逃げ後で顰蹙をかったお宅もありました。当家は父が前年出征し、病気の祖父と元気な祖母、母、小生の4人一家でしたが、怪我もなく家も焼けずでした。朝になると焼け出された人々が坂の下から三々五々山の方へ逃げてこられ、隣家に井戸があり奥さんがその方々に水をあげておられました。 

その奥さんは広い道路を隔てて焼けた家の煙が次の空襲目標になっては大変と道路を渡りバケツで消火しようとされましたが、徒労に終わりました。その焼け跡で前日夜に仕掛けた竈のお釜さんが無事でご飯が炊けていたという珍事もありました。 

翌日か翌々日か定かではないが学校へ行くと、校庭にむしろを掛けただけの焼死体が数体置いてありました。子供だからむき出しの足を叩いたりしましたが、硬くていわゆる焼けぼっくい状態でした。3軒ほど南側のガラス屋さんのご主人は消防活動中に直撃を受けて亡くなられたと後で知りました。

祖母は親類の状態が気になったのか私を連れてまず有馬道で瀬戸物屋をしていた祖父の妹宅へ向かいましたがそこはまる焼けでした。もう一軒の山手の祖父の弟宅へ行く途中、今の神戸大学医学部附属病院の南側の溝にねんねこを着た赤ちゃんを背負ったままの母親が倒れていました。何故か大きな馬が焼け死んでいました。弟宅は無事で大阪で焼け出された親類が避難してきておりました。 

私は一人っ子なので祖母が学校に掛け合ってすでに第一陣が集団疎開していたにも関わらず自宅にいました、この空襲で有無を言わさず集団疎開に行くことになりまだ一面焼け野原がくすぶり続けている中徒歩で神戸駅まで行きました。 

途中湊川公園の歩道上にずらりと焼死体が無造作に置いてあるのを見ました。後で当時福原遊郭の女郎さんが逃げ出さないようにカギを掛けられて大勢焼死された方々だったと聞きました。今でもそこを通るたびに思い出します。つづく

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シルクロードハイライトの旅(20020912ー19)④ TJ

2022-03-10 15:00:29 | 海外旅行

日本の乃木さんが凱旋す-スズメ-メジロ-ロシヤ-野蛮国-クロパトキン後は延々と続く尻取り歌の一節。多分日露戦争の後のことでしょうね。色んなバージョンがあるみたい。

シルクロードハイライトの旅(20020912ー19)④ TJ

9月14日はトルファン観光。トルファンは新疆ウイグル自治区(当時人口150万くらい)の東部、天山山脈の南麓に位置するトルファン盆地の底。最低部は海抜154mだからとにかく暑い。ちなみにこの辺りでは40℃を越すと休業となるので気象予報では39℃以上は言わないとか。人口は当時約18万人。

トルファンの夜明け

ハイ夜が明けたら ホテルの入口でした

ホテルへの通路にはブドウが鈴なりに

かつてのお歴々

いたるところに中国への賛歌が

レストランの入口 ウイグル語の店名?

内部ですA


まずは東北70km位にある西遊記で有名な火焔山へ。と言っても特定の山があるわけでなく、大きな山脈で夕日が当たると炎のように見えるからとか。道路脇に展望所が設営され、土産物売りや、らくだ使い、写真屋もたむろする。

この山襞に夕日が当たると火炎のように見えるとか

観光客もワッと来ました


この山脈を越えると天山山脈から流れる川沿いに6世紀から14世紀にかけて作られた岩窟寺院「千仏洞」がある。発見したドイツ人がはがして持ち帰ったので壁画は殆ど残っていないが、一部は彩色されて残っている。この傍の山は赤茶けてマサニ火焔山そのもの。

こちらのほうが見た目火炎山風でした

この谷を挟んだ崖の上が千仏洞

千仏洞の銘板

砂山一帯に洞穴が彫られていたとかA

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