ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

変化する道路の役割

2024年02月18日 | 日記

  

             日本水仙

 昔、宇沢弘文という高名な経済学者が「自動車の社会的費用」(岩波新書)という本を上梓して、当時隆盛だった高速道路建設ブームに一石を投じたことがあった。車社会の到達によって、排ガス等による社会環境が危機に瀕していて、同時に産業廃棄物などで河や海が相当に汚染していた時でもあった。

 論考のおおよそは、車の普及は、その車の代金だけに済まずに、道路建設や維持に膨大な費用を必要とすること、その社会的な費用をよく見極めないと、大きな矛盾を引き起こすという指摘だった。1974年の出版である。

 1970年代というのは、時代の変節点だった。交通の問題で言えば、鉄道から車に移行する時代だった。新幹線を除けば、鉄道はその後、衰退を余儀なくされ、都市交通以外は存続すら危うい時代に至っている。

 ところが現在はその車社会が曲がり角にきているようにみえる。電気自動車の普及のことをいうのではない。その輸送性に疑問がでているように思えるのだ。その象徴がバスを始め、長距離運転手不足である。幹線道路を九州の南端から、あるいは北海道の北端から、一晩中をかけて都市部に運ぶ。その運転手が高齢化するとともに、後継者不足になる。今では女性の運転者を雇うほどである。いくら自動運転が可能となったとしても、高速道を深夜運転する無理は避けようがない。ちなみに深夜、高速道をはしってみるがいい。大型トラックの行列である。各種宅急便から郵便まで輸送の停滞が出始めており、運送費も値上げされそうである。

 今後は、高速道のあり方の検討が必至ではないか。

   わたしは高速道にモノレールを設置するとよいのでは、と思う。そのレールは、小型のコンテナ専用とする。インターチェンジや主要な箇所に、スッと入ってコンテナを入れ替えていく。昔、鉄道は貨物と併用していた。この機能を逆用するのである。道路を車専用にしておくのは、もったいないと思うのである。

 そんな時代が、わたしの目にみえている。【彬】

 

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