武弘・Takehiroの部屋

万物は流転する 日一日の命
“生涯一記者”は あらゆる分野で 真実を追求する

過去の記事(3)

2024年04月16日 03時10分07秒 | 過去の記事

③ 無税国家論。 日米安保条約の変質。 天は人の上に人を造り、人の下に人を造る。 デフレと市場原理。 美しい田園と原発(フランス)。  参議院選挙だって!? 「一院制」こそ世界の大勢だ。 “親バカ”共産主義者・金日成! スターリンや毛沢東との大きな違い。

無税国家論

今や消費税増税の是非をめぐって盛んに議論が行なわれているが、経営の神様と言われた故松下幸之助さんは「無税国家論」を唱えたことでも有名である。
 無税国家論は多くの人が聞いたことがあると思うが、松下さんがこれを提唱したのはもう30年以上も前になる。 彼の発想の原点は、国が無駄遣いばかりして、その穴埋めを増税で賄おうとすれば、国民は必ず勤労意欲を失うだろうというものだ。そうなると国家も衰退する。
 こうした事態を避けるため、松下さんは国家予算を単年度で使い切るのではなく、必ず1割程度の「余剰金」を出すように努め、それを積み立てて運用していけば、100年後に国民は税金を払わなくても済むと唱えたのだ。
 そんなに上手く行くのかとすぐに疑問の声が上がりそうだが、松下翁は本気で無税国家論を唱えた。 彼は自ら創設した「松下政経塾」の第一期生入学式でもこの考えを強調したが(1980年)、一期生の中には今の総理大臣・野田佳彦氏もいたのである。野田氏も神妙に聞いたに違いない。
 この話はまた後でするとして、予算から10%の余剰金を出そうとすれば、役人(公務員)は節約に努めなければならない。ただし、予算の10%カットなどはいつもあり得ることだ。 面白いのは、松下さんは仮に10%節約したら、その内の2%ぐらいは役人にボーナスであげれば良いと言う。 つまり、役人にやる気を起こさせて10%削減を実現しようということだ。この辺が、経営の神様らしい柔軟な発想である。
 
松下さんがいた時代と今では財政事情がずいぶん変わっているが、この無税国家論を本気で実行した地方政治家がいる。同じく松下政経塾出身(二期生)の山田宏氏である。 山田氏は13年前に東京・杉並区長に当選すると「杉並区減税基本条例」を成立させ、区の予算の1割を基金として毎年積み立てることになった。 山田氏はもう区長を退任したが、杉並区ではこれを続けており、8年後から住民税の10%恒久減税を開始、年が経つごとに減税幅を拡大することになっている。
 だいぶ先のことかと思うだろうが、子供や孫のことを考えればこんなに良い施策はない。断っておくが、山田氏が杉並区長に就任した時、区の財政はもちろん「赤字」だったのである。要はやる気があるかないかの問題だ!
 
さて、国の話になるが、基金を作るならそれは「政府系ファンド」となる。ファンドの運用は誰もが分かるように、公明正大でなければならない。私は財政の素人だから詳しいことは知らないが、色々なやり方があるので専門家を中心に研究してもらおう。 ニュージーランドではこの政府系ファンドが成功しており、国民はとても満足しているそうだ(末尾にリンクしておく)。
 松下翁の時代と今では財政事情がかなり違うが、要はやる気があるかどうかということだ。東京・杉並区では松下政経塾出身の山田区長が始めたのだから、国単位でも当然出来ることである。規模が違うだけだ。
 ところが、同じ松下政経塾出身の野田総理は何を考えているのか。政治家になるために政経塾を“利用”しただけなのか!? 今や「増税」に狂奔しているのみで、松下翁の教えを完全に忘れたらしい。
 無税国家論とは21世紀を通した考えであり、もちろん直ちに無税国家が出来るわけがない。 しかし、われわれの子孫のことを思えば、30年後、50年後の無税国家論は現実味を帯びてくる。現に杉並区でやっているではないか。また、名古屋市も「減税」に一歩踏み出した。 やれば出来るのである。やろうとしないのは、政治家の怠慢である。
 ここで、消費税増税の問題を論じる時間はないが、野田総理は増税ばかり考えないで、少しは「減税」のことを考えたらどうか! 子供や孫のことを思え、と言いたい。そうでなければ、野田総理は松下翁の“不肖の弟子”という烙印を押されるだろう。
 誰かが言った。「高い税金は必ず国を滅ぼす」と・・・(2012年1月8日)
 
<参考資料>
 「無税国家論」について・・・http://demosika.blog35.fc2.com/blog-entry-437.html
 未来ビジョン(1)・・・http://www.youtube.com/watch?v=skeMEA6owV0
 未来ビジョン(2)・・・http://www.youtube.com/watch?v=jzLDz18QL4Y&feature=related

 

日米安保条約の変質

日米安保条約(いわゆる「60年安保条約」)が締結されて今年でちょうど50年になるが、その間に、安保条約の“位置づけ”が大きく変化したようである。
 ある方のブログを読んで気がついたのだが、もともとの日米安保は、ソ連などの共産主義国家に対抗して、極東の平和と安全、とりわけ日本の平和と安全を守るために締結されたものである。
 ところが、最大の仮想敵国であるソ連が1991年に消滅し、東西冷戦時代は終結してしまった。本来はこの時点で、安保条約の“見直し”をすべきであったのだが、自民党政権は何もせずにズルズルと日米安保体制を続けてきたのである。
 その評価は別にして、先のブログを読んで分かったのは(以下を参照・http://blog.goo.ne.jp/aibatatuya/e/dec012d4a9b1791f80da0d5e2587cf3c)、安保条約と在日米軍基地が、完全にアメリカの「世界戦略」の一環に組み入れられてしまったということだ。これを日米安保の“変質”と言う。
 
どういうことかと言うと、在日米軍とその基地は、もっぱらアメリカの世界戦略のために使われている。ベトナム戦争の時はもちろんそうだったが、ソ連消滅後も、イラク戦争やアフガニスタン戦争などで使われ続けているのだ。
 イラク戦争やアフガン戦争は、日本の安全保障とは直接関係がない。いろいろ理屈をこねて、これらの戦争が日本の平和と安全に関係があると説く専門家もいるが、まず関係ないと言えるだろう。
 戦後、日本は一度も戦争をしていないから、在日米軍が“現実に”役立ったことは一度もない。もちろん、安保条約があるから、日本は戦争に巻き込まれず平和にやって来れたのだと言う人も大勢いる。
 
そういう見方もあって当然かもしれない。しかし、日米安保が無くなったら、すぐに戦争が起きるのか。在日米軍がいなくなったら、中国や北朝鮮、ロシアなどと戦争になるのか。そうなるだろうと言う人も少しはいるが、すぐに戦争が起きるとはまず思えない。 日本にも精強な「自衛隊」はあるのだ。自衛隊は遊んでいるわけではない。外国の“侵略”があれば断固戦うはずである。また国民もこぞって戦うだろう。
 それとも、自衛隊だけでは不安だというのか。いつまでもアメリカ軍にいてもらわないと安心できないというのか。もしそうであるなら、永久にアメリカ軍にいてもらうしかない。
 そうではないだろう。日米関係は友好であるのが一番だ。だからと言って、未来永劫アメリカ軍にいてもらう必要はない。安保が無くなっても、日米友好条約とか相互援助条約などを結べばいいのだ。横須賀や佐世保などはどんどん寄港してもらえば良い。やり方はいろいろあるのだ。
 
日米安保体制が変質したことは、2005年10月に日米間で署名された「日米同盟:未来のための変革と再編」(末尾にリンク)で明らかになっている。これは同じ年の2月に、日米安全保障協議委員会で合意された共同発表(末尾にリンク)を受けて策定されたもので、日米両国はアジア太平洋地域だけでなく、“世界における課題”に対処する「同盟関係」だということをはっきりと謳っている。
 つまり、アメリカの世界戦略に日本が完全に組み込まれたことを意味するのだ(日本には“世界戦略”はない)。これが良いか悪いかは別にして、安保条約の“位置づけ”が50年前とは大きく変わったことを知るべきである。
 日米同盟に賛成であろうと反対であろうと、安保条約がこんなに変質したことを認識して、今後の日米関係を考えていくべきではないか。(2010年5月11日)
 
「日米同盟:未来のための変革と再編」・http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/usa/hosho/henkaku_saihen.html
 日米安保協議委員会の共同発表・http://www.asagumo-news.com/data/nichibeianpo.html
 

 天は人の上に人を造り、人の下に人を造る

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」というのは、福澤諭吉の著書『学問のすすめ』に出てくる有名な言葉だ。
 この言葉は福澤自身のものではなく、アメリカの独立宣言から引用したものだというが、日本では福澤自身の言葉のように受け取られている。それほど人々に行き渡った名言として価値のあるものだ。
 この言葉には“万民平等”という意味があり、福澤は同じ書で「人は生まれながらにして貴賎上下の別はない」としている。ただし「学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となる」と述べ、学問を修めることを勧めているのだ。明治初期の新しい時代の幕開けには、まことに相応しい言葉であったと思う。
 
『学問のすすめ』の前置きから入ったが、それは題名の「天は人の上に人を造り、人の下に人を造る」が、正反対の言葉だからである。あえて有名な著書の言葉をもじったものだ。
 ここで私が言いたいのは、もちろん“万民平等”に反対するものではない。人間は機会均等であるべきであり、それは近代社会の基本となるものだ。そういう考えは、憲法の「基本的人権」の平等にも生かされている。
 ただし、私が言いたいのは「平等」とは何かということだ。近代社会の理念を人間個人間のことに捻じ曲げるつもりはないが、人間個人は生まれながらにして「不平等」なのである。
 ここで言う不平等とは、人間は身体も心も能力もそれぞれ全く異なるという意味だ。例えば、私よりはるかに頭の良い人もいれば、はるかに身体能力が優れた人もいる。これは生まれながらに仕方がないことだ。
 私がどんなに努力しても、ある学問分野では絶対に追いつけない優秀な人がいるし、またどんなに身体を鍛錬しても遠く及ばないスポーツ選手がいるということだ。当たり前ではないかと言うだろうが、それが現実であり真実なのだ。
 
つまり、ここで言いたいのは、人はそれぞれ全く違うということだ。誰ひとり同じ顔はしていないし、誰ひとり同じ体型の者はいない。そのことを深く認識すべきである。顔や体型ばかりでなく、心も頭脳も全て違うのだ。それが“個性”というものだろう。
 ところが、人間というのは得てして、他人(ひと)の真似をしたがったり、他人に追随しようとする。それはその人の勝手だが、人それぞれ個性があるということを忘れてはならない。人は生まれながらに個性を持っているのだ。
 国家や社会では「格差」や「差別」は良くない。それは解消するよう努力すべきだし、またそういう方向で色々な施策が講じられる。
 しかし、人間個人においてはそれぞれが全て異なるのだから、むしろ、その違いを尊重していくべきである。それこそが個性の尊重というものだ。近代国家・社会の理念である「平等」というものは、人間個人間では全く当てはまらない。社会や国家の理念を、個人間のことに当てはめようとするから“混同”が起きるのだ。
 
個性の尊重こそ最も大切なものである。それぞれの個性が十分に発揮され花開くことが最も望ましい。昔の“金太郎アメ”ではないが、誰を見ても同じ考え、同じ価値観を持つようになれば、それは一種の「全体主義」である。
 全体主義とは、言葉を変えれば「天は人の左に人を造らず、人の右に人を造らず」ということになる。ここで全体主義の善し悪しを論じるつもりはないが、個性が尊重される社会は「天は人の左に人を造り、人の右に人を造る」ということになるのだ。
 人にはあらゆる面で上下があるように、あらゆる面で左右があるはずだ。諸々の“上下左右”の中に人間は存在する。これは人間の身体や心、特性や能力について言っているのだ。そうした中で人々は個性を生かさなければならない。
 個性が尊重される世の中、社会こそ最も理想的なものだと考える。(2010年5月19日)

 

デフレと市場原理

市場とは売り手と買い手が商品を取り引きする場所である。その実勢を尊重するのが市場原理主義だと理解する。
 そうすると、売り手が良い商品を安く提供すれば必ず買い手がつくはずである。逆に、悪い(良くない)商品を高く売ろうとしても買い手がつくはずがない。そういう状況で商品の適正な価格が形成されていくのだろう。
 つまり、良い商品は高く売れる可能性があり、悪い商品は安くしなければ見向きもされない。それがマーケットであり、実態はそういうことだと理解する。
 さて、最近はデフレ問題がよく取り上げられているが、消費者(買い手)は良い商品・サービスを出来るだけ安く手に入れようとするのが当然である。「同じ品質」の商品であれば、1円でも安い物を買おうというのが人情だ。わざわざ高い物に手を出す馬鹿や阿呆はいない。それが市場原理である。
 
経済が拡大し景気が回復すれば、デフレなどおのずから解消される。逆にインフレの方が危惧されるのだ。インフレも市場原理でそうなるのだろう。
 ある商品・サービスに買い手が殺到すれば、その価格は高騰するに決まっている。逆に買い手が少なければ、物やサービスは余ってくるので価格が落ちて当然である。こんなことは経済学の初歩だから、デフレが悪い・悪いと声高に言っても仕方がないではないか。
 物価は下がる所まで下がれば、それ以上は下がらない。“理屈”から言えば、デフレを早く脱却したいのなら、出来るだけ早く物価を急落させれば良い。そうすれば、それ以上は物価は下がらないから、今度は逆に物価は上向きになるはずだ。
 一番良くないのが、ダラダラと少しずつ物価が下がることである。そうなると、いつデフレから脱却できるか見通しがつかない。
 
したがって、乱暴な言い方だが、デフレに拍車を掛ければ良い。そうすれば物価は必ず底を突いて、その後反転して上昇する傾向になる。
 デフレの進行中に「より高い物を買いましょう」なんて言ったって、市場原理から見れば無理に決まっている。そんなものは焼け石に水だ。
 経済の理想から言えば、インフレもデフレもない状態が“最善”だろう。しかし、自由主義経済の下では、必ずインフレ局面とデフレ局面が交互にやって来ると思っている。それが市場原理ではないのか。
 ただし、急激なインフレやデフレは好ましくないので、政府や日銀が調整する。それはそれで良い。出来るだけ“なだらかに”インフレやデフレを進めるということだ。
 
私の言い方は無茶だろうか。私は経済の専門家ではないが、市場原理の理屈から言えばそうなるということだ。要はデフレにもインフレにも強くなることである。
 デフレが来ようがインフレになろうが、平ちゃらというのが一番良い。そんなことを言われても困るという人が大勢いるだろう。しかし、自由主義経済・市場原理とはそういうものだ。そうでなければ「統制経済」になる。
 経済は生き物だから伸びたり縮んだりする。伸縮自在な生き物だ。だから伸びた後は必ず縮む、縮んだ後は必ず伸びると思っていれば良い。
 それよりも、経済はあくまでも人間の“所業”であるから、デフレになろうとインフレになろうと、泰然自若としていることが肝心だ。あとは政府・日銀が対応してくれる。
 いたずらに騒ぐこと自体がナンセンスだ。騒いだところで何の効果もない。それが経済というものだ。
 「水は高きより低きに流れる」・・・これが鉄則である。水は低きより高きには、絶対に流れない。(10年4月19日)

 

 美しい田園と原発(フランス)

フランスの原発電力量が国内全体の80%近くもあると聞いて驚いた。これは福島原発事故の関連で伝えられたものだが、今のフランスは原発で国が成り立っているということだ。
 そこで嫌なことを思い出した。もう17年ほど前だが、フランスを単身で観光旅行したことがある。パリ見物がメインだったが、他に数件のオプション観光コースがあり、私は迷わず「ロワール川の古城めぐり」を選んだ。
 ロワール川はフランスの中央部を流れる大河で、その流域には中世の面影を残す古城が幾つも点在している。当時はそうでなかったが、今は世界遺産に登録されている所だ。
 ある朝、私はパリから観光バスに乗って出発した。すると、ほどなく田園地帯が広がってきた。フランスはもともと農業国なのだ。6月の陽光が田畑を照らし、実に穏やかな風景が眼前に広がっている。
 バスがロワール川に近づくと、今度は草原も多くなって牛や馬などが放し飼いにされていた。のどかな風景である。あの聖なる画家・ミレーの「晩鐘」や「羊飼いの少女」なども、こうした中で描かれたのだろうか・・・
 私はうっとりとして景色を楽しんでいた。すると、遠い先に何やら変な建物が見えてきた。あれは何だろうかと思っているうちにバスが近づくと、それはたしか円筒形の巨大な建築物だった。ガイドさんに聞くと、「あれは原子力発電所です」と答える。
 途端に私は不愉快になった。こんなに美しい田園地帯に、あんな“お化け”のような原発が建っているのだ。風景も美観もあったもんじゃない! 興ざめもいいところだ。
 ミレーの絵画などを連想していたのに、私は冷や水をかけられた気分になり目をつぶった。あの時から、私は“感覚的”に原発が嫌いになったと思う。芸術の国・フランスだというのに、何と無粋な建物を美景の中に建てるのか。こんな“景色”なら、どんな画家も絶対に絵を描かない!
 
ふて腐れていた私も、ロワール川の古城・名城に着くと気分が晴れた。実に美しい城が幾つもある。特にシュノンソー城は“白亜の美女”という感じだった。この城は昔、有名な王妃カトリーヌ・ド・メディシスが王の愛人ディアーヌ・ド・ポアチエと“争奪戦”を繰り広げた所だ。
 ディアーヌは素晴らしい美人だったらしく、王妃カトリーヌはじっと耐え忍んでいたようだ。このため、王(アンリ2世)が亡くなると、ディアーヌのものとなっていたシュノンソー城をカトリーヌが奪い取り、ディアーヌをこの城から追放した。いわば、女の闘いを象徴する美しい城なのだ。(末尾に、シュノンソー城をリンクしておく。)
 話がすっかり城のことに逸れてしまったが、幾つかの名城を見た後、私はパリに戻った。その途中、原子力発電所は努めて見ないようにした。不愉快になるだけである。
 後で聞いたら、ロワール川の流域には原発が幾つも建っているという。いわば、城と原発が“共存”している形だ。フランスは原発大国だから、海岸沿いにも原発は幾つもある。
 しかし、日本ではほとんど海岸沿いにあるので、美しい田園の中にあるフランスの原発には呆れた。あんな風景は二度と見たくない。
 今日は感覚的、生理的側面から原発を語ったが、あれから私はフランスが少し嫌いになったと思う。それまではフランスが大好きで憧れていたが、“芸術の国”も美観や環境に疎いのかな~と思うようになった。
 フランスでも原発の事故はよく起きるという。また、原発反対運動も起きている。その点は日本と同じか・・・(2011年4月2日)
 
シュノンソー城・・・http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%8E%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%BC%E5%9F%8E
 

 参議院選挙だって!? 「一院制」こそ世界の大勢だ

1) 私はこのホームページの別稿(「参議院は必要か? その廃止を考えよう」)で、参議院の廃止を提唱したことがあるが、以前にも増してその意を強くしている。 要するに、今の日本であれば「一院制」で十分であり、「二院制」はかえって混乱を引き起こしているからだ。 それだけでなく、必要もない「二院制」のために、毎年莫大な国民の税金が浪費されていることに我慢できないのである。
「一院制」というのは、参議院を廃止しても良いし、逆に参議院の権限を強化させて衆議院を廃止しても良い。要は無駄なものを廃止せよ、ということである。 一般的には現行憲法上、参議院の方を廃止することが自然であり、当然と言えるだろう。
仮に将来、日本が「道州制」を導入して連邦国家になるとか、こんなことは有り得ないだろうが、「貴族(華族)制度」を復活させるならば「二院制」も必要となるだろう。 しかし、現時点で考えるならば、今の日本には「二院制」はまったく必要ないし、むしろ弊害を生んでいるのだ。
インターネット等で調べてみると、議会制を持つ世界の177カ国のうち、112カ国が「一院制」を採用しているという。「一院制」の方がはるかに多数で、「二院制」の方が少数(65カ国)なのである。 また列国議会同盟(IPU)の資料によると、普通選挙制度を取っている56カ国のうち、42の“単一国家”の中で「二院制」を採用しているのは、わずか12カ国に過ぎず、残りの30カ国は「一院制」を採用しているのである。 なお、14の“連邦国家”は全て「二院制」を取っている。
事ほど左様に、世界の大勢は「一院制」なのである。 私は「世界の大勢に従え」などとは言わない。 その国が必要と考えるなら、「二院制」どころか「三院制」があっても良いのだ。しかし、現在の日本では「二院制」はまったく無駄であり、むしろ色々な弊害や混乱を引き起こしているのである。

2) 日本では戦後、貴族院が廃止されて参議院が誕生した。 この当時、革新陣営の中には「参議院は必要ではない。衆議院のみの一院制で良い」とする意見も強かった。 ところが、当時の支配層や保守陣営は「二院制」を支持し、参議院が誕生したのである。(この当時、連合軍総指令部《GHQ》も、日本は一院制が良いと主張していた。)

当初、参議院には衆議院をチェックしたり、抑制する機能が求められていた。 第1回の参議院選挙で100名以上の無所属議員が当選し、彼等は有名な「緑風会」という会派を結成した。「緑風会」は、各政党の利害が激突する衆議院とは異なり、是々非々の公正で、高い立場から国政に当たったのである。 誠に“良識の府”と呼ばれるに相応しいスタートであった。
その当時、私は小学校で、先生から「衆議院は政党で選ぶもの、参議院は人で選ぶもの」と教えられた。 新生日本で素晴らしい民主政治がスタートしたばかりだから、先生の教えは尊いものだと、子供心に思ったのである。
ところが、その後何十年も経て、参議院はどうなったのか。どう変わり果て、どう転落していったのか。 私がいちいち言うのも愚かである。大方の国民は分かっているはずだ。 最早、参議院には何の存在意義もない。「衆議院のカーボンコピー」と言われてきたが、“カーボンコピー”という言葉自体が死語になろうとしているのだ! 「緑風会」などは消えてしまい、“良識の府”という言葉も、とっくの昔に死語になってしまったのだ。
参議院の政党化が進み、選挙制度も衆議院と同じ選挙区、比例代表制を取っている限り、何の特色もない。(選挙制度については、衆議院の方が真似したのだから、衆議院の方が悪いと言える。) 当然、参議院の改革をしようという動きが出ているが、遅々として進んでいない状況である。

3) このままでは参議院は終わりだと、多くの議員、国民が思っている。 正にその通りである。 参議院は歴史的使命を終えたのだ。後は消えていくだけである。 もし仮に参議院を必要とするならば、将来日本が「道州制」の連邦国家になった場合、初めてその存在が許されるだろう。
参議院議員の歳費、職員の給与、参議院の維持費、議員会館、議員宿舎など、年間どれほどの税金が使われているのだろうか。 莫大な税金が使われているはずだ。私には計算する気にもならない。 政治改革を言うなら、まず参議院を廃止して、税金の浪費を断ち切ることこそ喫緊の課題である。
参議院議員にも優秀な人物が多いはずだ。議員立法にも精を出していると聞く。 それならば、むしろ「一院制(衆議院)」で活躍してもらいたいものだ。参議院が廃止されるなら、衆議院の定数を増やしてでも活躍して欲しい。「一院制」の方が活躍する舞台がはるかに広がるだろう。
デンマークやスウェーデンは、1970年代に「二院制」から「一院制」に移行した。 無駄なものは直ちに廃止したわけで、デンマークやスウェーデンに出来たことが、日本に出来ないということは有り得ない。 先程も指摘したように、「一院制」は世界の大勢になっている。「一院制」にした方が、はるかにスッキリすることは目に見えている。 
しかし、問題は「一院制」にする場合、憲法改正が必要となるから、当然事は簡単にはいかない。 まして、あらゆる改革に消極的なこの国の有権者と政治家のことである。 憲法改正を待っていたら、100年(!!??)はかかるだろう。(日本では半世紀以上たっても、一度も憲法改正が行なわれていない! 「百年、河清を待つ」とはこのことだ。)

従って、参議院の存在に疑問を抱いている人達に訴えたい。 次の参議院選挙では投票をボイコットしようではないか。その位いのことをしないと、この国の人達は目を覚ますことがないのだ。
ボイコットとは排斥、拒絶のことだ。不買運動などの時によく使う言葉である。 これには強い意思が込められている。断固たる拒絶ということである。 私は衆議院選挙(総選挙)では投票するが、現在の参議院選挙では馬鹿々々しくて投票できない。
二番煎じの茶番劇(参議院選挙)などに、どうして参加できるだろうか。 国費の無駄遣いもいい所だ。 大切な国民の税金を、参議院などに浪費させても良いと言うのだろうか。 冗談ではない!! ふざけるのもいい加減にしろ!、と言いたい。
政治意識が低いから投票しないのではない。政治意識が高いから投票しないのだ。 現在の参議院ならまったく無用の長物である。早く無くした方が国民のためになるのだ。 従って、次の参議院選挙では抗議の意も込めて、断固投票をボイコットしようではないか! 以上、国民の皆さんに訴える。 (2002年7月15日)

 

“親バカ”共産主義者・金日成! スターリンや毛沢東との大きな違い

<2004年5月に書いた以下の記事を復刻します。>

1) 北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の建国者・金日成(キムイルソン)のことに触れたい。 と言っても、ここで彼の足跡や業績などを述べるのではない。私がここで指摘したいのは、金日成の「共産主義者」にあるまじきネポチズム(縁者びいき)のことである。
そう言うと、勘の良い人はすぐにピンと来るだろう。息子の金正日(キムジョンイル)が国家権力の継承者となっているからである。 およそ、共産主義(社会主義)国家で、このような事例は他にない。 それは当然のことで、共産主義とネポチズムは最も相容れないものだからである。しかし現実は、北朝鮮は“父と子の国家”となっているのだ。
20世紀の共産主義世界で、スターリンと毛沢東は代表的な指導者として有名である。いずれも金日成の大先輩であり、1950年の朝鮮戦争の時は、二人とも(ソ連、中国の国家指導者として)物心両面で、大変な支援を北朝鮮に行なっている。 このため金日成は、二人の大先輩には深い恩義を感じていたはずだ。
スターリンと毛沢東はまた、独裁者としても有名である。「共産主義国家(社会)」では本来、理論的に独裁者というものが生まれるはずはないのだが、そこが理想と現実の大きな違いで、人間のおぞましさ、浅はかさ、醜悪さから独裁者が数多く誕生している。 それ自体が、“共産主義の悲しさ、はかなさ”の象徴みたいなものであろう。

2) 共産主義と独裁の話しはともかくとして、スターリンや毛沢東のような大権力者でも、やってはならないことで慎んだことがある。それこそネポチズムだ。 私が知る限り、スターリンの息子(長男のヤコフ)は、第2次世界大戦でドイツ軍の捕虜となり後に銃殺された。また毛沢東の息子(長男の岸英)も、朝鮮戦争の義勇兵として戦死している。いずれも一介の兵士としてである。
スターリンや毛沢東なら、いくらでも息子を特別扱いできたのに、それをしなかった証しである。これこそ、真の共産主義者としての矜持《プライド》だろう。 それに比べると、金日成は生前において、息子・正日を人民軍最高司令官や元帥にまでしてやっている(だから金正日は「将軍様」と呼ばれるのだ)。スターリンや毛沢東とは、えらい違いである。
父親たる者、誰だって息子は可愛いだろう。 だから、会社のオーナーが息子を跡継ぎにすることは幾らでもあるし、それは極めて普通のことである。しかし、ネポチズムが最もあってはならない共産主義国家(社会)で、そういうことが平気で行なわれるというのは、正に異常である。
一体、北朝鮮は共産主義国家なのか。 否、それどころか、金日成・正日親子が権力を“私物化”した独裁国家にすぎない。 まして、最近においては、正日の息子達が3代目跡目相続をめぐって暗闘を繰り広げているといった噂さが伝わってくると、もう馬鹿馬鹿しくて話しにならない。

3) 私は若い頃と違って、今はまったく共産主義者ではないが、もしマルクスやレーニンが生き返って“父と子の国家”北朝鮮を見たら、呆れかえって何も言えないだろう。 いや、スターリンや毛沢東のような大権力者も驚くに違いない。二人に比べれば、金日成などははるかに格下(かくした)の男なのだから。
朝鮮人というのは「家族主義」が強すぎるのだろうか。 儒教精神が浸透しているとはいえ、歴代の韓国大統領もしばしば、権力をめぐる身内の汚職で裁判にかけられたりしている。ネポチズムは朝鮮民族に特に顕著なのだろうか。
スターリンや毛沢東は、その独裁ぶりによって死後、いろいろな非難や批判を受けた。それは確かだが、少なくとも息子の処遇については、公正な共産主義者としての模範を示している。「二人に比べれば、金日成などははるかに格下」と言ったのは、20世紀の国際共産主義運動において、スターリンと毛沢東は善し悪しは別として、金日成などが足元にも及ばないほどの影響力を持っていたからだ。

 確かに金日成は、日本帝国主義から朝鮮を解放・独立させた民族の“英雄”だろう。それはそれとして認めるが、共産主義の倫理・道徳から見れば、単なる“親バカ”に過ぎない。 息子に権力を譲るネポチズムは、絶対に許されないからだ。
北朝鮮のチュチェ(主体)思想は、人民大衆を主体とするものだが、まさか“金王朝”を主体とするものではなかろう。権力を私物化した体制なら、18世紀以前の絶対君主制となんら変わらない。 共産主義が最も唾棄すべきことである。
私が若い頃(いつだったか覚えていないが)、「チョンリマ(千里馬)」という映画を見たことがある。 北朝鮮の国家建設を高らかに謳い上げた映画だったと思うが、学生時代の私は大いに感動した記憶がある。一時的に、北朝鮮や金日成に憧れたことがある。
若気の至りと言ってしまえばそれまでだが、その当時は、在日朝鮮人を始めその日本人妻らが、大いなる希望と夢を抱いて、続々と“チョンリマの国”へ渡っていったのだ。誰がそれを責めることが出来ようか。 理想の共産主義社会に憧れるのは、悪いことではない。
しかし、金日成は、里帰りを希望した日本人妻に激怒して、彼女らに苛烈な弾圧を加えたという。それがどこまで真実なのか、あのような閉鎖的な“父と子の国家”では調べようもない。 ともあれ、権力を私物化した金日成・正日親子の独裁体制のもと、呻吟を続ける北朝鮮の民衆は哀れとしか言い様がない。(2004年4月2日)

 付記・・・先日、たまたま産経新聞を読んでいたら、北朝鮮には「革命の血統」という言葉があると知り、思わず笑ってしまった。 「革命の伝統」という言葉は20世紀によく使われたが、「革命の血統」というのは初めてである。私の勉強不足だが、金日成から息子・正日に権力が移譲される時に、よく使われたそうだ。
「血統」とか「血筋」という言葉は、封建社会や王侯・貴族の時代には極めて相応しいものだが、18世紀以降の社会主義・共産主義の思想ではまったく聞いたことがなく、まして「革命の血統」などというのは、これほど“非革命的”な言葉はない。
「血統」や「血筋」を大切にするというのは、正にネポチズム(縁者びいき)の根源にあるもので、共産主義思想が最も嫌ったものだ。 否、封建社会に対抗して、同様に生まれてきた近代の自由主義、民主主義だって最も忌避したものである。
そういう“封建的思想”が根付いている所に、現代の北朝鮮の特徴があるのだろうか。「封建的社会主義」という言葉がもしあるとするなら、北朝鮮に最も相応しいのではないかと考える。(2004年5月31日)


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