「言葉は、それがある事象ないし概念を表すために用いられる以上、もちろん記号であることに変わりはない。しかしその形成と活動のあり方からすれば、それは独自の自立した存在、すなわち個体であり、すべての言葉の総体、すなわち言語である。それは、外的な現象とわれわれの内で活動するものの中間に位置する世界なのである」
記号としての言語理解をこれほど頑強に斥ける際にフンボルトが反対しているのは、道具主義的な名づけの言語の理論である。それはつまり、表示(能記)の単なる総計とみなされた言語を、言語から独立して実在する他者たる概念や対象――つまり客観性――を名指す手段または道具として捉える言語観である。これに対して、フンボルトはきわめて明解なある認識をもっていた。それは、ルネサンスにおいて切り拓かれ、十七世紀の合理主義という空白期間を経た後、十八世紀に再びようやく広がり始めた認識、つまり、個々の言葉の意義は、個別言語において主観的に形成された内容であり、表示から自立して存在するどころかむしろそれと不可分の統一体を成しているとする認識である。
「フンボルトの言語思想」ユルゲン・トラバント著 村井則夫訳 平凡社 2001年
富翁
記号としての言語理解をこれほど頑強に斥ける際にフンボルトが反対しているのは、道具主義的な名づけの言語の理論である。それはつまり、表示(能記)の単なる総計とみなされた言語を、言語から独立して実在する他者たる概念や対象――つまり客観性――を名指す手段または道具として捉える言語観である。これに対して、フンボルトはきわめて明解なある認識をもっていた。それは、ルネサンスにおいて切り拓かれ、十七世紀の合理主義という空白期間を経た後、十八世紀に再びようやく広がり始めた認識、つまり、個々の言葉の意義は、個別言語において主観的に形成された内容であり、表示から自立して存在するどころかむしろそれと不可分の統一体を成しているとする認識である。
「フンボルトの言語思想」ユルゲン・トラバント著 村井則夫訳 平凡社 2001年
富翁