意識が未だ目覚めなかった時には、世界はなんらの意味をも持たなかった。その中にはなんら、知的な、精神的な、美的な価値というものはなかった。要するに業がなかったのである。意識の目覚めと共に分別ができ、そして分別と共に無明が動き出す。分別には両刃があるので、一方はまるで鈍いが、他の一方は触れるものをことごとく切り倒す。それはまた鏡に似ている。その明らかな面は、その前に来るものを何でも映すが、その暗き一面はなんらの光を放たぬ。更に言えば、それはまた太陽に似ている。太陽が一番きらきら輝いている処では、その影が最も濃く落ちる。意識が世界に現れるということは、主観に対して立ち、主観の上に働きかけるところの客観的環境の創造を意味する。表面的に見れば、あらゆるものは、これではっきりと限定せられ、その存在が明瞭になるが、それと同時に他の一面では常に暗黒なる無明の雲が低迷していて、意識の世界を覆うのである。この雲が何とかして一掃されない限り、業は険悪な相を見せ、而してわれらの心の平和というものはないのである。
「一禅者の思索」鈴木大拙 講談社学術文庫 1987年
富翁