〈川俳会〉ブログ

俳句を愛する人、この指とまれ。
四季の変遷を俳句で楽しんでいます。「吟行」もしていますよ。

拾い読み備忘録(123)

2016年06月10日 16時36分37秒 | 専門書
一つの文化の下位文化としての治療文化とは、何を病気とし、誰を病人とし、誰を治療者とし、何を以て治療とし治癒とし、治療者―患者関係とはどういうものであるか。患者にたいして周囲の一般人はどういう態度をとれば是とされ、どういう態度をとれば非とされるか。その社会の中で患者はどういう位置をあたえられるか。患者あるいは病いの文化的ひいては宇宙論的意味はどのようにあたえられるか。あるいは治療はどこで行われるべきで、それを治療施設というならば、治療施設はどうあるべきで、どうあるべきでないか、などの束(たば)である。いいかえれば、この種の無数のことがないまぜになって、一つの「治療文化」となる。
逆に、ある個人が、どういう時に自分を病者、患者とし、なにを治療として受けいれるか、なにをもってなおったとするか、どこまで耐えしのべるか、時にはどこで満足するか。以上は先の定義の裏返しの等価表現である。
「治療文化論」中井久夫 同時代ライブラリー30 岩波書店 1990年
                            富翁
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拾い読み備忘録(35)

2016年02月02日 20時19分53秒 | 専門書
マルクの描いたのは、感覚にとらえられるような姿で自然の中を走り廻っている一匹一匹の馬ではなくて、馬のようなもの、馬的なものの本質(それが何であるかをここで詳しく述べることはしませんが)であったのです。同じように彼は鹿についても、それぞれ一回きりの独自の性質においてみられた個々の鹿ではなくて、鹿的なもの、つまり鹿の本質そのものを描きました。この鹿の本質というものは、単に動物学上の種としての鹿において出会われるだけとは限らず、たとえば或る若い娘において、われわれが彼女の眼差しや歩き方の中になにか鹿のようなものを認めた場合にも、出会いうるようなものなのです。さらにファン・ゴッホも、彼が風にはげしく打たれている一本の木とか麦畑とかを描いたとき、彼自身も書きとめているように、その木の中にかくかくしかじかの性質をもった単一のその木を見ていたのではなく、一つのドラマを見ていたのであり、またその若い麦の中に一本一本の麦の穂を見ていたのではなくて、「言いあらわしようのない清らかさと柔和さ」つまり「いってみればまるで眠っている幼な児の表情にも似た感動をよびおこすようなもの」を見ていたのです(弟への手紙)。つまりゴッホは、風とたたかっている木と人間の運命(ドラマ)との両者の中に同一の現象をみていたのであり、また若い穂と眠っている子供との両者の中に同一の(清らかさと柔和さという)現象を見ていたのです。
(「現象学について」より)
「現象学的人間学」L.ビンスワンガー著 荻野恒一、宮本忠雄、木村敏訳 みすず書房1967年
                          富翁
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拾い読み備忘録(33)

2016年01月31日 22時12分55秒 | 専門書
私が診察したある癲癇の患者は、会社でコンピュータを扱う仕事をしていて、ある日「これを操作すればコンピュータの機能が一瞬のうちに停止してしまう装置」を発明したという男の訪問を受け、その話を聞いている最中に大発作を起こした。彼がいうには、その物騒な装置の説明を聞いているうちに、自分の扱っているコンピュータが現在すでに完全な麻痺状態になっているかのような気持ちに襲われて、その瞬間、意識を失ってしまったのだという。
…・・この患者の場合の未来との二重化においても、イントラ・フェストゥム(祭のさなか)的な意識における現在は、客観的時間軸上の過去や未来をも一挙に現在の直接的現前にひきずり込むという強大な吸引力をもっている。
*(祭のさなか)は引用者が挿入
「時間と自己」木村敏著 中公新書 1982年
                           富翁
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拾い読み備忘録(31)

2016年01月29日 17時56分22秒 | 専門書
芸術家は造る人間であるが、使命をおびた人間である使徒と比べれば、良かれ悪しかれ、人類にとってそれほど重要ではない。宗教、哲学、行動の規律、人々がそれを何と呼ぼうとも、これらのものがなければ、人間はまったく生きてゆくことはできない。人間が信ずるものは、不合理なもの、あるいは、不快を感じさせるものであるかもしれない。しかし、人間は何かを信じなければならない。他方、芸術はわれわれにたいして、どれほど大きな意味をもとうとも、芸術のないわれわれの生活を想像することは可能である。
……・
私が二十年代の末に、始めてロレンスの作品を読んだとき、最大の感銘をうけたのは、彼の使命であった。その結果もっともむさぼり読んだのは彼の小説よりもむしろ『無意識についての幻想』のような彼の「思索する」本であった。
(オーデン「D・H・ロレンス」より)
「イエイツ・エリオット・オーデン」筑摩世界文學大系71 1975年
                             富翁
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拾い読み備忘録(29)

2016年01月27日 20時43分23秒 | 専門書
雪どけや 村一杯の子どもかな
              一茶
「挑発する子どもたち」と題された一文を、こんなのどかな一句から始めるとしたら、それは、あまりにも奇異に響くだろうか。子どもたちをめぐって、自殺、殺人、暴力行為などの血なまぐさい事件が頻発している今日、子どもへの信頼を危うくさせ、私どもを不安に陥れるそれらこそ、最大の挑発性を持つのではないか。それなのに、何故、いまさら、のどかな時代の、のどかな村童風景などを…・・。
しかし、のどかに見えるこの情景は、本当に「のどか」なだけであろうか。先ずはこの一句に注目し、十七文字の中に溢れ返る、子どもたちの歓声に耳を傾けてみよう。…・・
 「異文化としての子ども」本田和子著 紀伊國屋書店 1982年
                                 富翁
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