〈川俳会〉ブログ

俳句を愛する人、この指とまれ。
四季の変遷を俳句で楽しんでいます。「吟行」もしていますよ。

拾い読み備忘録(155)

2016年08月09日 18時11分03秒 | 研究書
「宣伝、宣伝だ。それが信仰となり、なにが想像でなにが現実かわからなくなるまで宣伝することだ」
------アドルフ・ヒトラー(無名だったウィーン時代に知人J・グライナーに語った言葉。1910年頃)
「チャップリンとヒトラー」大野裕之著 岩波書店 2015年
                         富翁
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拾い読み備忘録(135)

2016年06月29日 16時10分51秒 | 研究書
人には誰でも大きな我と小さな我とがあるという。ものには例外もあるが、やはり大きな我の方がよさそうだ。それなら小を大に塗り変えもできようが、塗ったものは剥げる心配がある。頑張って大きく膨らませてみてもゴム風船みたいなもので所詮は元の木阿弥。大と小の我が異質なものであるならば無理してみても、その努力は無駄骨を折ることになるかもしれない。そこで小は小でよい。詩人の安積得也先生は未見の我という魅力のある言葉を使っておられる。まだお目にかかったことのない我がもう一人いるわけである。してみると一個の肉体生命の中に未見の我ともう一人の見過ぎて愛想尽かしぎみの我とが同居しているのかもしれない。
「万病を癒す丹田呼吸法」村木弘昌著 柏樹社 1984年
                       富翁
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拾い読み備忘録(124)

2016年06月11日 18時55分08秒 | 研究書
変化に支配されている世界においては、死を前にしての伝統的な態度は惰性と継続の塊りのようにみえます。死をなじみ深く、身近で、和やかで、大して重要でないものとする昔の態度は、死がひどく恐ろしいもので、その名をあえて口にすることもさしひかえるようになっているわれわれの態度とは、あまりにも反対です。それゆえに、私はここで、このなじみ深い死を飼いならされた死と呼ぶことにしたいのです。死がそれ以前に野生のものであった、そしてそうでなくなった、というようなことをいいたいのではありません。逆に、死は今日野生のものとなってしまっている、といいたいのです。
「死と歴史」フィリップ・アリエス 伊藤晃・成瀬駒男訳 みすず書房 1983年
                                  富翁
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拾い読み備忘録(76)

2016年03月30日 17時19分33秒 | 研究書
 我々は戦争について公法学者たちのあいだで論議されているようなこちたい定義を、今さらここであげつらう積りはない。我々としては、戦争を構成している究極の要素、即ち二人のあいだで行われる決闘に着目したい、およそ戦争は拡大された決闘にほかならないからである。ところでかかる無数の決闘の集まりを一体として考えるには、二人の決闘者の所作を思いみるに如くはない。要するに決闘者は、いずれも物理的な力を行使して我が方の意思を相手に強要しようとするのである。即ち彼が端的に目的とするところは、相手を完全に打倒しておよそ爾後の抵抗をまったく不可能ならしめるにある。
 してみると戦争は一種の強力行為であり、その旨とするところは相手に我が方の意思を強要するにある。
 このような強力行使は、諸種の技術および科学の一切の発明を援用して装備に努め、もって相手の強力行使に対抗しようとするのである。なおこの強力行使は、国際法的慣習と称せられる幾多の制限を伴うけれども、しかしこれらの制限はいずれも微力であって殆ど言うに足りないものであるから、強力行為に本来の強制力を本質的に弱めるに到らないのである。
「戦争論」クラウゼヴィッツ著 篠田英雄訳 岩波文庫 1968年
                           富翁
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拾い読み備忘録(55)

2016年02月24日 18時48分48秒 | 研究書
わたしたちが外国語を学習するのは、外国語こそが、たとえ下手に身につけても決して無駄に終らぬ唯一のものだからです。
たとえば、バイオリンがちょっとしか弾けない人がいたとします。彼は自分の演奏によって聴衆に及ぼす苦痛が、彼自身にもたらし得るだろう喜びに較べて計り知れぬほど大きいことを即座に見て取るでしょう。また、アマチュアの化学者が滑稽でないのは、自己のその営みの純アマチュア的性質を自覚し、プロの化学者と張り合おうなどと思い立たぬ限りにおいてです。医学を《少々かじった》手合いとて同じです。彼がそのアマチュア知識を実際に行使しようとするならば、ニセ医者として刑法上の罪に問われることになりましょう。アマチュアが社会的利益をもたらし得るのは、わたしの考えでは、外国語においてのみです。
「わたしの外国語学習法」ロンブ・カトー著 米原万里訳 ちくま学芸文庫 2000年
                              富翁
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拾い読み備忘録(53)

2016年02月20日 08時06分08秒 | 研究書
ロレンスの精神分析に対する反応を心にとめて、忘れないようにしておこう。ロレンスの場合、少くとも、かれが精神分析に対してためらいを抱いていたのは、性欲の発見を前にしてこれに恐怖したことに由来するのではない。そうではなくて、かれは精神分析に対して次のような印象を抱いていたのである。つまり、端的にいうと、精神分析が性欲をブルジョアの飾りのついた奇妙な箱の中に、きわめていやらしい一種の人工的な三角形の中に閉じこめつつあるといった印象を。この三角形は、欲望としての一切の性欲を窒息させ、新しい様式においてこうした性欲を「汚れた小さな秘密」《家庭の小さな秘密》に作りかえるものであったからである。つまり、それは、≪自然≫と≪生産≫という途方もない工場を内輪の私的な劇場にかえてしまうものであったからである。ロレンスは、性欲がもっと多くの力を、あるいは、もっと多くの潜在力をもっているという印象をもっていた。そして恐らく、精神分析は、この「汚れた小さな秘密を消毒する」ことになったのであるが、……・
「アンチ・オイディプス」G.ドゥルーズ/F.ガタリ著 市倉宏祐訳 河出書房新社 1986年
                         富翁
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拾い読み備忘録(47)

2016年02月14日 18時01分08秒 | 研究書
彼は、我々の内部にある「くらき神々」と彼が呼んだものの間に、深く隠れたつながりがあることを認めたが、それは知性が弄する詭弁とはまったく別のものであった。ロレンスは知性とは、すべての物事の釣り合いを取りながら、正しい場所に落下させることのできる、巧みな手品師であることをすでに見抜いていた。これにたいして「くらき神々」は本能的であり、欺くことも欺かれることもない。彼らは血のなかに流れる生命の流れに、一心に注意を払う。現代の生活のなかで、我々はそれら「くらき神々」を欺こうと努めてきた。私たちは精神の手品師が全能であると感じてきた。ロレンスはそのような手品師に敵意を示す。

「そしてくだらない、おせっかいやきの頭脳で、それ(セックス)を
その深みから引きずりださないように
それがそれのみで置かれて、動きだし、高まり、やがて眠り込もうとするときに
むりやりいじくり回して、そのリズムをぶち壊さないように」
「私のD.H.ロレンス論」アナイス・ニン著 木村淳子訳 鳥影社 1997年
                                富翁
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拾い読み備忘録(36)

2016年02月03日 17時28分34秒 | 研究書
人間のこころには時間を測定する二つの主な尺度がある。大きな方の尺度は人生の長さをその単位とするから、人生を測定することはできない。人生は動物的な威厳と単純さとを具えていて、穏やかな宿命論的観点から眺められるにちがいない。小さな方の尺度は意識の瞬間を単位とし、諸君が隣接する空間とか、意志のはたらきとか、打ち解けた口調の繊細さとか、自分の個性とかを考えるのは、この尺度からである。二つの尺度は非常にかけ離れていて、ほとんど二つの次元を明確化するような効果を与える。それらが接触しないのは、一方の尺度では大きすぎて考えられないものが他方の尺度では小さすぎてやはり考えられないからである。かくして、二つの単位の長さを一世紀および四分の一秒とすると、それらの比は一対一〇の一〇乗であり、それらの平均値は標準的な一日の労働時間となる。
「曖昧の七つの型」ウィリヤム・エンプソン著 星野徹、武子和幸訳 思潮社 1972年
                         富翁
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