がじゅまるの樹の下で。

*琉球歴女による、琉球の歴史文化を楽しむブログ*

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守忠と守知の伊舎堂墓

2015年05月18日 | ・琉球史散策/第二尚氏

 

ここんトコロ、ピックアップしている(→ 
南風原按司守忠さんと、
その息子・花城親方守知のお墓。

別名、伊舎堂墓とも呼ばれています。

 

 

立派なお墓ですね。

今でもしっかり子孫の方々が
お墓を守られておられます。

お墓前のスペースがとても広々としていて
さぞかし賑やかなシーミーが行われているんだろう
と、想像しました(笑)

 

 

石碑の裏には門中の銘が。

 

 

石碑の隣に立てられている解説板。
(クリックで拡大します)

この解説版では、守知は
孫の華后が尚真の側室になった後に、
尚真の養父となった
とありますが、

『沖縄のサムレー 家譜に見る士族』
(比嘉朝進著/球陽出版)
によると、


尚真がまだ赤ん坊だった頃、
父である尚円が彼について占わせた所、
「吉日に赤ん坊(尚真)を城外に出し、
最初に出会った男を養父にすれば
至福で長寿を得られるだろう」
と言われます。

早速言われた通りにすると
登城してくる守知と出会い
彼を養父として迎えた、

とあります。

尚真は“育ての親”である守知に
とても懐いていたようで、
1511年に守知が死んだ時は
葬列を見送り、号泣したのだそうです。

時に尚真、46歳。

尚真と守知の深い絆が垣間見れるエピソードですね。

 

 


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若松の墓

2015年02月05日 | ・琉球史散策/第二尚氏

 

前記事で書いた
金丸の落とし子(!?)、
執心鐘入の若松のモデルになった
中城若松の墓。

 

 

北中城村の、
その名も「若松公園」の中にあります。

 

 

案内板↑

 

 

こちらが若松の妻と母の墓。

若松の墓の、裏手にありました。

 

 

こちらは若松の屋敷の火ヌ神。

これは移設されたもの。

 

 

元々はこのグラウンドエリアが
屋敷だったようです(広っ!)。

グラウンド建設のために屋敷跡が埋められることになり、
火ヌ神をこの場所に移設したのだそう。

向こう側の丘は安谷屋グスク。
(また別記事で)

 

 

ところで、若松の墓の所にあった案内板。
執心鐘入についての紹介写真もありました↓

 

 

若松の部分を拡大してみましょう。

 

 

…なんか怖い…(´Д`;)

 

さらに、
左側の目を隠してみると、

 

 

にやり。

 

お、鬼の相やん…((((゜д゜;))

 

若松、恐るべし。

 

幼いころの若松はアカインコとも会ってます。
またいずれ紹介します。


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金丸の落とし子

2015年02月04日 | ・琉球史散策/第二尚氏

各地に浮名を残している金丸ですが、

今日は
そんな金丸と安谷屋ノロとの間にできた子が、

 

実は超有名人だったという話。

 

 

 

その超有名人とは、

 

 

玉城朝薫の、

 

 

組踊の、

 

 

代表作「執心鐘入」に出てくる、

 

 

 

美少年、

 

 

 

中城若松!
(安谷屋の若松とも)

 

 

優しくて、聡明な美少年、中城若松。

彼の美少年キラキラパワーは
ごく普通の女を鬼女にまでさせる!!

女の人生を狂わせる
罪な男!

本人にその気が全くない分
余計に厄介!

 

さすがに
金丸の血を引くだけある…!?

 

なんつって。

 

※厳密に言うと、"執心鐘入の若松のモデルになった"若松。
ちなみに金丸時代か、尚円時代かは不明

 

そのね、若松のね、お墓に行ってきたんですよ。

それは次記事で。

 

新作組踊『さかさま執心鐘入』
いつか見たいなぁ。

再掲載の執心鐘入イラスト↑

What's 執心鐘入? →  

 


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薩摩一の宮、板聞神社

2015年01月25日 | ・琉球史散策/第二尚氏

 

鹿児島の琉球史巡りをするなら
ここは絶対に外せないスポットの一つ、
指宿にある枚聞(ひらきき)神社。

薩摩一の宮の由緒正しき神社です。

航海安全の神としても知られ
無事に本土上陸を果たした琉球使節も
ここを訪れ扁額を奉納しています。
(1773年~1803年のもの)

その扁額7枚が今も残っていて
常時見ることができます。

(撮影はダメかな?と思ったので写真なし)

 

枚聞神社は昔から海上守護の神として信仰が厚く、
中でも琉球王の崇敬が深く、
島津氏に対する入貢の航海中
遥かに開聞岳の雄姿を拝するや、
神酒を奉り無事を祈ったと伝えられる。

琉球王は航海安全の神徳を報謝して
「徳光普照」をはじめ数面の額を奉納した。

(枚聞神社宝物目録より)

 

宝物殿…かなり質素な作りだったけど
陳列棚なども含めて
もうちょっとメンテナンスできたら
いいなぁ(^^;

 

 

背後には優々と開聞岳。

純粋に、「きれい」です。

陽も傾き、雨の降る寒い中の
枚聞神社訪問でした。

 


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薩摩の玄関口、山川

2015年01月11日 | ・琉球史散策/第二尚氏

 

 

 

近世、薩摩の支配下に置かれ、
薩摩への行き来が盛んになった琉球。

船で北上し、
本土上陸の玄関口になったのが
指宿市の山川。

前に記事にした石敢當(石散當)でも分かるように
琉球人の足跡が残っている町でもあります。

 

 

現在の山川港。

さつまいも上陸の碑。
(ザビエルもね)

琉球人鎮魂墓碑。

花ブロックも結構見かけた。

山川石の造形。
(河野覚兵衛墓石群)

西南戦争鎮魂碑。

仮屋跡石垣。

武家屋敷石垣群。

道の駅で食べた指宿温泉ソーダと
芋の餡が入ったかつおやき。
(山川はかつおが特産)

津口番所跡。

 

 

2009年に薩摩侵攻400年を記念して作られた
琉球人鎮魂墓碑の説明。

 

 

明治になり、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で
めちゃくちゃにされた墓石などを集めた
旧正龍寺跡墓石群。

首なし仏や破壊された鬼瓦が痛々しい。

その数ある墓石の中には
1786年の大城仁屋の墓石も。
(写真左下。琉球國の字が確認できます)

右下は現在の正龍寺と仁王像。

 


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小禄良忠(馬 克承)

2015年01月08日 | ・琉球史散策/第二尚氏

 

半年くらい前に描いてた没ラフを
改めてちょっと直したモノ。

小禄りえこさん。

もとい、

小禄里之子。
(ちなみに元絵はこちらに)

 

楽童子さんです。
what's 楽童子? →   

 

江戸上りの行列を描いた巻物で

至而美少年ナリ

とまで注意書きがされたほどの
絶世の美少年。

 

彼は三司官にまで出世しますが
牧志・恩河事件で失脚。

美貌も才能も地位も名誉も手に入れていても
最期だけは報われなかった
(投獄され拷問を受け島流し)
悲劇のヒーローでもあります。

小禄里之子、
和名は小禄良忠、唐名は馬 克承(ば こくしょう)。

現在彼の書が首里城南殿で展示されています。
(12月中旬の情報。展示替えになってたらゴメン!)

 


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オギヤカの一生

2014年10月27日 | ・琉球史散策/第二尚氏

昨日、幹部(笑)来沖に伴い、
内々で第4回琉球歴女の会を行いました。

となると、毎度のことながら話題はオギヤカさん。

そこでオギヤカさんの生きた時代を
年齢ごとに追ってみることになりました。

 

 

1445年 生まれる

1453年 志魯・布里の乱(8歳)

1458年 護佐丸・阿麻和利の乱(13歳)

1459年 金丸、御物城御鎖之側任命(14歳)

1460年 尚泰久、没(15歳)

1461年 尚徳、即位(16歳)

1465年 尚真を生む※(20歳)

1466年 尚徳、喜界島征服(21歳)

1468年 金丸、内間に隠居(23歳)

1469年 尚徳没(24歳)

1470年 金丸改め尚円、即位(25歳)

1476年 尚円没(31歳)

1477年 尚宣威即位式+尚真即位(32歳)

1480年 尚真、居仁と結婚(35歳)

1494年 尚真と居仁(正妃)の子、尚維衝誕生(49歳)

1497年 尚真と華后(側室)の子、尚清誕生(52歳)

1500年 オヤケアカハチの乱(55歳)

1501年 玉陵建設(56歳)

1505年 没(60歳)

 

 

20歳の時に尚徳を生んでいるということは、
オギヤカと金丸の結婚は
その1年前か、2年前か、
とりあえず数年前ということになりますね。

 

個人的なポイントとしては、

金丸がまだ第一尚氏高官の、
尚徳王とバチバチしている時に結婚&尚真出産、

その後、金丸が隠居して内間村で細々と暮らしている時も
幼子尚真もつれて(場合によっては月清らも出産してて)
金丸について行っていただろう、

ということです。

これまでのオギヤカイメージだと、
「田舎暮らしは嫌!私は首里にとどまるわ!」
と言って別居してた可能性も無きにしも非ずですが…

でも金丸が引退&隠居となると、
離縁しないで完全別居とは考えにくいような?

 

生い立ちなどその人となりは
謎の多いオギヤカですが、

当時の世の中の動きを
年齢ごとに追っていくと
またオギヤカのイメージが変わってきませんか?

 


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書家・尚育王

2014年08月28日 | ・琉球史散策/第二尚氏

テンペストでもお馴染の文化人、尚育王。

違う記事準備してたけど、
やっぱり今日はコレかなぁ。

 

尚育王の「書」発見 1838年、国宝級
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-230773-storytopic-6.html
(写真あり)

 

gooニュースのトップにも出てたよ。

 

尚育王の書は
以前、那覇市歴史博物館でも見たことがあります。
伊江御殿家資料

1830年ごろの書らしいので、
生年の1813年から計算すると、17歳の頃の書がこれです。

“書家”尚育王、納得です。

 


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古琉球の聖母

2014年08月20日 | ・琉球史散策/第二尚氏


尚真王の素晴らしい行いを讃えた碑文、
「国王頌徳碑」

今は復元されたものが
首里城レストセンター前の芝生広場に建っています。

この碑文には第一尚氏王統時代、
盛んに行われていたという「殉死」を
尚真王が禁止したということが書かれています。

 

参/「あやしい!目からウロコの琉球・沖縄史」(上里隆史著/ボーダーインク)

 


尚真は母・オギヤカが死んだ時に
殉死を禁ずる命令を出したそうです。
(who's オギヤカ?→  

では実際にはなんと書いてあるのでしょう。


碑文の中から
オギヤカの記述部分を探せ!

 

 

オギヤカ、オギヤカ、オギヤカ…

 

 

 

答えはこちら↓

 

 

 

「聖母入滅」

 

オギヤカ=聖母。

 

いや!分かってる!
そうとも言うだろうさ!
別におかしいことじゃないだろうよ。

でもやっぱり現代のワタシタチに取っては
聖母=マリアのイメージが強いから
直球で聖母と書かれると
なんだかオギヤカのイメージ変わりますよね~(笑)

いや、もしかして、
オギヤカが自ら、
自分が死んだ時は殉死させぬよう
尚真に遺言していたとしたら……

まさに“聖母”オギヤカだったのかもしれない。

 

オギヤカ主人公の物語できないかなー。
「オリオンびあぶれいく/斎場御嶽ものがたり」
も止まってるしな―…。


コメント (2)
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“濱元りえこ”さん

2014年06月19日 | ・琉球史散策/第二尚氏

“濱元りえこ”という人をご存知ですか?

実は、王国時代に大活躍した芸達者な美人さんで、
その人気は江戸にまで広がっていたという
琉球が誇るアイドルグループの一人。

 

…と、ここまで書けば、
勘のいい方はもう分かったはず。

 

 

 

濱元りえこさん。

 

 

 

この方です。

 

 

 

 

 

濱元里之子!

 

正しい読みは、はまもとさとぬし。

 

琉球版ジャニーズ(Jr)、楽童子の一員でした。

what's 楽童子? →   

 

正しく楷書で書かれた「里之子」を見るとそうでもないんですが、
ワタシが書いたメモ字の「濱元里之子」を見たウチノコが一言。

 

 

 

 

 

「はまもと…りえこ…?」

 

 

 

 

なるほど。

 

それもアリやね(笑)

 

それなら「小禄りえこ」さんもいるわけで(笑)

 

という訳で、濱元里之子こと、濱元りえこさんを
現代画バージョンで☆

 

 あ、ちななみに「里之子(さとぬし)」とは
身分(階位)をあらわす単語です。

親方(うぇーかた)とか、親雲上(ぺーちん)とか、そういうものの一種。

 


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おおあむしられ

2014年04月29日 | ・琉球史散策/第二尚氏

このブログには下書きをしたまま放置して
いつの間にか埋もれてしまっているのがいくつかあります。

それをちょっと発掘してきたので
UPしたいと思います。

(本日二投目)

 

というわけで、
三十三君は横に置いておいて、
(→ 追記 うをぅ、三十三君記事もほったらかしたままだ…)
その性格と立ち位置がハッキリと分かってる
「三平等(みひら)の大あむしられ」について。

神女組織の頂点はご存知、聞得大君。
そのすぐ下に位置するのが3人の高級神女。

その名も
「首里大あむしられ」「真壁大あむしられ」「儀保大あむしられ」

3人まとめて「三平等の大あむしられ」

この3名が琉球を3分割した間切・島を管轄していました。

三司官が国王をトップにした男の世界での3大臣なら、
三平等の大あむしられは聞得大君をトップにした
宗教世界の3大臣ってトコです。

それにしても

あむしられってスゴイ響きだよね。

漢字で書くと阿母志良礼
「あむ」は「母(神女)」
「しられ」は「治める」

という意味があるそうですよ。

その、「真壁大あむしられ」の住居跡が
首里高校隣、中山門跡すぐそばにあります。

現在は「琉染」という染物工房になってます。


写真は'11,2撮影。
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中頭方西海道(尚寧王の道)

2014年02月21日 | ・琉球史散策/第二尚氏

琉球古道を歩いてみようシリーズ。
(前回は中頭方東海道

ホントは国頭方西海道を先に行ったんだけど、
明日から「琉球オペラ・アオリヤエ」が始まるので
関連して、中頭方西海道(尚寧王の道)を!

浦添尚家の尚寧が王位についた時、
実家の浦添と首里とを行き来しやすくするために
首里城⇔浦添グスクを整備しました。
(※西海道自体は国頭まで続きます)

首里城スタートで浦添グスクを目指します。

中城御殿の脇を通って下之道(しむぬみち)を行きます。

中城御殿の角は耳切り坊主の出現ポイントとして
ミステリースポットの1つ。

途中に、三平等のおおあむしられの一人、
首里のおおあむしられが司る由緒ある安谷川御嶽(あがにがーうたき)。

続いて、仲田殿内(なかだどぅんち)跡にある玉那覇味噌醤油店。

ウチナー紀聞で紹介してた!
(テンションあがる(笑))

首里城下町で敷地が広くて立派な石垣の家があれば
かなりの確率で士族の家かもしれません。

そんな民家の隙間にポンっとあった安谷川(あだにがー)。
カー(泉)です。

旅人はここで旅の汚れを洗い清めてから
首里に入って行ったのだとか。

そのまま下ると儀保交差点に出ます。

首里と浦添の境目でもある太平橋。

薩摩侵攻の時の最後の砦にもなった戦場。

…あれ、川も橋も思ってたより小さかった

そして1番の難所のフェーヌヒラとニシノヒラの2つの急な坂道。

途中、浦添御殿の墓に寄り道したら、
マジムンを閉じ込めているという経塚の碑前を通ります。

さて、ゴールの浦添グスクももうすぐそこ。

安波茶橋エリアは整備も行き届いていて
いい雰囲気でした。

途中、Y字路になってて左が西海道なのですが
目前の浦添グスクを目指して右へ行きます。

そして浦添中学校(番所跡・龍福寺跡)、小学校の前を通って
浦添グスクへ!

ワタシの記憶では草ボーボーで
鬱蒼としてた浦添グスク(前の碑側)だったんですが
スッキリして雰囲気ががらっと変わっててビックリでした。
(碑を見るまでグスクのどこなのか分からなかった

 

今回の西海道の道のりも、特に浦添に入ってからは
案内板や表示があるので御安心あれ。
(浦添市教育委員会がリーフレットも作っていますヨ)

本当はもっと細々としたポイントがいっぱいあるのですが
是非、春の歴史ハイキングでお確かめ下さい

 


 今日もご訪問ありがとうございます。
ぽちっと↑クリック応援してくれたら嬉しいです☆

ところで浦添グスクの為朝岩、なんかしてない??
足場が組まれているような…。
遠目に眺めつつ近くまで行けてないので気になってマス。


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ペリーの旗立岩

2013年11月25日 | ・琉球史散策/第二尚氏

わけあってかなり思い出深い場所になってしまったので
ちょっと先にピックアップしておきます。

中城にある、このそびえたつ岩には名前があります。

「ターチー(2つ)岩」

しかし今はこの呼び名の方が有名かも。

 

「ペリーの旗立岩」

 

ペリーっていったら、あのペリーです。

「カイコーク シーテ クーダサーイ

のペリー。

 

その黒船ペリーが先に琉球に来ていたことは
テンペストでも描かれたこともあってもう有名ですね。

ペリーが琉球に滞在したていたとき
一行は琉球の色々な所を巡ってスケッチに残しています。

そのスケッチやメモは
『青い目が見た大琉球』(ニライ社)として
発行されているので是非見てほしいのですが、

そのスケッチの中に、この岩が出てくるのです。


岩山征服(笑)

…征服ってほどの岩では…。

確かに予想よりも大きくて高かったけどさ。

 祝砲まで打ってるし(笑)

よっぽど岩とそこから見える風景に感動したんでしょうね。

 

「あったー ぬーそーが」
って遠目に見てるウチナンチュたちの姿がなんかおかしい(笑)

スケッチではもっと岩がとんがってるけど、
戦争とかで破壊された(削れた)のかな…。
(それともアングル?)

前にこの岩を写真で見た時は
岩に木が茂っていて形を確認することはできなかったけど
今の状態なら多少高さは低くなってるとは言え
確かにスケッチの岩だと判断できますね

特に左の岩は分かりやすい。

案内板より拡大してお送りしました~。

 


ラスト写真はもちろんイメージ合成です。

今日もご訪問ありがとうございます。

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名護親方生誕350年記念展示会

2013年11月08日 | ・琉球史散策/第二尚氏

名護親方・程順則、生誕350年記念展示会が、
名護博物館で開催中です。
あさって日曜日まで。
入場無料。

展示スペースは小さいですが、
本物の史料は見応えがありました。
特に程順則の三枚の肖像画!
(琉装姿↑のは有名ですが、残りの二枚は超レア物!)
印刷のモノクロ版でしか見たことなかったのですが、
カラーの実物だと細部までじっくり観察でき、新たな発見も♪

三枚が揃って見られる機会はなかなかないので、
どうぞお見逃しなく!


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久米島の天后宮

2013年10月20日 | ・琉球史散策/第二尚氏

久米島にある天后宮(てんこうぐう)。

航海の神様、媽祖(まそ)を祀ったお宮。

那覇の久米にある上天妃宮(跡)と同じ種類です。

那覇のは天妃、久米島のが天后と呼び方が変わっているのは、
媽祖さんに与えられた称号が時代によって変化したため。

天妃は元代、天后は清代に皇帝から与えられた称号だとか。

確か位が違って、天妃<天后じゃなかったかな?
(記憶違いだったらゴメンナサイ;)

 天后宮の瓦葺屋根。

ぴったり重ねた二重屋根とは珍しい。

菩薩堂(ブサードー)とも呼ばれています。

県指定の有形文化財建造物になっています。

一歩中に入ると供えられた泡盛の香りが。

中には媽祖像。
左右には千里眼、順風耳の二神もあったそうなのですが
どちらも戦後損壊し、なくなっています。

 さて、なぜこの久米島に天后宮があるのか。

1756年、尚穆(しょうぼく)王の冊封のためにやってきた
冊封使一行が台風で座礁。

島の住民らによって全員が無事に助けられ
冊封も無事に行うことができた

という出来事に由来するそうです。

詳しくはこちらをどんぞ↓


クリックすると拡大します。 


広場には円形場。

側にある石碑は
「琉球国新建姑米山天后宮碑記」

風化してて文字はなかなか読みとれませんでした

 

 

媽祖さん。


媽祖。。。

 

リンちゃん。。。

完全ほっからかし。。。;;


 


今日もご訪問ありがとうございます。
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